文章と向き合う暇ができた。

 ただいま飛行機の中である。イスタンブルから上海浦東空港を目指し、およそ9時間ちょいのフライトの大体半分を過ぎたぐらいだ。
 今回ミスったのは持ってきた本が案外すぐに読み終わってしまったということ、そしてトルコ時間で昼発夜12時着というフライトのため全然眠くないということである。
 なお、本をもう1冊持ってこれなかったのは、今回機内に持ち込んでいる荷物がサズという楽器だからだ。そのサズのソフトケースについてるポケットに機内に持ち込むもの全部入れなきゃいけなかった。そうしないと2つ機内持ち込みになってしまうから追徴料金を取られると恐れていたからだ。そのため、持ってこれたのはスマホ、財布、夏目漱石こころ、イヤホン、膨らませるタイプのネックピロー、若干かび臭いアイマスク、耳栓だけだった。必要最低限。イヤホンの充電が切れたらやれることといったら中国語の映画を見ることぐらいだろうか。キツイよそれは。
 でも、不思議だったのサズはほっそいギターぐらいの大きさはあるのに機内持ち込みに際して追加料金を取られたりはしなかった。また、たまたま同じ軽音サークルの先輩と同じ便で、たまたま空港で会ったのだが、先輩は2個荷物持ち込んでた。俺も2個荷物持ち込んでたなら今頃こんな文章じゃなくて夢の島を読めてたはずなのに。

 まあいいや。
 文章がつまらなくなった理由をずっと探してる。つまらなくなったというより読んでてワクワクしなくなった。
 その理由をこの旅の間に見つけた。

 文章を外から書いてるのだ。
 外からの刺激の上で書いてしまってる。
 例えば

 この前、ソフィアであまりにも暇だったので路面電車の端っこまで行って散歩してみようということをしてみた。10番のレトロなトラムに乗って終点へ。公園が広がっていた。そこから奥に歩いていくとゴミが散乱した街があった。レンガ造りの建物もあったが、どこかプレハブ感もある。きっとスラム街に近いものに迷い込んだ。
柵に閉じ込められてる上、首に鎖もつけられていた汚い犬が僕を見て大声で吠えていた。吠えては疲れてしまってゼイゼイ言っていた。
犬がいたその反対側の家の中で談笑していた男たちがこちらを見て手を挙げて微笑みかけてくれていた。「Hi!」こちらが声をかけると「Hi!」と大きな声でニコニコしながら返してくれた。
 しばらく歩いているとゴミを使って遊んでいる子供たちがいた。勇気ある、恐らく小学校低学年の4人組が近づいてきて「Hello!」と話しかけてくれたので、腰を屈めてコミュニケーションを試みた。少し英語は勉強しているようで「What’s your name?」を連呼してくれた。それ以外はブルガリア語でまくしたてられたので何も分からなかった。でも、彼らは終始ニコニコしてこの肌の色の違う東洋人を受け入れてくれた。最後去る時、私の姿が遠く見えなくなるまで大きく手を振ってくれた。
 さらに歩いていくとバスから降りてきたガリガリの上裸の男に会った。最初どっから来たのか、なんで来たのかなどを僕のスマホの翻訳機能を使って少しコミュニケーションした。そしたら次に聞こうとして書いくれていた質問を急に消して「サンドウィッチを買ってくれ」という文面を打ち込んで見せてきた。私は嫌だといい、お腹が減ってるんだと言ってきたから持っていたクッキーの残りを与えてその場を去った。そしたらそいつは後ろをついてきた。正しく言うと、帰る方向が私の進む方向と同じだったのだろう。また乞食をしてきた。なんとなく家を見せてくれと言ってみた。そしたらついて来いって言う。国鉄の線路をここだけ立派な歩道橋で渡り、さらにスラム街の奥に入っていく。すると家族のような大集団に囲まれる。やばい、襲われると思ったが、彼らは僕を助けに来てくれた。ここに居ては危ないと。こいつについていってはいけないと。そして、そいつもどうやら怒られているようだった。さらには「中心街まで戻るタクシー代を出してやる」と言ってくれる人も。どうやらスラム街というほど貧相ではないらしい。とりあえず自分で帰れるからと言ったら、とりあえずそいつにバス停まで連れてってもらえと言われる。そいつも厳しく言われていたため、私を大人しくバス停の方へ連れていく。すると、でかいゴミ山に辿り着く。その真ん中に細い道がある。そこを歩いていく。両脇にはゴミ。その中を走るネズミたち。ゴミ山の終点で「バス停はあそこだ」というあいつ。そしたら「金をくれ。お長が減っているんだ。」とまた言い出した。「50レフでいい」とかいう。日本円で4000円だ。舐めんじゃねえっと思った。でも、家についていくと言ったのは俺からだし、期待させてなにも渡さず返すのって良くないのかもと思った。だから10レフ渡した。日本円で800円。「いろいろ教えてくれたし、友達みたいなもんだと思ったけど、こんな金の繋がりじゃつまらないよ。もうこんな事はしないでくれ。」そう伝えた。そしたら水を得た魚のように見たことの無い笑みを浮かべ、「どうだ?俺の姉ちゃんとセックスしてくか?いい女だぞ。アナルだっていれていい。」とか言い出した。舐められていた。だから俺は10レフを諦め、振り返ってる状態の彼を交わして、バス停に向かった。そして1度振り返って「It's all over! Fuck you!」と叫んだ。あいつはもうそこにはいなかった。ただ、青い空がバカみたいに広がってるだけだった。
 そして、無事バスに乗ってソフィアの中心街、セルディカに向かった。宿に着いたらとりあえず服も含めて全身洗おうと固く誓った。

