雑感 : 斉射、反転行進、そして古代ギリシア・ローマの弓戦について

古代や中世においては、弓兵が号令に基づいて全く同じタイミングにより「斉射」を行ったかというと、疑問があるでしょう。

小人数の集団であっても、弓を引いたまま長時間待つことは難しい、動く標的へ放つタイミングは個々に異なる、といった不具合が考えられるからです。

cf. Loades, 67f.

とはいえ、少なくとも射撃の開始を号令により統制する場合があったことは史料から読み取れます。

後2世紀のランバエシス碑文には、ハドリアヌス帝が「敵が迫ってきたときには、合図ad signumにより放つのではなく、手を緩めず連射を加えて敵が盾から頭を出せないようにしろ」と講評した一文が残っています。

つまり、距離があれば合図に応じて矢を放つことがあったのでしょう。

cf. Speidel, p.12; 50ff.

また、クセノフォンの『アナバシス』(5.2.12)には、合図とともに矢を放てるよう弦に矢をつがえておくことを指示した記述が出てきます。

中世では、アジャンクールの戦いにおける「Nestroque」という号令が知られています。

イングランド長弓兵の弓戦は、トランペットに続く彼らの「Hey, hey」というリズミカルな狩猟のかけ声と共に始まったのではないかと言います。

cf. Soar, p.5

タイミングを個々の兵士に任せ過ぎると射耗が早すぎるといったデメリットもあるでしょうから、射戦を統制する必要はあったでしょう。

例えば、クレシーの戦いにおいて「仮に」100万本の矢が使用できたとしても、7,500人とも言われる弓兵が1分に8本づつ放ち続けるならば16分で射尽くしてしまいます。

cf. Loades, p.69

とはいえ、16世紀の銃兵のような隊列ごとに斉射を繰り返す「連続斉射」の必要性は想像し難いでしょう。

訓練された弓兵は、かなりの早さで矢をつがえ、連続して放つことができますから、発射速度を高めるために連続斉射のような方法を用いなければならないということはありません。

特に、反転行進射撃のような兵士の移動は、かえって混乱を招くだけでしょう。

さて、反転行進射撃と言えば、16世紀末のオランダ軍制改革においてウィレム・ローデウェイクが古代の戦術書であるアエリアヌスに基づいた着想を記していることで有名です。

このアエリアヌスの反転行進法について、M. Dahmという方がAcademiaに面白い一文を投稿しています。

ファランクスの運動法としてはマケドニア式やラコニア式といった名称は理解できるけれども、ローデウェイクに影響を与えたクレタ式(又はコリオス式)には違和感がある。これは、高名なクレタ弓兵が反転行進により弓を放ったことを示しているのではないか、という仮説を提唱するものです。

この着想をもったのはDahmが初めてというわけではなく、N. V. Sekundaもアスクレピオドトス(10. 13-15)のクレタ式反転行進の記述に関して博士論文で示唆しているようです。

cf. Sekunda, N. V. Cretan archers: Cretan mercenaries abroad, c. 750–27 B.C., in their Cretan and international setting. Diss. Manchester, 1981(未見); Lewis, p.8 注39

他に史料上の根拠がないのであれば議論を深めることは難しく、上述のとおり弓矢で反転行進を行う必要性も疑問ですので、単なるアイデアに過ぎない説のように個人的には思います。

しかしながら、古代ギリシア・ローマの弓兵について再考するきっかけとしては、なかなか面白い話ではないでしょうか。

クレタ人の弓兵については、クセノフォン(Anab. 3.3.7; 15)がペルシア軍の大きな弓に対して射程で劣っていたと述べている箇所が有名です。

W. McLeod(13f.)は、この部隊が丸木弓を使用していたと見なし、ペルシア型の合成弓のほうが射程距離が長かったと捉えています。

一方、D. Head(p.193)は、後にクレタ人部隊がペルシア軍の矢を拾って用い、射角を高くして遠矢の練習をしたところ射程の不利はなくなったと記されていることから、弓の性能差というよりも矢の軽さと交戦距離に関する戦術の差だと推測しています。

Headは、クレタ人部隊の弓は合成弓だったと考えているようです。cf. Head, p.208

弓具に関しては、クセノフォン(Anab. 3.3.16f.)のテクストについて、ペルシア人の弓と矢を鹵獲したのか、矢だけ拾ったと見なすのかという解釈論も関係して、なかなか難しい問題です。

しかしながら、ギリシア人、特にクレタ人の弓兵の一般的な戦術が、現代の我々が弓戦と言われて想像するようなスタイルとは異なっていた可能性を示唆する記述だとは言えます。

