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第3期神戸市教育委員会振興基本計画、明日につなげる新・神戸プラン令和2年度〜令和5年度(案)を拝読しての提言まとめ
少し前の事になりますが、Cuddleメンバーで神戸市教育委員会に提言を提出した時のお話。こんな時期でしたが、しっかりマスクして子どもたちと一緒に教育委員会の方に手渡しして来ました。以下我々の提言です。神戸市教育委員会の方々の心に少しでも届いたでしょうか。
ガチなのでかなり長文です。
「第2期神戸市教育振興基本計画」期間終了を踏まえ、本計画を継承・発展させた「第3期神戸市教育振興基本計画(案)」について取りまとめましたので、市民の皆様からのご意見(パブリックコメント)を募集を受けて。
幸せな社会人に子どもたちを育てたい!Cuddleは学校がしんどいと思っているお子さんと家族の方はもちろん、今子どもは学校に行っているけれど…子どもの将来が不安だなと思われている家族の方にも寄り添い、子どもたちも自分たちも幸せに生きて行く力を身に付ける為の学び合いをするコミュニティです。
以下、新・こうべ教育プランついて、メンバー6名が意見を述べさせて頂きます。
順不同。
■教育についての想い
保育園 幼稚園 学校は
⇓⇓⇓
幸せな社会人になるための学びの場
主体的に 学びたい!! を育てる場 社会が大切
そのためには、
まずは、大人が“子どもの力 可能性 を信じる 待つ”
これは
親
養育者
子どもに携わるすべて(保育士 幼稚園教諭 学校教諭)の人に
伝わっているでしょうか?
家庭も
所属機関も
同じ想いだからこそお互いを信頼し合えます
〇「一斉指示」「ルール固め」
これは、子どもの“力 可能性を信じて 待つ”につながるでしょうか??
大人数を統制するにはこの方法は楽だし、
見た目はきれい かもしれない。
でも、その中で育っていく子どもたちに「主体的な学び」は身につくでしょうか??
例1『掃除』
いつも使わせていただいている学校に感謝の気持ちを込めてきれいにする活動
それが、
「しゃべらないで掃除するルール」がある。
→おしゃべりせずに、時間内に 集中して掃除しなさい ってことですよね?
きれいになったかどうかは二の次で、早く終わらせておしゃべりしたい になるのが当然。
きれいにしたい!!という想いがあれば、主体的に手足が動き、おしゃべりは最低限になる
はず。しゃべらないから、きれいにしたいと思う気持ちが生まれる??
例2『授業』
<本来>
その話 その授業 聞きたい 知りたい
⇓
集中する
⇓
私語がなくなる
<指示で固めると…>
授業です
⇓
静かにしなさい
⇓
イヤイヤ聞く
⇓
身にならない
“子どもの力 可能性を信じて 待つ”を
いつも心においておくことで
本当に必要な「指示」「ルール」が生まれるのではないでしょうか。
■スクールカウンセラーの配置
各学校に1名常駐がありがたいです。
現在、来校数が少ないため、保護者支援と担任との連携で手一杯。
常駐していただくことで、
〇本人へのアプローチ
〇クラスメイトへの理解促進
〇学校活動の把握
〇保護者 担任との密な連携
〇教員全体への周知
〇保護者学習会の開催 など
ができると思います。
子どもも、保護者も、相談したい時に相談できる がとてもありがたいです。
■地域との連携
地域社会と繋がる子どもたちを目指すならば、
学校がまず地域社会と繋がりましょうよ。
地域には、『学校が何に困っているのかが伝わってこない』のが現状です。
学校評議委員会などがあるのは知っていますが、わかっているのはそこに参加した人だけ。(そこも課題かもしれませんが…)
先生方は同じ地域にお住まいでないので、たよりにくい面もあるかと思いますが、
この地域で育っていく子どもたちのために繋がってほしい。
これは、先生方の働き方改革にも繋がると思います。
例えば こんなこと手伝っての例…
・配布物の印刷業務
・校内の緑化整備
・休み時間ボランティア(むかし遊び 読み聞かせなど)
・学習支援
・遠足や社会見学の見守り
・不登校支援(私たちの団体 カドル等)
■不登校支援
数値からも増えています。
生活していても感じています。なぜでしょう。
〇学校に行きたくても「いじめ」が怖くて行けない
〇学校に行きたいけど、大人数での学びが苦手
〇学校が窮屈で行きたくない
〇学ぶ意欲はあるけど、学校は苦手 など
理由は、いろいろあります。
だからこそ、対応策もいろいろあっていいはずです。
学校は義務教育なんだから行くもの!!でいいでしょうか?