 経験としてはかなりおもしろい。客観的に見てもそう思う。
 でも所詮は事実の羅列だ。

 きっとあの犬はもともと体が大きかったから、ちょっと頑丈なところに入れられたのだろう。逃げたらデカいし危ないから、逃げられないようになってるのだろう。でも、抑圧を感じてそこから逃げようとしたが、そうするとさらに頑丈さが増していった。何年か経っていつの間にか吠えただけで疲れるほど老いてしまった。包囲の頑丈さだけ残って、あの犬ができるのは吠えるだけだった。その哀しみに気づけないだろうか。
 理由は分からないが、珍しい東洋人を見かけたことに少しワクワクしてじっと目を離せない。また、その彼がでかい犬に吠えられてることにちょっと目を丸くする。ちょっとした非日常と言うべきなのか、不可思議なのだろうか、その感覚に気づけないだろうか。
 肌の色が違うのにこれだけ受け入れてくれるのはどういうことなのか。僕がその学年の頃は他に比べて少し肌が黒いだけで「インド人」とバカにされていた。そんな日本の差別意識の塊でとんでもない傷の量をおわされてきたトラウマが今でも残ってる俺はどれだけ彼らのキラキラした目に嬉しさを感じたか。それを見て自然と腰が下がった自分に驚いた。こんなにも子供に抵抗がないのかと。それをどうして言語化できないのだろうか。
 良心が揺さぶられた。良心が全て無を意味していた。良心のせいで舐められた。すべてを無かったことにしたかったからこそのFワード。何が悪いのだろう。貧困が悪いのか、格差が悪いのか。あいつとの間にある確実な壁は金なのか。何が結局悪いのか。あの経験はなんだったのだろう。

 そんな感情の揺さぶりが私の事実の羅列では伝わらないのだ。
 透けて見えない。
 オードリーのオールナイトニッポンの名誉作家とでも言えばいいだろうか、青銅さんという人がいる。彼がよく言っている(らしい)のは、エピソードトークは感情の揺さぶりを交えて話しなさいと。
 モノを読む・聞く上で感情の揺さぶりとは色々な基準になるし、感覚の共有になる。

 そこを目指してる。感情の揺さぶりを背景から透けさせる。それを私の普通と定義した上で共有したい。これが僕の中での最高の文であり、詞である。

 それを体現した詞を1つ紹介する。

 鍋に立てかけたお玉の
 取っ手のプラが溶けていく
(折坂悠太「正気」より)

 この詞が大好きなのだ。
 この変わらないはずののんびりとした日常の片隅が徐々に変わっていってしまってる。危ない方向へ。それに気づいていない。それはあまりにも恐ろしいことである。
 それをこの2行で、さらに余白を持ってこのことを表現している。たまらない。

 この度の間、米津玄師の「さよーならまたいつか!」をときどき聞いているのだが、現実というか事実の使い方がなんとも言えない説得力を生み出しているように強く感じるのだ。

 口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く
 繋がれていた縄を握りしめて しかと噛みちぎる

 どちらもサビの二フレーズ目である。
 前者は自らの苦しみやつらさとの決別か、それとも気逸らしか、分からないが、それを「血」と「空」を使って軽やかに表現している。
 後者は「握りしめて」と「噛みちぎる」の対比がなんとも言えないものになっている。大事なんだけど、噛みちぎるという乱暴をしなきゃいけない。でも、「しかと」噛みちぎるというのが残り香を感じさせる。

 米津の歌はもちろん彼の歌声のなんとも言えない深さで成り立っている。それがないと米津の曲ではない。
 しかし、米津の詞もまた不可欠なものだと感じる。とても多くの含みを持ったものを描くのだ。感情をおもむろに描くというのは、ある程度の正解の方向性を言葉によって固めてしまっているし、余裕がない。彼は事実を通すことで方向性をどこか曖昧にする。それでいて、説得力があるのはなぜだろうな。「縄」の意味は透けて見えているけれども、だけどそれを明言するのはどこか避けたくなるような神秘性というか。

 感情を事実に透けさせる。それが1番美しいと僕は思う。
 でも、それを表現する技術が僕にはないのだ。というより、説得力がないと言える。技術の問題なのか、心の問題なのか。どちらもだろ。

