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◆「病に薬を」の盲点

「病に薬を」。
言い換えると「これさえあれば・やれば」といった対処には盲点がある。

フローチャートに起こすなら「病か」の判断ののちに是なら「薬を」となる、その間が存在しない。否の先もないが、これは後述する。
「薬を」のあとに改善したかどうかの判断がなく、「薬を」以外の検討や「薬を」についての批判がごっそり欠如している。

そもそも「病か」に付随するべき「問い」がない。
ベッセルが書籍で紹介してきた患者であれば「病」に付随する要素から過去にさかのぼり、その影響を捉える必要性があった。
しかし「病に薬を」には、こうした判断・調査・ケア・治療などの工程がまるごと存在しない。

先に軽く触れたが「薬を」という処理を「行なえない」という想定がまるでない。
そのため「行なえない」ことの背景にある具体的な現状、現状に付随する多種多様でいくつもある情報や要素に対する想定もない。

そのため是非もなく薬を飲ませたい人にとって「行なえない」事態に遭遇した途端に固まってしまう。防衛反応が生じてしまう。
しばしば攻撃的になる人が出てくるのも、社会的関与と闘争反応が出ているような状態だと想定する。
加えて、なにがあろうとも「薬を」に執着すると、当然失敗を繰り返すことになるが、失敗が起きても変わらず「薬を」の一択になり、相手が自分ならうんざりするし、他者ならトラブルをいくつも引き起こして関係が悪化する。そればかりか暴力沙汰になるほどのトラブルに発展しかねない。

こうした盲点への対策が欠如したまま、たんに「病か」判断して是なら「薬を」という処理しか行なわないようなチャートで行なうのなら?
ありとあらゆる問題をいくつも引き起こす。
そうして生じる負荷は、困難を抱えている人のあらゆる生活面においては言うにおよばず、その人に干渉する人の具体的な言動をきっかけにして、トラブルの要因になるような防衛反応を盛んに誘発する。

これはなにも「薬に病を」にかぎらない。

家庭で特定の人が困難を抱える。
学校の教師・生徒が思うようにならない。
職場に思いどおりにならない人がいる。

このような状況下においても再現性がある普遍的な問題だ。
「これさえあれば・やれば」といった対処を用いるときには、具体的な表象の一致にかかわらず、対処面において構造的に重なる場合では必ずといっていいほど頻出する問題である。

チャートを丁寧かつ精緻にしていくほどに他者は自分の思いどおりにならず、自分は他者の思いどおりにならないし、どちらにおいてもなるべきではない事実に否応なしに気づくことになる。
助けを求めたり、呼びかけたりしても、社会的資源を得られなかったり、相手に協働してもらえて依存のつながりを相互に持てるとはかぎらないことを最初から踏まえる必要性から逃れられなくなる。

それは例えば家族であろうと、教師・生徒間であろうと、職場に勤める・労使関係であろうと変わらない。

ゆえに私たちは協働を、そして社会的資源や依存の充実を踏まえるのなら、これはもう合理的視点からみても共同体としてのありようを意識せざるを得ない。
だが、チャートが簡略化されたような「病に薬を」という余裕のない、先の見通しも立たず、その必要性も感じず、目の前のことだけで回る・回さざるを得ない生活サイクルに置かれる・誘導される状態であればあるほど、共同体としてのありようから外れていく。
それこそ「自己責任」をもって分断され、切り離されていく。
そうなると本来あるべき「社会的資源や依存」の活用という「共同体のありよう」から外れて、太古の原始的な個別や小さな集団規模でのコミュニティ活動に追いやられてしまう恐れが高まる。

「自己責任」の社会は私たちを分断し、孤立させ、社会的資源や依存を貧しくさせるばかりか削り落としていき、それらに必要な技術や知識を衰退させていく。
結果として共同体のありようにまつわるあらゆる経験が失われていき、ますます全体として貧していくようになる。

仮にその道を山登りに例えるのなら、いまは何合目あたりだろうか。
率直にいえば、頂上にかなり近づいているように感じる。
なるべく早く引き返せるうちに、そのための具体的な行動が必要ではないか。

よい一日を!