高校生日記③幸せ

 高二の夏休みが終わる頃、メンタル的にどうかなっていました。理由は今でもわかりませんが、もうすぐ始まる学校が鬱陶しくて鬱陶しくてしょうがなくてこんなことを書いたのは覚えています。
 うちの高校では夏休みが終わった後にすぐテストがあるのですが、その1日目からご飯が喉を通らなくなったのに、学校には行かされて。3日目にもう体調がもたないとなんとか両親に言ったらなんか冷たい反応で。家にいるのが辛くてその日の夜に家から出て、深夜の公園のど真ん中で歌って踊ってました。そうしてないと居場所がなかった。歌って踊ってっていうことで居場所を作れたというのがどこかいい意味で突っかかったままです。
 要は、この文章では自分が幸せだと信じ込ませるためのこじつけをずっとしてます。でも、そうしてないとほんと、生きていけなかったんだな。

幸せ

 幸せって絶対値だよな。ってことは、誰かと比べるもんじゃないし、誰かに報告する必要があるものでもない。ただ、自分が幸せかどうか。

 なんだろう、インスタのストーリーの遊びに行きました報告とか、予定がないことに明らかな不安を示す人とか。
 別に外行くことだけが幸せじゃねえんだよ。友だちと遊ぶことが幸せじゃねえんだよ。家でひっそりギターの練習したり、こんな文章書いたりしているのが、今日、俺は楽しいんだよ。
 夏休み、俺は藤井風のライブ以外遠出をしなかった。あとの外出は部活ぐらい。それ以外は家にずーっといた。
 俺はずっと家にいるのはしんどい人だけど、たまにの遠出(この夏休みでいうライブ)があれば、全然余裕に生きていけるのよ。十分俺は楽しかったよ、この夏休み。部活もあってチームメートともほぼ毎日会ってたし。もちろん、勉強もろくにしてないし、いろいろ反省というかそんなものはあるけどね。
(意地はってるのか?)

 自意識過剰と言われたら終わりだけど(というか、認識がないことはないが)、インスタのストーリーや投稿を見ると投稿者はこちら側に(こういう私みたいな人間に)マウントを取ってるようにしか感じれない。
(ただ寂しいだけじゃないのか?)

 自分もそのライブのとき、ワクワクが止まらなくてそんなワクワクを共有するようなストーリー上げたけど、今思うと、そのワクワクは誰とも共有できたりしない。となると、それはほんとにただワクワクという幸せを誇示しているだけに周りからは見えただろうな。でも、そんなことを考えずにそのストーリーに普通に返信できた人はただた羨ましい。俺ならできない。自意識が邪魔をする。臭いなって。
 そういうストーリーに社交辞令であったとしても返信できるやつが、本当に羨ましい。だって、自分が「そっち側」の人間であるという自覚があるから返信できるのだと思うし、単純にピュアなんだとも思う。「そっち側」とは幸せを共有できるし、おすそわけしてもらおうと考えてる人のことのことだと思っている。まあ、俺は「そっち側」じゃないから結局、偏見だけど。
(ほんと臭いな)

 「そっち側」をそう定義するなら、それに対して、俺は「こっち側」の人間。幸せの共有をすることも、もらうことも下手な人。なんで下手なんだろうね。やっぱり下手だとさ、(きっと)自慢とかの意図もないストーリーを自慢と捉えちゃうわけで。
 もちろん、絶対値だからさ、自分が幸せだと思えば「幸せ」なんだし、だから、人の好みなんかをあーだこーだ言っちゃいけないんだよね。
(うるせーな、正しいこと言うなよ)

 たださ、なんだろう、こうもひねくれてるとさ、そのストーリーの幸せ溢れてる感じが偽りのようにも見える。ほんとしょうもないな、臭いなってね。でもさ、やっぱりさ、そのインスタに上げて友情確認しているようにしか見えないんだよ。「こんなことがあったよね。ね?幸せそうでしょ?」「幸せだったね。ね?みんなもそう思うでしょ?」そこまでがひとくくりになってるような感じで、正直、俺からすると、「そこまでしなきゃいけないのね」としか思えんときがしょっちゅうある。下手でも幸せを受け取れることはあるけど、そんなん数えるほどで。
(あっそ。)

 それもさ、不幸なことにさ、絵になる「幸せ」とならない「幸せ」あるじゃん。前者は俗に言うインスタ映えってやつだけど、やっぱり絵にしたいとか思うことあるよね。この文章書いてもなんの絵にもならないやん。それに対して、誕生日パーティーとかバーベキューとかのほうが絵になるやん。
 ここで思いついた。絵になる「幸せ」が陽キャで絵にならない「幸せ」が陰キャなんだろうな、一般的な組分けとして。でもな、その差ってたったの「絵」だぞ?というか、絵ごときで組分けも差別もするのかよ。バカだな、ほんと。まあ、色で差別するやつもいるし、バカな人類はバカのままか?
(今更何を)

 ちょっと被せてしまうが、許して。
 絵にならない幸せのほうが多いぼくは、そんな絵になる幸せに対して、「偽り」「疲れる」ということや「うらやましい」ということを思う。

 前者のように恨むなら、私は不満足なのか?
 それはそう。満足からは何も生まれない。
(確かにそれはそうだな)
 
 後者はどう? 後者があるなら、私は不幸せなのか?
 いや、違うね。これは意地張ってるわけもない。理由もある。でもその理由をたまに見失う。囁きなんかに屈するものか。私はこっから絶対に負けない。その社会の価値観とか、自分の固定概念に。
(すまなかった。)

 だから、私は唱える。幸せって絶対値だよな。
 そうやっていかないと、壊れるんだよ、わかんねえか?

