参謀本部編纂『日本戦史 関原役』における関ヶ原の戦いの布陣図の成立過程についての雑感 〜『関原戦記略』を手がかりとして〜
関ヶ原の戦いにおける布陣という史的事実の図示として見るとき、参謀本部編纂『日本戦史 関原役』の付図には問題が指摘されています。
ただ、編纂委員長 川上操六の緒言にある「我邦古来の戦闘に就き之を兵学に適すべく記述せんとする」という趣旨に照らして、この付図で表現しようとした状況の軍事的解釈とはどのようなものだったのでしょうか?
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例として、白峰旬先生(❶ p.56)の挙げる参謀本部図の問題点の一部を考えてみます。
①福島正則の横に位置すべき井伊直政・松平忠吉が、かなり離れて筒井定次の横に描かれている。
井伊は福島の脇を抜け駆けしたはずである。
②藤堂高虎・京極高知の前に、その進路を妨害するように福島正則が斜めに布陣している。単独かつ斜めの配置は疑問である。
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最近、明治23年1月刊行の『関原戦記略』を読んでいて、この文献が参謀本部図を読み解く手がかりになるのではないかと思いました。
川上操六を統監として22年10月に行われた濃尾地方での参謀旅行の折に部員が教官ヴィルデンブルヒに関ヶ原の戦いについて説明した内容を筆記した書物です。
https://x.com/cuniculicavum00/status/1881656511266746387
『関原戦記略』の編者は竹内正策 陸軍少佐、横井忠直 陸軍教授です。
cf. 『関原戦記略』p.3
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『明治二十二年十月尾濃地方参謀旅行記事』によると、竹内正策は専修将校として参加しています(p.2)
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また、ヴィルデンブルヒ教官に設問の徒渉点調査を説明する際に関ヶ原の戦いの池田輝政を例に挙げて回答しています(東軍 作戦十月五、六、七、八日p.168)
https://x.com/cuniculicavum00/status/1882013432289067519
したがって、『関ケ原戦記略』の序文で川上操六が記しているところの、参謀旅行の際に関ヶ原の戦いをヴィルデンブルヒに「部員をして誦説せしめ」たという「部員」とは、竹内正策のことであると考えられるでしょう。
『日本戦史 関原役』は明治26年刊ですが、その起稿は22年です。
そして、その編纂委員として竹内正策と横井忠直は名を連ねています。
cf. 『日本戦史 関原役』p.6
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したがって、『関原戦記略』に記されている関ヶ原の戦いの説明は、『日本戦史 関原役』の初期の編纂過程における解釈だと考えても良いのではないでしょうか。
注目すべきことに、『関原戦記略』の本文説明や付図(布陣図)は『日本戦史 関原役』とは異なっています。
福島正則が離れて斜めに位置するのは同じです。
しかし、井伊直政・松平忠吉は黒田長政〜田中吉政の右翼隊とは並んでおらず、独立して先行しています。
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この位置関係は、本文の説明(p.14)を見るとより明瞭です。
また、藤堂高虎・京極高知は松尾山の敵への備えとして別正面へ展開するように記されています。
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『関原戦記略』(13ff.)による交戦までの経過は次のようになります。
①午前4時、街道を西進する東軍は霧中で西軍の後尾と接触
②8時に霧が晴れ、福島が宇喜多と弓銃による射戦を開始
③8時30分、号令により白兵戦を開始。まず井伊・松平が島津と、続いて福島vs宇喜多、黒田他vs石田、本多vs島津・小西、藤堂・京極vs大谷の部下と交戦
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『関原戦記略』付図の配置は午前8時の点ですので、白兵戦開始の30分前であり、霧が晴れ始めたときを表しています。
つまり、福島は街道筋に沿って前進中に宇喜多の後尾と接触し、旋回して宇喜多と正対し、射戦の距離を保って対陣している状況です。
そして、白兵戦の開始は、付図の場面から30分の間に福島を左翼基準隊として本多、井伊・松平、黒田以下が開進して並列の正面を形成して行われたと解釈しているのではないでしょうか。
また、福島の攻撃前進に後続して藤堂・京極が左翼に進出し、側面防護の鉤形に展開したと想像しているように思われます。
