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【エッセイ】 父と桜と平城宮跡


お花見は平城京で

今年と去年はお花見ができなかったが、その前の春休みは息子を連れて奈良の実家を訪れた。
実家から平城宮跡が近く、私が幼い頃からお花見と言えばここだった。
だだっ広い史跡ながら、我が家がお弁当を広げる場所はいつも決まっていて、目印がないのでなんとも説明しにくいが、立ち並ぶ桜の下を歩いていると父が「よし、ここにしよう」と言うその場所がいつも同じなのだ。
当時の私は特に桜を美しいと感じる年齢でもなく、ただの春先のピクニックなので場所はどこでも良かった。

2019年のお花見は、両親と私、息子、姪っ子の5人。
母がお弁当を作り、中学生の孫たちがおにぎりを握った。
ふたりが賑やかにおしゃべりしながら握ったおにぎりは、サイズが驚くぐらいまちまち。それを大きめのコンテナに詰めて、みんなで平城宮跡に向かった。

お弁当や飲み物、レジャーシートなどは姪っ子と息子が持ち、父の荷物はお気に入りのペンタックスのカメラ、母は小さなショルダーバッグ。
軽装の両親は孫たちの歩くペースから徐々に遅れて行く。
私は先を歩く子供たちに声をかけつつ、後ろから来る両親の様子も見る。


私が子供の頃は、と思いを馳せる。
自転車の前カゴにお弁当の包みを入れ、父の後ろを走った。
弟が私の前にいたか後ろにいたか。
母は早足で歩いていたと思う。
きっと、私が感じていたよりはるかに遅いスピードで3台の自転車は進んでいたのだろう。

住宅街を抜け、うっそうとした林に抱かれた神社脇を過ぎると目の前が開け、広大な、と言うよりだだっ広い平城宮跡の端っこに出る。

やっぱりこの場所

まだ風が肌寒い。
ぶらぶら歩きながら、子供たちが祖父を振り返る。
「おじいちゃん、このへんにする?」
「いや、もうちょっと行こ」
いとこたちは何やら話しながら先に進む。
父はゆったり歩きながら周りを見渡している。
「よし、ここにしよう」
その声に孫たちが振り向いた。
ああ、この場所ね。
目印があるわけではないが、ここが我が家がいつもお花見をしている桜の木の下だ。
父はどうしてここが好きなのだろう?
景色はどこに陣取ったってそれほど変わるものではない。
トイレに近いわけでもないし。

吹く風にシートがめくれるのを子供たちが笑いはしゃぎながら押さえている。
私が素早く四隅をバッグや水筒で押さえた。
みんなで靴を脱ぎ、シートにくつろぐ。
他にも小さな子供を連れた家族が何組かいる。
週末は花見客でひしめき合うが、平日の今日はのどかな風景が広がっている。
遠くの方から電車のカタカタ走る音が聞こえてきた。
今日は南風のようだ。

おにぎり、卵焼き、唐揚げ、ウィンナーソーセージ。
子供の心をがっちり捉えた品々が次々と消えていく。
両親はそんな孫たちをうれしそうに見ながら、学校はどう?とか、どんなことを勉強しているの?とか話しかけている。

「うちは昔からこの辺でお花見してたよね」
私が言うと、父が意外な返事をした。

「お父さんがちさい(小さい)頃な、ちょうどこの辺がうちの畑やったんや」

父と平城京

昭和16年生まれの父は、奈良町の近くで育った。
夏に生まれ、ちょうど100日参りの日に真珠湾攻撃があり、戦争が始まった、とか、自宅の前で生駒山方面が真っ赤になっているのを眺めていると、父の手を握っていた祖母が「大阪が火事になってるみたいや」とつぶやいたこととか、そういう話はたまに聞いていたけれど、平城宮跡に畑、は初耳だった。

平城宮跡は、長岡京に遷都後、明治後期まで特に注目されることもなく、一面田畑だったそうだ。
明治後期に、棚田嘉十郎という人物が平城京が眠るこの土地を買収しようとしたが、そこで農業を営んでいる人々からの買い取りは難しかったらしい。
父でさえ、子供の頃は「この下に平城京が埋もれているらしい」程度の認識だった。

戦争が終わり、平城宮跡は市民農園となった。
父の一家も一区画が割り当てられ、まだ4歳か5歳だった父は、一緒に暮らしていた父の祖母と手押し車に簡単な農機具を積み込んで、片道1時間ほどかけてここへ通ったそうだ。
秋にさつまいもを掘り、それを手押し車いっぱいに積んで帰ったことがうれしかった、と話してくれた。

「この辺がな、うちに割り当てられた畑やったんや」

だから父はお花見の時にこの場所を好むのだと、2019年春、私は初めて知った。

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yoshie*美江
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