現代人は、弓戦と言うと、静止した兵士の集団が遠距離から多数の矢を高く打ち上げて雨のように降らせるイメージを思い浮かべることが多いでしょう。

しかし、Kambouris et al.(p.165; 167)は、ペルシア人の遠距離からの曲射に対して、古代ギリシアの弓兵は錯雑地でも軽快に走り回りつつ接近して直射を浴びせるような機動的な弓射戦術を得意としたのではないかと推測しています。

もちろん、既にイリアス(13.716-22)において「後方から隠れて矢石を放つ」と歌われているとおり、ペルシア人のような戦い方を知らなかったわけではありません。

クセノフォンが述べているように、クレタ兵はペルシア人の遠距離用の矢を鹵獲して練習し、すぐに対抗できるようになっています。

しかし、特にクレタ流の武装や戦術が上記のような機動性、軽装歩兵的な運用を特徴としていた可能性はあるでしょう。

クレタ兵は時に盾を携行しており、剣など接近戦の備えを持っていたことがクレタ流の普及の一因だったのかもしれません。

cf. Head, 208f.; Lewis, p.8; Anders, 2011, 60ff.

もちろん、投槍などで武装した軽装歩兵とは、装備や得意とする戦術に違いはあったでしょう。

フィリッポス5世のマケドニア軍とローマ軍の騎兵の交戦において、前者に随伴したクレタ弓兵は後者に随伴したウェリテスに接近戦の備えで遅れをとったとリウィウス(31.35)は記しています。

クレタ弓兵は防具を身につけておらず、緩い隊形での流動的な戦い方をしていたため、剣と楯を持ち、立ち止まっての攻防に対する備えをもったウェリテスに蹴散らされたと言います。

とはいえ、後の交戦では緊密な隊形をとって戦い、分散していたローマ兵を撃破してもいます。 cf. Liv. 31.37

その違いは、さほど大きなものではありませんでした。 cf. Anders, 2011, p.60

いずれにせよ、クレタ弓兵が軽快な足の速さを特長とし、騎兵に随伴するような任務に用いられていたことは注目に値するでしょう。 cf. Liv. 31.36

このような戦闘様式は、共和政期ローマの弓兵運用にも当てはまるのではないかと推測を広げることができます。

もともと、共和政期のローマ軍は自国民による固有の弓兵を持ちませんでした。

もちろん、敵味方となった諸外国人が使用する弓矢には馴染みがありました。

しかし、ローマ軍による外国人弓兵(sagittarii)の使用が推測されるのは、第2次ポエニ戦争の頃からです。

前216年、シラクサのヒエロン2世が1,000人の弓兵と投石兵をローマに提供しています。
cf. Liv. 22.37

また、前207年にはガイウス・マミリウスがシチリア島から約3,000人の弓兵と投石兵をイタリアへ送っています。
cf. Liv. 27.38

そして、第2次ポエニ戦争後からは、同盟/補助軍としての外国人弓兵の使用が広まっていきます。

cf. Eadie, p.166

前189年のオリュンポス山の戦いでは、ペルガモンのアッタロス王などから提供されたクレタ人弓兵や投石兵がウェリテスとともに前進して攻撃を開始したと言います。
cf. Liv. 38.21

ウェリテスなどの軽装歩兵と同じように運用され、クレタ弓兵は重装歩兵の前進を先立って援護する役割を果たしていたと考えられます。

ウェゲティウス(1.15)は大カトーの著書『軍事論』には優れた弓兵の有用性が示されていると述べていますので、前2世紀中頃には弓兵の使用がかなり普及していたと思われます。

ローマ人指揮官の下での具体的な戦闘に関する記録としては、前133年のヌマンティア攻囲でスキピオ・アエミリアヌスが軍団兵の各百人隊に弓兵を分置したとするものがあります。

cf. Front. Strat. 4.7.27; Veg. Mil. 1.15; Ureche, p.10

この百人隊に付置したという記述も、弓兵がウェリテスと同様に運用されていた可能性を示唆していると思います。

前1世紀になると、同盟/補助軍の弓兵が一般的に用いられている様子が史料から窺えます。

例えば、カエサルはガリア戦争でクレタ人やヌミディア人の弓兵を活用しています。 
cf. Caes. BG. 2.7

こうした弓兵の運用について、後1世紀頃の戦術書であるオナサンドロスに非常に興味深い記述があります。

オナサンドロス(17)は、弓兵を重装歩兵戦列の前方に配置するよう推奨します。 
cf. Veg. Mil. 2.17

そうすれば、標的に対して矢を放つように敵を射ることができる、すなわち直射できるからだと言うのです。

弓兵が重装歩兵戦列の後方や間に位置する場合、(味方を避けて)高く射上げられた矢は落下する時には威力を失ってしまうとしています。

それでは、重装歩兵の戦列の前方において、弓兵はどのように戦ったのでしょうか?