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一方、『日本戦史 関原役』(205ff.)は次のように叙述します。
①黎明頃、福島が宇喜多の後尾と衝突。東軍の後続は順次駐止。
②東西両軍は隊伍を整頓して対立。7時を過ぎても開戦せず。
③8時頃、井伊・松平が次を超えて進み福島の側に出て、宇喜多に向かい戦端を開く。
④福島が中山道の左に進み宇喜多を銃撃。
④銃声を聞き他隊も攻撃。藤堂・京極他vs大谷、織田他vs小西、黒田他vs石田。
④本多は緒戦には参加せず、戦闘劇烈となり味方が劣勢となるのを見て戦闘面の中央に出戦(p.210)
諸隊の区分や動きをより細かく述べており、『関原戦記略』のようにシンプルな説明ではありません。
白峰先生(57f.)は、『日本戦史 関原役』の本文と付図には矛盾があると指摘しています。
ここで個人的に気になるのは、『日本戦史 関原役』(p.206)の本文において付図第5号の示す配置に言及した箇所です。
早朝における両軍の接触を述べた直後で次のように記されています。
「是に於て東軍先頭の諸将西軍の皆駅西に駐り我進路を扼するを知り之を後方に告げ順次駐止し以て濃霧の霽るるを待つ兵数総計七万許其位置図上に示すが如し付図第五号」
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付図本体には8時前後の配置を示すと注記されていますが、本文からは7時以前の状況を図示しているようにも読めないでしょうか?
「各自其隊伍を整頓し駅址の東西に対立せり而して午前七時を過ぐるも戦闘未だ始らず」(p.206)としていますが、「隊伍の整頓」という表現が気になります。
行軍時に敵と遭遇したまま順次駐止した態勢から攻撃に移行するのは近代的な「兵学に適し」てはいません。
『関原戦記略』では付図を8時、攻撃前進を8時30分としているのに対し、『日本戦史 関原役』では井伊・松平の抜け駆けなどを挿入した結果、両軍の交戦開始がやや早まった記述となっているのではないでしょうか?
つまり、『日本戦史 関原役』は文献学的な考証の進展を盛り込んで本文の叙述を修正し、付図も諸将の配置などを部分的に修正したものの、『関原戦記略』における兵学的な解釈の原型イメージの残滓を引きずっているように思いました。
『日本戦史 関原役』に先立って明治25年に刊行された神谷道一『関原合戦図志』の布陣図と参謀本部図の関連については、従前より指摘されています。
神谷道一は、明治19年に岐阜県知事小崎利準に勧めらたことを契機に研究を始めました。
cf. 小池絵千花先生20f.
メッケルが私的旅行で関ヶ原を訪れて史跡等を巡ったのも同じ19年1月であり、岐阜県の土木課長と学務課長の出迎えを受けています。
cf. 白峰先生❷116f.
22年9月、参謀本部の日本戦史編纂委員は関ヶ原で現地調査を行い、神谷道一が案内をしました。
神谷は、22年10月の岐阜県知事小崎利準の指示による各武将の推定布陣地への標柱建立にも参加しています。
そして、神谷が『関原合戦図志』の出版前に査読を受けたとしている人物には竹内正策と横井忠直も名を連ねています。
cf. 小池先生20f.
ヴィルデンブルヒ、川上操六、竹内正策が参加した濃尾地方の参謀旅行も22年10月です。
これらの日本戦史編纂に至る過程においては、ドイツ人教官や民間学者との交流が密接に関わっているように見受けられます。
(参考文献)
神谷道一 『関原合戦図志』,小林新兵衛,明25.5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/772842
小池絵千花「関ケ原合戦像の変遷とその背景」『第1回「関ケ原研究若手研究者支援事業」成果論文集』関ケ原古戦場記念館, 2024
参謀本部 編『日本戦史』関原役,元真社,明26-44. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/771074
参謀本部 編『日本戦史』付図・付表, 関原役,元真社,明26-44. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/771071
❶白峰旬「関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察」『別府大学大学院紀要』15号, 2013
❷白峰旬「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説 : 司馬遼太郎氏の発言を検証する」『史学論叢』2022
竹内正策 等編『関ケ原戦記略』,原定吉,明23.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/772851