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◆ケアの話題

SNSで「ケア」について妙に話題になっている。
まずは大辞林からケアについて引用を。

・ケア

①世話・保護・介護・看護など、医療的・心理的援助を含むサービス。
②心づかい。配慮。
③注意。手入れ。管理。

大辞林第四版より

エヴァ・フェダー・キテイ「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」白澤社発行・現代書館発売、2010年においては、ケアの広汎性について、そしてジェンダーロールについてのみならず、社会構造に透明化した形で浸透しているケアの存在と政治性についても深く語っている。

それと同時に「依存は人間の条件のひとつの特徴である」として、「公正な制度を担保するのに必要な社会制度の設計や道徳的直感に重要な意味をもつ」と述べている。

ケアと依存は切っても切り離すことのできない関係性にある。

加えてキテイは「平等への希求」についても述べている。

その希求は「個人の自尊心やひとりの人間であるという個人の意識に及ぶ。この限りにおいて、その希求は放棄されえない、あるいはされるべきでない」としている。

しかし依存とケアの関係性は「社会は依存という事実によってつくられた困難とジレンマを」「特定の社会観――人々は、相互利益と自己利益のために自発的に選んだ義務によって互いにつながるとみるような社会観――と平等が結びついているかぎり」「包摂できそうもない」とも述べている。

哲学者のヴィトゲンシュタインいわく「私たちは「イメージに囚われている」」。

個人にもとづく平等ではない。

つながりにもとづく平等の基盤を形成したとき、人間同士のケアと配慮でつながる関係を特徴づける共通性を考えられるのではないか。

『私に依存する人たちをケアし、そのニーズに応えながらも、私自身もよくケアされ、私のニーズが満たされるには、特定の関係にある他者に対する私の責任はどのようなものか、そして私への他者の責任はどのようなものか?』

あらゆる人のあらゆる人間関係は依存が中心を占めている。

依存者は脆弱さ、傷つきやすさをもっている。

それゆえに人の道徳的義務意識に強く影響を及ぼす。

その義務が社会や政治のありように影響する。

このような事実が、平等にまつわる概念の作り替えの基盤になる。

ケアと依存を必要とする人がいなければ、そして、そのニーズを満たせる人がいなければ、どんな社会もまともではない。まともでありつづけることもない。

なぜか。

『社会とはそもそも、最も過酷な経済的・地理的・風土的状況を生き抜く人々を守るものだ』

一方でケアと依存にまつわるあらゆる労働は「女性に押しつけられてきた」。

その具体的な労働にまつわる対価や報酬、待遇などは不当に低められ、攻撃されてきた。

そこに平等や倫理の歯車を与えられることなく、むしろ奪われることが多かった。

さらにいえば経済的にも政治的にも、議論の遡上にあげられることさえなかった。

しかし、明確な事実として私たちのあらゆるすべての人間関係においても、私たちの人生においても、だれもがみな、依存とケアを切り離して成立することはない。

ベッセルの語るような社会的資源に恵まれなかったり、虐待や暴力の被害にあったり、事故や事件に遭遇したり、養育放棄をされたり。
あらゆる傷つきを経て、私たちは生きている。
だれもがみな、依存とケアが十分な状態で生きてはいない。
ここで必要なのは「だから我慢せよ」「耐えよ」「不十分な時期を受け入れよ」ではない。

端的に言えば「不十分さを補う必要がある」ということだ。

ベッセルは治療とケアの必要性を述べた。
キテイは多くの人々が唱えた「社会とはなにか」を改めて提示したうえで、依存とケアについて語っている。

しかし、これを補うのは容易なことではない。

依存とケアが欠乏した状態にあるとき、欠乏において「耐える」ばかりでいた人は様々な苦しみを抱えている。
その苦しみの発露の具体的な言動のなかには「いますぐ与えよ」「世の中はこうあるべきだ。だから自分をなんとかしてくれ」と訴えるものもある。
とりわけ、そうした態度を攻撃的に発散する者もいる。
防衛反応でいえば闘争反応が生じていて、欠乏と忍耐を刺激されると激しく痛むようにして攻撃的になってしまう。そう思い描くほどの易刺激性を抱えているかのようである。
攻撃的であれば、その度合いに応じて困難さは増すばかりだ。

