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"私の人生つまらない"

前回書いたことについて、もう一つの現れ方が、つまらない、だった。

部屋を移ってから毎週、私の人生はつまらない、と感じていた。↓の記事でも言っているので、最近のテーマだったのだろう。


予測できる人生

Christmas villageの準備が進んでいるsquareを横目に、寒い川沿いに座り、このままじゃつまらないな、焦るな、何も成し遂げられていないな、もっと速く変わりたいのに、何もできていないな、と感じた。私の人生、これから50年は生きるけれど、毎日が同じことの繰り返しで、見えていて、予測できる範囲内にしかなくて…つまらない。

「エストニアにいる時点でつまらなくないよ」ときっと言われることだろう。だけど、どこに住んでいても、文化の違いはあっても、人それぞれに家族や友達がいて、生活が続くのは同じ。もちろん仕事の中身が違ったり、人間関係でもやもやしたりするけれど、基本的には生活が続くだけ。ただ安全な、平穏な生活が、それぞれにあるだけ。

そもそも人生に意味なんてないのだから―何も成し遂げなくていいし、評価も気にしなくていい。たとえば来年卒業できなくても、成績が悪くてpassできなくても、関係ない。私にはきっと子供も残せないだろう(え?)。自分のlegacyを残すことはできない。だから、今はまっているものを楽しんで幸せに過ごしていていいんだよ!ということでもあるし、こう考えてしまうほど、今不安が強いということでもある。

つまらないなら、変えようじゃないか、と変化もしてきた。やせたい気持ちが変わらずあるなら、残り2か月運動してみようかと、ほぐしと筋トレを強化した。前はもみ返しで痛かったけれど、最近は楽になったのがわかる。ほぐしをやって血の巡りがいいらしく、このところ最近肌の調子がすこぶる良く、口の色が赤く、はっきり、ふっくりしている。Zoomでの自分の様子を見ていて、口を開けよう、表情を動かそう、思ったことはすべて言おう、だって何か考えていて殺しているの見え見えなんだもの、と思ったりもした。K-POP danceだって始めた。
だけど…である。毎週、つまらない、と思っていた。

もっとすごいものがふさわしいのに

「私はもっといいものが値するのに!」という思いが、常にあった。それは、"自分の過去を知っている人が何十人もいる環境なんて嫌だ"という思いから、少し離れた高校に行くことにしたときからかもしれない。この時点で、私の小中、特に小学校でのことは、自分にとって汚点で恥ずかしい過去だった。そんなもの知られたくない。リセットしたい。そういう思いだった。かといって高校が華々しかったわけではなく、卒業した日に、こんなんじゃなかった、もう一度最初からやり直したい、と思ったくらいだ。

何かを成し遂げなければ、私には経歴なんてない、と思ってしまう。それならと新しいことを始めても、毎日1を積み上げていても1が続くだけで、底辺でしかなく、劇的に増えて行かない。一歩ずつでは加速して行けない、今すぐ手に入らない。ポテンシャルがあるとはよく言われるが、そうやっているうちに、いまや新しいことを始めてそれを仕事にしたり、才能を伸ばしたりするような歳ではなくなってしまった…と。

毎日1を積み上げることが合っていないのだろうか、そもそも私って注意深くやっていくタイプなんだろうか。私は燃えたいのかもしれない。もっとがらっと変えてしまえるのだけのパワーがあるのだろうか。それでも今は何もない…と、振り出しに戻ってしまう。

何もしなくても愛されたい

今やるべきことは色々あるものの、少し大きくて手を付けるのは大変そう。しかも基本的にはひとりでやらないといけない。めんどい。
だけどある程度は行動もしないと引き寄せられない。自分を解放していけば、見合ったものが入って来る、という結論に至り、その時はふわっと幸せだったのだが、要するに誰にも相談できず、ひとりでやっていくしかないということは、変わらなかった。
なぜそうなってしまうかと言えば…私は宇宙人で、そのままでは理解されないから合わせなきゃいけないと思っているからである。

私ができることや持っているものに価値を見てもらっても、それが与えられるものと言われても、嬉しくない。いるだけで価値があると、受け入れられ愛されたい。つまり私は疲れているのかもしれない。がんばりたくないんだな。休むべきかな。

考えてみれば、この虚しさみたいなものは、そろそろ抱えるのは限界に来ていて、逆に言えば手放すことができるようになった合図だったのだと思う。誰かに何とかしてほしいと思っていて、でもそれがかなわないから、途方に暮れていた…というか、悲壮焦燥だった。私は無力だ。やりたくもない。誰かに何とかしてほしい、と。

続きます。

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