 ところで、私自身が高校生2、3年の頃に書いた文章は今読み直してもおもしろいと思う。
 これはなぜか。
 まあ、ひとつは自分の昔の感覚を呼び起こすというのは誰にとってもおもしろいことであるというのは挙げられる。これは結構多くの人が分かってくれるのではないだろうか。こういう文章は正直自己満で書いている。だから気楽でいいんだけども。
 しかし、それだけではない。今とは違う特徴があの頃の文章にはあるのだ。
 あの文章たちは私が繰り返される日常に信じられないぐらいの嫌悪感としんどさを感じていた中で書かれたものである。繰り返しの中に面白みを見つけるため、というか繰り返しを壊すために書いたのだ。つまり、繰り返されていたことを穴が空くほど睨みつけていた、向き合っていたという訳だ。
 あと、コロナの影響は大きいだろう。あやつのせいで人々の意識を外から内々へ変化させた。家の中で何をやるか。ただじっとしているだけだと疲れもしないし、何も起きない。要は退屈だ。退屈を避けるための手段の1個として内々を家だけではなく、そのまま自分に向けてしまう。それができる時間が有り余っていたし、体力なんて他のところでは使えなかった。逆に僕らは「楽しいことをする体力」を養う期間であるはずの部分がコロナですっぽり抜け落ちてしまい、それで今こんなに楽しいことに体力が追いついていないのかも。いや、それはさすがに言い過ぎか。
 まあ、要は感情を丁寧に書き表していた。内面に丁寧に向き合っていた。だから、感情の揺さぶりとか、そもそもの感情の理由とかを読んでいて掴むことができる。それを完璧に分析出来ているかどうかは別として、それに正面からぶつかって向き合ってる。
だからおもしろい。

 では、なぜ今書く文章が面白くないのか。
 それは毎日が刺激的すぎるから。日常が楽しいからそこを見てしまう。日常を書くだけで疲れるのだ。自分の感情・内面に向き合う暇がないのだ。
 というか、事実が多いのもそうだが、内面に突っ込むって相当な体力がいる。それでいて、事実をもとに内面に突っ込んでいくからたくさんある事実も取捨選択しないといけない。それもかなり大変。で、新鮮なことをやりまくってるから単純に疲れてる。だから、表現する時間が無いとか、今日は疲れたから寝ようとか、気づいたら表現から逃げてしまうのだ。自分自身から逃げてしまうのだ。弱っちいな。
 言い訳ではあるが、逆に言うと今が楽しくてしょうがないんだな。それはいいこと。
しかし、表現者としては何かにきっと欠けてしまうのだ。マンネリ化した生活の中で書いた文章の方が殺傷力を持っているという事実がそれを表している。
 私の大好きな星野源さんもいつか言っていた。曲を作る時は発酵が入らないといけないと。
 今、その発酵する環境じゃないのだ。有難いことだけどさ。 毎日あれやろこれやろ誘ってくれて同じ繰り返しの日なんて無くて 。海外旅行でいろんな新鮮なことにまで触れて。幸せものですよ、僕は。
 でも、新鮮な環境の中でもマンネリを見出して発酵を引きづり出すのが表現者としての務めな気もする。というかそうしてないと生きていけないんじゃねえかな。だから、こうやって文章書いてるわけだし。
 こう考えると、受験は大して僕の文章にいい影響も悪い影響も与えてないのだなと思う。強いて言うなら、国語とかの問題を解きまくったため、自分の文章の論理の破綻にすぐ気づくようになってしまったので、推敲がかなりめんどくなったというところだろうか。実際、毎回書く度にめちゃくちゃな量を書き直している。
 だから、表現って体力いるよな。何年もフロントに立ち続けるって覚悟だけじゃないんだな。感性と感情とそこに向き合う体力を全部働かせないといけないんだって気づきました、ようやく。

 でも、ただ感情を詞にするのって難しいという話に戻りまっせ。
 なんとなくだが、感情を表す言葉というのは簡単な言葉と難しい言葉の二極化してるように感じるのだ。前者は「かわいい」「怖い」とか、後者はそれこそこの文章とか。難しいというより、長いというのが適当か。つまり、一言で表すか、一つ一つ丁寧に整理して表すかの2択になっている。
 一言で表すとチンケだし、一つ一つ丁寧に整理すると言葉ばかりの詞にでもなるのだろう。それで成功してるの「自問自答」以外で見たことない。それもあれは感情を整理してんじゃないし。

 これを取り持って詞にするのが「事実」だ。
 事実の良さは「含み」を入れられる。余白が大事なのだ。
 その含みにどう説得力を入れるか。

 説得力って何なんだろう。
 迫力なのか。
 語彙なのか。
 声なのか。
 響なのか。
 憧れだったり?

 どうやって米津玄師も折坂悠太も向井秀徳も説得力を手に入れてきたのだろう。途方もない努力があったんだろう。
 でも、こん中でまだ若いに入る折坂悠太はバケモンだなって思ったけど、折坂悠太35歳らしい。にしては顔のハリありすぎるだろ。

 説得力を得るには、
 もう書くしかないんだろうな。
 あと、読む。

 結局学びかよー!!
 果てしねえってまじ。

 でも、「今が楽しい」からって言って何事からも逃げていたら何も始まらないねえ。

2024年9月25日(日本時間だと2024年9月26日)


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