個々人が抱える具体的な欠乏が、いったいどういったもので、どういう性質なのか。
これを読み取るのは、本人でさえ容易なことではない。
いったいなにがどう不足しており、どう補えばいいのかがわからないのだ。

いったいどのようなケアと依存が必要だったのか。これを明らかにすることもまた、容易なことではない。
それは場合によっては「攻撃性をおさめるために、なにがどう不足していて、なにをどう補えばよいのか」が「だれもわからない」ことを意味する。

そのうえで記しておきたい。
あらゆる暴力や加害が正当化されるわけではないことも、欠乏状態にある人への攻撃的な態度が正当化されるわけではないことも、あえて付記する必要があるだろう。
なぜ人権と、その尊重および配慮が基軸にあるのか。
これを念頭に置かねばならない。
私たちはいついかなるときもあらゆるすべての人の権利および権利の尊重および配慮なくして、困難を前に協働していくことができない。

家庭における依存とケアの労働は不当に安く買いたたかれている。
おまけに価値は毀損されている。他方で家庭における依存とケアの労働がいかにすべての人の発達上において重要であり、加えて依存とケアの労働をする者たちにあらゆる社会的資源が必要であるか。
ベッセルのみならずキテイにおいても、意見を共にするところではないだろうか。

家父長制は女性を依存とケアの労働者に限定して、支配・抑圧したがるが、近年は日本においてさえ「共働き」かつ「あらゆる家事の協働」が徐々に浸透してきている。家父長制に相反する動きであると言えるだろう。
少子化の要因に数えられてもいる依存とケアの労働にまつわる不当な扱いが、キテイの書にかぎらず、あらゆる啓蒙によって浸透してきているからとも言える。

少子高齢化のあらゆる現象にまつわる問題が可視化されるばかりの現代では、医療・福祉の重要性にまつわる認識が広まってきているのも、追い風と言えるだろう。
一方で現代においてはケアと依存において「選択と集中」「コストが高い」「コスパ・タイパの重要視」はとにかくかみ合わせが悪く、逆風となっている。

それらは衝突しあい、嵐の海のように波立つ状況下である。
しかし、どうあれ社会のありよう、その本質が揺らぐことはない。
また、私たちが生きるうえで依存とケアの必要性が下がることもまたあり得ない。

facebookに昨晩、投稿した内容はここまでだ。

依存とケアは「社会的資源」であり「社会的支援」である。
「依存労働者は依存者でもある」。
「依存労働においてはあらゆる社会的資源・関係性・環境、またそれらを補うあらゆる社会的支援が欠かせない」。
この点においてはベッセルにせよ、キテイにせよ意見を同じくしているのではないか。

たとえば、あらゆる養育者は「こどもからすれば依存労働者」であるが、同時に「依存者」でもある。
あらゆる養育において「あらゆる社会的資源・関係性・環境、またそれらを補うあらゆる社会的支援が欠かせない」ことは明白である。

社会的支援とは具体的になにを指し示すのか。
たとえば「生活保護」、「支援金をはじめとする具体的な支援制度」、「国民皆保険」、「最低賃金保障」、「子供の誕生後の両親の有給育児休暇」、「働く母親のための質の高い保育」などの制度である。
あるいは「養育男性の積極的な家事・育児活動」の実態に着目する。そして、養育男性への「育児休暇」と休暇の実態にも焦点が当てられるべきだろう。
養育者が養育にかかるときの支援に限定する必要性はない。
むしろ拡充する必要性こそある。
職場復帰や安定した雇用といった視点も欠かせない。
具体的な福祉・医療領域における対策ではなく、経済的視点も必要不可欠なのである。
つまるところ社会的支援とは「社会とはそもそも、最も過酷な経済的・地理的・風土的状況を生き抜く人々を守るものだ」という立場のもとに行う、極めて政治的な話に他ならない。