 2022年8月某日

現在

 最後に俺は「自分」を屈服させているが、その説得の文章にはなんの説得力もない。理由を見失ってんのにどうやって屈服させんだって話だよ。
 自分が不幸せじゃないって言える根拠はずっと「絶対値」という言葉に頼りっぱなしだ。それ以上も結局、見つかってない。なんなら、「見失った」って表現しているが、そもそも一度でも「掴めた」という感覚があったのだろうか。記憶にない。

 でも、その頃の俺は、そうやって縋れる言葉に縋るしか無かったんだな。

 「幸せ」ってなんだろう?というのはおそらく、誰でも考えたことがある、身近な疑問じゃないかと思う。答えが出た人がいるのだろうか。
 僕は現実を忘れる時が一番幸せだ。僕はオードリーの若林さんが大好きなのだが、彼の著作にこんな言葉が残されている。

 ネガティブをつぶすのはポジティブじゃない。没頭だ。

 僕が現実に生きづらさを感じるのはネガティブなのかどうかはわからない。自分の性格がネガティブだと言うと大体否定されるから、わからなくなってしまったのだ。でも、没頭が僕を救う感覚はずっと変わってない。

 まあ、自分の性格ぐらい、自分で分析させてくれよとは思う。
 俺は「お前ってこういうところあるよな」って絶対言わない。言われた時に嫌な気持ちになるから。言い当てられても、的を外していても。あと、「自分こう言うところあるんだよねー」って言った時に「気づいてたよ」みたいな反応するやつもやめてほしい。お前に俺を理解するほどの俺との経験ないから。

 話を戻す。「現実を忘れる時が一番幸せって、じゃあなんでエッセイなんか書いてんだよ!」って思うかもしれない。
 一つ言えるのは、エッセイ書いてる時、幸せを感じたことはない。だって、現実とただただ向き合ってんだぜ? きついに決まってんだろ。
 「じゃあ辞めればいいじゃん」そうともいかねえんだよ。俺は自分のモヤモヤを消化しないと溜まりに溜まちゃって、そっちの方がしんどいんだよ。だから、毎回、気張りながら文章書いてるよ。大体下痢ばっかだから、体がもたねえんだ。

 それでも、文章を書くことに没頭し始めれば楽しいんだよ。他のことが見えなくなって、言葉と向き合う、自分と向き合うことができるようになる。現実と向き合ってんだけど、なんか現実を忘れるというか。星野源が言う「アメーバ状態」のことかもしれない。
 あと、ギターを弾いてる時かな。周りを気にせず、気持ちよく弾けたり、新しいアレンジが思いついたりしたときはも本当にたまらない。勉強とかでも息詰まったらギター弾いてみるかっていって、なんか元気になったりするからな。

 でも、なんか結局、絵にならない「幸せ」しかない人間からすると、絵になる「幸せ」を持つ「そっち側」≒「陽キャ」に多少の憧れは持っているようで。インスタを気負いなく楽しめる人って本当に羨ましいんだよ。今でもその気持ちは変わらない。
 例えば、この前、公園で友達とギターの弾き語りをしている動画をストーリーに上げてるやつがいた。そいつは「公園」で「友達」と「ギターの弾き語り」をして、それを「動画」にとって「インスタのストーリー」に上げるんだぜ?
 まじでなんなんだよ。
 俺はさ、「家」で「一人」で静かに弾き語りしてるのを「録音」して「ここはあーだこーだ」って思って楽しいと感じられてた時間も、楽器NGの家に進学のために引っ越して、満足にギターすら弾けないんだよ。それをさ、実家住みのあいつがさ、なんか「自分、ギター弾けるし、歌も自信あるんすよ」みたいなスタンスでやられるのがもうたまらないほど悔しい。
 俺だって、ギター弾きたいし、歌歌いたいよ。
 でも、公園で歌う勇気なんてありゃしないし、ましてそれをインスタにあげるなんて尚更だよ。

 自信があるっていいよな。
 自信があるから、気負ったりしないんだろうな。
 「嫌われるかも」って思わないのかもな。

 で、もっとイラついたのはそのストーリーに小さく「曲終わって拍手もらったんだけど、撮り忘れちゃった。」って書いてあんだよ。
 殺してやりたいよ。
 それで拍手もらえるって。

 こうやって心の中で人を殺めているから、自分の行動範囲が狭まっていくのはよく知っている。でも、治せない。
 「人の好みなんかをあーだこーだ言っちゃいけないんだよね。」って書いてあるけど、やっぱ「嫌い」なものも書かないとやってけない。
 自分が見てもへどが出る性格だな。
 あと、自信がないってことはやっぱりネガティブなところはあんだよ。100%純正ネガティブだとは思わない。でも、自分のことを一番に考えているのは自分なんだから、やっぱ人の自己分析を否定するのってもっと責任持つべきだと思うわ。

 そういや、「幸せ」がテーマのエッセイだったな。なんか、後半は自信を持ちたいって気持ちが溢れてただけだったな。幸せを感じる時は書けたけど、肝心の「幸せとは何か」には全く答えられてないな。
 まあ、でも、

 幸せって絶対値だよな。


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