〇どんな工夫をしたら学校で過ごせるのかな?
〇どんな工夫をしたら学校以外でも学べるのかな?
個々に応じた教育を目指す時に、
前述した
☆スクールカウンセラー常駐
☆地域社会との連携
は必須だと考えます。
■管理職の任期
学校作り、独自性 地域との連携などを考えると任期3年が短いように感じています。
やっと先生のお人柄がみえたなと思ったら離任されてしまうのが本当に残念です。
Cuddle メンバーY.H
■神戸市の説明資料を読んで感じた事。
「理想の子供」を作り出すのが学校なのか?という事。
みんなぞれ違う種を持ってるのに、「あなたたちはみんなこれから同じひまわりになるのよ」と言われてるようなイメージです。
うちは子どもがまだ保育園行ってる歳なので、その部分見ても「幼児期の終わりまでに育って欲しい姿」と書いてあるのを見て、そうなっていなければだめなのかなと感じました。
Cuddle メンバー S.K
■教育理念に「心豊かにたくましくいきる人間」と掲げていることについて
こどもの個性は多種多様です。大人しく、ジッと様子を見る子、じっくりゆっくり時間をかけて考えるタイプのこどもにとって、「たくましく」と掲げられことは苦しい環境に置く意味ととらえられます。
大切なのは、たくましくなくてもいい、という個性そのままであることを認めることだと思います。
個性を否定することは自己肯定感を下げてしますことになります。
自己肯定感を下げることは結果的に生きる気力を失わせます。
たくましくいきる子を育てるには、義務教育、高等教育を終えた後に芽が出てくることであり、教育期間内に理念を実現することだけに重点が置かれないようにしていただきたいです。
■「確かな学力の育成」「健やかな体の育成」について
子どもの学力には得意不得意の分野があります。得意科目が不得意になったりその逆もあります。習熟度を数字でチェックする方法をとることは、できることの芽を摘むことになってはいないでしょうか。
学習指導要領は、あくまでも学習を進める目安であるはずなのに、いつの間にか「必ずやり遂げなくてはならない」必須事項となっていることは上にあげた教育理念から遠ざかってしまうことになります。
勉強、体育が苦手な自分でも大丈夫なんだという安心感が自己肯定感です。
■「教員の質向上」「いじめをなくす」という目標について
現場では、こどもに「させなくては」という強迫観念や、「これができないと生きていけない」といった考えを強くもつ教員が虐待に結び付くほどの「行き過ぎ指導」に陥っているケースが現実に起きています。
*行き過ぎ指導によって生徒が不登校になるケースが多く見受けられます。
新任教師の3年異動無しに縛りを廃止してもらいたい。
多くの問題を起こす教師が守られ、不登校になった児童が守られない結果を生んでいることもあります。
「いじめをなくす」ことについては多様性を認められないことに一因があります。
活発な子、大人しい子、すぐにレスポンスがある子や時間がかかる子、数学は得意だが、作文がどうしても苦手な子、工作での自己表現はできるが言語表現が苦手な子、こどもは本来多種多様の個性をもっているのに、それを認められない教育現場では生きる力をはぐくむこともできなければ、いじめを無くすこともできません。
高校受験においては学力・生活態度トータル的によくできる子が有利になってしまう内申評価方法をとっている現状で苦しむ中学生は多く、その結果いじめ発生、自己評価の低下を招いてはいないでしょうか?受験ために内申点を挙げるために社会活動等は「主体的な行動」といえるでしょうか?
