高校生日記⑨許せない話

 相手に悪意があるのかどうなのかわからないが、どうしても許せない・忘れられない言動がある。みんなもあるよね〜。たまにはそんな話、というかいつもそうであるが。
 受験の雰囲気が始まる頃、贅沢と音楽に向き合うことになった。

量より質

 最近、学校でも自分の好きな音楽をよく聴く。それで、ちょっと前までハマっていた曲がEmeraldの「ムーンライト」という曲なんだが、だいたい6分半ある。それを聴いていたところ、隣の女子に「6分半もあるの?量より質じゃない?」と言われた。
 怒りとも言えないし、憤りとも言えない。なんとも言語化できないモヤモヤがずーっと体の中で反響しまくっている。「量より質」そんな使い方があるのかと。
 ほんとうに意味がわからなかった。今でもそう。本当に意味がわからないのだ。音楽に「量」という考え方を含むのが。というか一周回って新鮮だった。しかし、その考え方を飲み込めるかと言ったら、無理だ。未だに喉につっかえている。
 ショックだった。こんなにも音楽に向き合っていない人がいるんだなって。多分、そんな人がたくさん世の中にはいる。なんなら、そんな人が圧倒的多数だろうな。
 音楽の世界というのは、私からすると、資本主義や競争主義、自由主義などとどこか一線を画す存在だと勝手に思っている。もちろん、アイドル業を始めとして、いかに利益を出すかでの活動も音楽世界の中にはあるが、それでも、まだCDをかければ、Spotifyを開けば、「そこに美しい音楽が鳴っている」だけだと思っていた。ぼくをいつでも包み込んでくれるものだっていう絶対的な信頼をおいていた。みんなにとってもきっとそうなのだろうと思っていた。そう信じ込んでいた。だって、たぶん、そこが僕の逃げ場だったから。若林さんの本の中にもあるが、我々のような人間というのは競争から逃げられるある逃げ場所を作っておかないと心が壊れていくというか、疲れていってしまう人間だ。その逃げ場が僕からしたら贅沢で美しくて鮮やかで華やかで。それが僕にとっての音楽という存在である。
 没頭のためのもので、所詮それに過ぎなかったのかもしれない。
 それを現代的思考において次第に侵食されてきている、もはや食い荒らされてるのかもしれないとひどく感じてしまった。それが辛くて辛くて。もう、その辛さを、言葉に出来ないのだ。

 この前、現代文の授業で取り扱ったのが國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」という本の一部であった。その内容が「消費と浪費」についてである。ほんとざっくり以下の超適当説明をすると、消費は観念を消費するから限度はない。そのために、満足を得ることはできない。対して、浪費とは必要以上に物を持つことであるという。それを贅沢という。現代社会では限度のない消費を促しているらしい。(ほんとうに適当である。申し訳ない。ぜひ、本を買ってほしい。)
 わたしは音楽で時間の浪費をしていた。それが贅沢で、金のない私を癒やす以上のことを施してくれる。感情を揺さぶられ、高ぶることもあれば、殺されそうになることもある。ただ、それがただただ贅沢なのだ。僕にとってはとんだいいものを食べるよりも、とんだおしゃれな服を着るよりも、とんだ素晴らしい旅に出るよりも、価値がある。

 受験という競争。その波に飲まれていくだろうこの頃、贅沢の意味を良くも悪くも知った私は音楽とどう向き合っていけばいいのか。受験は浪費は求められていない。ただ、目の前に流れてくる問題を永遠と解き、ネームバリューのために大学に入る。そこには消費しかないのではないか。
 別に隣の女子をけちょんけちょんにしたいわけじゃない。
 でも、全てのものに資本主義を絡めつけてくなんて、効率を求めるなんて、楽しくない。楽しくないの!

 2023年2月某日 ほんとは毎日書きたい。

現在

 ひどいことを言う人はいるもんだし、逆に私もひどいことを言っている。

 「楽しくない」。これが全てだ。

 コスパとかタイパとかしょうもない言葉たちが蔓延るようになってきたが、ほんとうにしょうもないと思う。
 お金や時間の「無駄遣い」こそ、至高であり、楽しいのだと感じる。
 これは個人の考えだよ。

 人によって「楽しい無駄」は違う。
 僕にとっては6分半の一曲、45分のアルバム一枚を、耳たぶの後ろの顎が震えるぐらいに噛み締めるのが最高の「楽しい無駄」だ。それは誰かにとっての「無駄」かもしれない。
 きっとあんなことを言った彼女にとっては120分のディズニーの待ち時間がワクワクを楽しめる「楽しい無駄」なのかもしれない。僕にとってはそれは「無駄」にしか見えないように。
 コスパとかタイパを求めるのもある意味での「無駄へのカウンターカルチャー」と捉えれば、それ自身らも結局は「無駄」なのだから、それらを求める人もそれにきっと楽しさを求めている。「無駄へのカウンター」など「無駄」でしかない。

 だから、俺は2年前あんなことを言った彼女と、2年前あんなことを書いた俺に言ってやりたい。
 そんなの「楽しくない」よ!!
 みんな「楽しい無駄」を持っているんだよ!!
 それを否定してはいけない。絶対に。

 でも、「楽しい無駄」を必要とするなら、それは果たして「無駄」なのか?

 いやいや、無駄だからいいんですよ、奥さん。


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