かつてのウェリテスは、動的かつ流動的な不定形の群れで戦ったと考えられています。

cf. Anders, 2015, p.281, 286f.; Lendon, kindle.loc. 2906

しかし、雲霞のように散開していたにせよ、その戦闘には何らかの力学が働いていたと推測することはできるでしょう。

Anders(2011, p.205)は、活発に交戦する前方と後方の待機部分、それらを行き来できるような自由移動ゾーンが生じたのではないかという仮説を述べています。

あえて想像を逞しくするならば、専門的な技能を有するクレタ弓兵の集団ならば、1人づつ進み出ては矢を放って離脱する反転行進や、あるいはカラコールに似たような戦術運動を行ったということもあり得るでしょうか?

投槍とは異なり、走り回りつつ矢をつがえて連射するのは難しいように思われるからです。

上述のような視点から考えてみると、ローマ人と弓矢の関わりというテーマにおいては必ずと言ってよいほど言及されるカルラエの戦いについても、また違った一面が見えてくるかもしれません。

プルタルコス(Vit. Crass. 24)は、緒戦において強襲を目論んだパルティア騎兵がローマ軍の戦列に動揺がないのを見て引き返し、距離を取って取り巻いたと述べた後、クラッススが軽装歩兵に出撃を命じたと伝えています。

軽装歩兵は幾らも進まないうちにパルティア軍の矢を浴びて重装歩兵戦列の陰に逃げ戻ったとされています。

後に出戦したプブリウス・クラッススの軍勢には弓兵が500人含まれていました(Plut. Vit. Crass. 25)ので、ローマ軍にも弓兵が存在しました。

緒戦でも、軽装歩兵の一員として出戦し、接近しての弓戦を挑もうとした可能性はあるでしょう。

史料はローマ軍の弓兵の活動を伝えてはいませんので、パルティア騎兵に対して有効な射戦を行うことができなかったと思われます。

これは、人数や徒歩であることもさることながら、前進して強力な直射を浴びせようとする戦術が距離を取って多数の矢を射かけるパルティア騎兵の戦術と噛み合わなかったことを示しているのではないでしょうか。

とはいえ、オナサンドロスが批判という形であれ弓兵を後方に配置して曲射を浴びせる戦術に言及していることからも分かるように、そのような戦い方を知らなかったわけでも、遠距離での投射武器による戦いに対応できなかったわけでもないという留保は必要です。

クラッススに続いてアントニウスもパルティアに敗れましたが、彼の連れていた投石兵は射戦で優位を得ることができると証明し(cf. Cass. Dio. 49.26)、後にウェンティディウスは投石兵を活用するなどしてパルティア騎兵を撃破しています。

古代の文献ではスリングによる投石は射程距離で弓を凌ぐとするものがあります。

e.g. Strab. 8.3.33; Cass. Dio. 49.26

クセノフォン(Anab. 3.3.16-17)は鉛玉を使うロドス人の投石兵は掌に握れるほどの大きい石を用いるペルシア人投石兵の倍も遠くに投げると述べています。

また、ペルシア方の弓兵の射程をも凌ぐほどだ(3.4.16)とも語っていますので、クレタ弓兵よりも遠距離での交戦に長けていると見なされていました。

cf. Echols, p.228

スリングによる投石の初速を複合弓と比較した場合、後代のオスマン弓にはかなり劣るものの古代近東の角弓とは同等の範囲内にあるため、矢に比べて空気抵抗の少ない弾丸であることを勘案すると射程距離は意外に伸びる可能性はあります。

Skov, p.107

とはいえ、飛距離においてスリングが弓を上回るという記述に対しては現代の研究者たちが疑問を呈することも多く、単純な話ではないでしょう。

遠射用の矢は軽く、矢羽は空気抵抗を受けます。

一方、コンパクトで重いスリングの弾のほうが打ち上げられた後の落下局面で終端速度が出やすいため、落下距離が長くなる丘の上などから放てば弓よりも遠距離射撃において着弾時の威力が高い可能性があります。

cf. Dohrenwend, 36ff.

そうした特性の差に注目したほうがよいかもしれません。

高所に布陣し、パルティア騎兵の攻勢を待ち構えてスリングによる攻撃を放ったウェンティディウスの洗練された戦術は、ローマ人の適応能力をよく示す事例でしょう。

cf. Syvänne, 46f.