あるいは依存とケアとは社会にまつわる価値観と定義を問いかける指標なのかもしれない。
そして社会的支援にまつわる姿勢を強く問いかけるきっかけなのかもしれない。

引いては、あらゆるすべての人が死ぬまで続く発達に対する捉え方を問われるものであり、あらゆるすべての人が発達過程において獲得する個別の特性と社会との齟齬に対する「依存とケア」にまつわる問いかけなのかもしれない。

群馬県桐生市の市役所が生活保護の不正な運用を行っていたという一件は、明らかに社会的支援を脅かす行為である。
しかも、こうした運用をしているのは群馬県桐生市だけとはかぎらない。
氷山の一角に過ぎないのである。

社会的支援は常に十分であるとはいえない。
のみならず社会的資源においても十分ではない。
社会的資源には、当事者が住む国の政策や経済状況による影響も含められる。賃金であり、報酬であり、保険制度である。十分な雇用であり、それは派遣やパートなどではなく正規な雇用である。柔軟な労働体系である。税金であり、保障である。適正・適切・公平・健全な契約である。その運用と維持であり、そうなるためのあらゆる具体的な対策である。

しかし実際には、こうした社会的支援・社会的資源の不足を生きる・生きてきた人のほうが大半ではなかろうか。
そうした実状においては「依存とケア」の必要性が増す一方で、供給はむしろ減少するばかりではないだろうか。

不十分でないなりになんとかするしかない。
それは一面的には真理だ。
そして社会的支援・社会的資源のみならず関係性・環境においても、依存とケアの充実具合にはあまりにも差があり、グラデーションが存在する。
そこに公平さはない。平等さもない。
そうした実状に向けてルサンチマンからくる攻撃性を発露する人も少なくないことだろう。

しかし、あらゆる議論を行ってもなお、揺らがないことがある。
端的に言えば「不十分さを補う必要がある」ということだ。
繰り返しになるが、結局のところ、あらゆる立場も、あらゆる過去や体験を積み重ねてこようとも、この前提に立ち返り、補っていくことこそが結局は重要なのではないか。王道であり、本筋なのではないだろうか。

それには依存とケアが必要だ。
依存とケアにまつわる社会的支援・社会的資源・関係性・環境が必要だ。
それは攻撃によって獲得するものでも、だれかを支配したり抑圧したり従わせたりすることによって獲得するものでもない。
立場があればやらねばならぬ、では通用しないものでもありながら、あらゆる立場のあらゆるすべての人が必要とするものでもある。

たとえば養育者だからやれ、ではいけない。
養育者もまた依存者なのだから。
彼らにもまた依存とケアにまつわる社会的支援・社会的資源・関係性・環境が必要不可欠なのだ。

現状では求めれば与えられるものでもないし、不足しているばかりか、ますます不足していく情勢に社会が向かっていると感じる。
しかし待ったをかけて動く人たちもいる。
それゆえに波風が立ち、荒波に揉まれるような時代である。
もっとも穏やかで安定した時代などなかったろう。
困窮する者から相対的に穏やかで安定した者がいて、不均衡な勾配になる・維持する社会的支援・社会的資源・関係性・環境さえあったろう。
それはいまでも変わっていないし、変わるべきだと声があがりつづけていることではないだろうか。

変化を求めて私たちはあらゆるものを生み出してきたのではないか。
憲法に込められた理念は。人権は。公平と平等を求めて具体的に行う姿勢は。結局のところ、社会の「困難さを助け、助かる機能」のありようと、その受益者をあまねくすべての人に向けるためにこそ、あるのではないか。
いまあるかどうか以上に大事なのは、いかにしていまある不足に対峙して、改めるための具体的行動を積み重ねていくことなのではないか。

よい一日を!