
宇宙が味方の見方道
菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想に入ったお釈迦さまは、12月8日の朝、日の出の時、その日の光を浴びて「わかった、私は悟った」と叫んだそうです。
それから、釈迦は、かつて一緒に修行をしていた5人の仲間に会いに数km離れた竹林へ向かいました。
この修行仲間たちは「苦行を捨てた釈迦は、堕落した」と言って去っていった人たちだったんですが、釈迦は彼らに開口一番「私は悟った」と言ったんです。
するとその5人は、釈迦のことを堕落してどうしようもない奴だと軽蔑して去っていった人たちですから「どうしたんだい、ゴータマ君」って“君”づけで呼びました。
「実は、こういうことを悟ったんだ」と釈迦が数分話をしたら、その5人は、居住まいを正して「今、この瞬間からあなたを師匠として、私たちは弟子として、これからあなたに一生ついていきます」と言った。
では、その数分間の話とは一体何なのか。
それが釈迦の最初の悟りと言われているもので”縁起の法則”というものなんです。
「縁(よ)りて起こる」。
縁起の法則というのは「人は自分の人生を自分の想いでつくれると思っているがゆえ に、悩み苦しむ。
人生は自分の想いでできあがっているのではなくて、自分たちの想い以外の神仏や周りの人々のお陰で全部が成り立っている」と釈迦は言った。
釈迦はそれに気がついた。
私の人生をつくってるのは私じゃない。
人は、自分の人生には1%も関わってない。
0%だ。
では、私以外の神仏、友人、知人、家族というものが私の人生を成り立たせてくださっているとしたら、私の想いで私の人生をつくってるんじゃないとしたら、私にできることは、私の人生を成り立たせてくださってる神、仏、友人、知人、家族に対して、ただひたすら感謝をするしかない、ということになります。
そこにしか自分の人生に参加する方法がないということなんです。
自分の想いで自分の人生をつくっている人はいない。
自分の想い以外の大きな力によって人生が成り立っている。
例えば、コップに水が入っていて、これを私が飲もうとする。
自分の意志でこの水を飲もうとしているけれども、私がこの水を飲むことについて私が関わっているのかどうかという話をしますと、このガラスコップを作ってくれる人がいなければ、ここまで水を持って来ることはできませんよね。
今、この状態で置いておくことができない。
両手でずーっと持っていなくちゃいけない。
両手で持っていれば、水はどんどんこぼれていって、飲めないですよね。
だから、ガラスコップのお陰で水が飲める。
ガラスコップというのは砂から珪砂(けいさ)というものをとってきて、ガラスを作るわけですから、コップになる前の段階でガラスになる材質をとってきてくださった方がいるわけです。
そのガラスコップがテーブルに載ってるということは、テーブルを作った人がいるんです。
テーブルは床の上に載っかってます。
床は大工さんが造ったんですよね。
その大工さんに家を頼んだのは建物の持ち主なんですよね。
それに関わったすべての人がいなければ、このコップの水は存在しないから、飲むことはできない、ということになりますね。
で、何よりも一番肝心なのは、この水そのものが私たちにはつくれないんですよ。
水が空から落ちてきて、それを飲むことで人は生命を維持することができている。
「私が自分の命を維持してるんだ」と私がどんなに頑張って主張しても、この水さえもつくることができないのです。
この水が上から落ちてきて初めて、私たちは飲むことができて、生きていられるのだから。
私の想いとか私の能力とかが、この水に関して何か参加していますか。
そういうことを考えていったら「私の人生に、私はどこにも参加していない」と確かに言えるんですね。
そう考えると謙虚にならざるを得ないでしょう。
小林正観
『宇宙が味方の見方道』清談社
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小林正観さんのこの言霊に出愛ったことに 感謝します。
生きることはすべてにおいて愛深く見守られ
生かされていることと知りました。
この世にあたりまえなんかない
すべて有り難いもの = ありがとう = 感謝
母の胎内で抱かれているように いつも私たちは抱きしめられていることに気づけた幸せ。
この上で 自由を与えていただいている。
何を想い どのように生きるか
愛深く見守らていることに
感謝をこめて💐