また、野戦や矢数で圧倒する戦術には不向きですが、ローマ軍は弓矢を凌ぐ有効射程と精度をもったバリスタ、スコルピオといった投矢機の運用に長けていました。

アフリカ戦記(29)には、ラビエヌス方の騎兵隊がカエサル方のレプティスの市門に近寄った際、スコルピオによる極めて正確な射撃がその隊長を射抜いて馬に釘付けにし、部隊を退却させた逸話が記されています。

また、コルブロがアルメニアを巡る戦いにおいてユーフラテス川に浮かべた船の上に設置した投矢機や投石機の矢玉は、敵の矢の及ばないほど遠くに届いたと言います。
cf. Tac.Ann.15.1.9

従来、ローマ軍の野戦における戦闘様式というと剣(グラディウス)と楯(スクトゥム)を持った軍団兵という「剣士」イメージで語られがちでしたが、投槍(ピルム)も携行していた事実に改めて注目すべきでしょう。

ピルムは、緒戦において白兵戦に入る際に投げてしまい、その後は残っていないため戦いの経過にはあまり影響を与えないと考えられていました。

しかし、初撃だけではないピルム投射の会戦中における使用例に注目し、その継戦能力を論じた2000 年の A. Zhmodikovの論考以降、白兵戦以外の投射武器の応酬などを含めた戦闘のダイナミクスが注目されるようになっています。

もともと、投槍を主武装とするウェリテスは前3-2世紀における一個軍団の兵士の30%を占めています。

cf. Quesada, p.2

重装歩兵であるハスタティとプリンキペスもピルムを持っていることを考慮すると、実に90%近くが投射武器を携行していたわけです。

ウェリテスが姿を消した後、共和政末期にはアンテシグナニなど重装歩兵が軽装歩兵の役割も果たすとともに弓兵・投石兵など専門的な同盟/補助軍の活用へと進んでいきます。

cf. Anders, pp.157-173

しかし、かつては重装歩兵の中には突槍(ハスタ)を装備したトリアリイが存在しました。

前1世紀の全軍団兵は統一の武装となりましたので、ウェリテスの消滅と併せて全員がピルムを持っており、投矢機などの普及も相まって、遠戦戦術は重要であり続けたでしょう。

パルティア騎兵との遭遇は遠戦能力のない軍勢が遠戦能力に秀でた軍勢に敗北したという事例ではなく、遠距離戦闘における異なった戦術思想と体系を有する異文化同士の激突だったと言えると思います。

カルラエの戦いがローマ軍に軍事文化を急変させるほどの衝撃を与えたかどうかについては議論があります。

しかし、元首政期、帝政期と時代を経るにつれて、地中海世界の西方では見慣れなかった装甲騎兵による戦術を駆使する外敵に対抗する必要性が増していったことは、長期的にはローマ軍の戦術を変容させていきます。

ローマ軍団兵の伝統的な「(ピルム)ボレー&(白兵戦)チャージ」式のショック戦術は、より柔軟でコンパクトな布陣となり、静止して投射武器の持続的な射撃により敵の攻撃を受け止める方向に変化します。

伝統的な白兵戦向きの開放隊形ではなく、切れ目の少ない連続した戦列と緊密な隊形の多用、これをローマ軍団のファランクス化という術語で形容する研究者もいます。

この「軍団兵によるファランクス(legionary phalanx)」は、少なくとも後2世紀のアッリアノスの頃には戦術的なレパートリーの一つとして考えられていました。

アッリアノスがアラン人に対して構想した戦術では、かつてオナサンドロスが難色を示した弓兵の後方配置と持続的な射戦が採用されています。

cf. Arrian. Alani. 18, 25-26; Cowan 22f.

こうした配置は、3世紀からは標準的な戦場での布陣となっていきます。

弓兵を後方に配置したからといって必ずしも射線を遮るわけではなく、高所に置くことなどもできるわけです。

cf. Ureche, 2015, p.11

オナサンドロスの批判は本質的なものというよりも思い込みであり、戦術思想の違いにすぎないことは、こうした変化からも窺えます。

また、直射気味に矢の嵐を吹き付けるように浴びせる場合でも、前述のような機動的な弓戦というよりは、集団で敵を待ち構える運用のほうが多くなるように思われます。

この場合、弓兵を戦列の翼に配置することが考えられます。

既にカエサルは、戦列の様々な場所のほか翼にも弓兵を配置することがありました。 cf. BAfr. 60, 81

そして、アッリアノス(Alani. 12-14)は、戦列の後方だけでなく左右翼の高所にも弓兵を配置する構想を記しています。

中世のイングランド長弓兵もクレシーなどの会戦において両翼に配置されています。

こうした配置を側面防護だとする現代の解説に対して、D. W. McAllister(p.105)は現代の小火器戦術と同様に縦射(enfilade fire)の効果を狙ったものだと推測しています。

cf. Ureche, p.11; Cowan 22f.

つまり、矢の発射数と密度を高めて敵を圧倒しようとするような戦術思想においては、近距離での直射を志向する場合であっても、わざわざ敵に対して徒歩の弓兵が個々に走り寄る必要はないのです。

帝政後期からビザンツ帝国にかけて、ローマ人はますます弓戦を重視するようになりますが、機動的な弓戦は弓騎兵(装甲騎兵)に、擾乱・援護や防護のための集中的な矢戦は徒歩弓兵にといったように役割が細分化していくように思われます。

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