個性が認められず、本当に主体的な行動ができない現場において、自分の命を大切にする「豊かなこころ」がはぐくまれるのか疑問があります。
■児童・教員が多忙における問題
「主体的に」勉強、活動に取り組めるようになるには、子ども、大人ともに精神的に「余裕」や「余白」がないと難しいです。
宿題が多すぎることについては、すでに主体的な勉強では無くなっています。決められたことを遂行するのは「主体的」な行動ではありません。
「対話」を重視するのであれば「個性」が認められなくてはなりません。
教員についても、時間的、精神的余裕、余白を作り出すことは大切だと思います。
教師の主体性が持てない実情において、教師が主体性を児童へ教えることはできません。
勉強を教える事だけが教師ではないと思います(勉強を教えるだけなら塾になってしまいます。)
教員の方々には、勉強を教えることよりも、多種多様の個性を認めたうえで全体を調整する能力を身に着けていただきたいと思います。
地域のいろんな人々がより良く「共生」するために学びを深める場所が「学校」だと思っています。その実現に与することが、「学校の先生」なのだと思います。
■結論
教師 主体性を発揮できる職場へ。
教師が主体性を持った授業を持つ取り組み
児童 安心して失敗できるし、再挑戦ができる環境を
*失敗を責められるのではなく、改善点を提言してもらえる環境を。
Cuddleメンバー S.A
公的な「子どもを主体とした民主的な学びの場」を求める要望書
2020年度の学習指導要領改訂に伴い、「主体的で対話的な深い学び」という理念が打ち出されました。しかし、今の公教育の在り方の中で、その理念は実践されているだろうか。
また、人それぞれに多様な生き方や在り方がある中、集団生活学ぶうえでそれぞれの性を認め合える感度や感性を育むことは大切なことだと考える。しかし、そのような感度や感性は育まれているだろうか。
私たちは、新学習指導要領に打ち出された理念が本質的に実践され、多様性を認め合える感度や感性が育まれるような「子どもを主体とした民主的な学びの場」をこれからの公教育に求める。
私たちの考える今の学校や公教育における問題点や課題は、以下の通りである。
〇保障されていない子どもの権利
憲法上、子どもに対しての教育の義務を負うのは、行政や保護者である。子どもは学習する権利を有する存在で、学習の主体である。しかし、今の公教育において、子どもは学習者として学習の主体となれているだろうか。
今の公教育では、大勢の子どもたちを効率よく教育することを目的とするような「画一的な一斉授業」で「みんなで同じことを同じように同じペースで学習する」といった指導法での学習形態が主となっている。個々の発達段階や発達状況、また興味関心といったものは加味されず、決まった学習内容を一方的に教示される非合理的な学習状態となってしまっている。
そのような学習状態の中では、子どもたちが自己選択したり自己決定したりできることはほぼ無く、常に受け身で学習に取り組んでいる。言われたことを言われたとおりにこなしていく中で、子どもたちの主体性はどんどん削がれていっているように思える。
そして、学習だけでなく、学校行事や校則などにおいても、決められた枠の中で決められた事をその通りにこなしていくだけで、それらに対しての選択権や決定権などを子どもたちが持ち合わせていることはない。これは、学校生活において、子どもたちの権利が保障されていない、子どもたちは権利を保有すらしていない状態であると言っても過言ではない。校則においては、それぞれの人権を保障しみんなが過ごしやすくするためのものといった視点ではなく、集団で生活や行動する中で面倒なトラブルを極力起こさないようと管理するような意味合いのものが多い。
公教育は、子どもたちの集団生活における公共性や多様な性を認め合える力、民主的な感度などを育んででいくべき場である。しかし、自分自身の権利が認められない中で、そのような力や感度が育まれることは無く、認められないが故に自分の権利ばかり主張したり、他者の権利を考えられない子が育ってしまっている。
〇みんなで同じことを同じようにという同調圧力
今の公教育では同年齢で区切られ、先にも述べた通り「みんなで同じことを同じように同じペースで学習する」といった形態で授業が進められている。この状態は、子どもたちに「何年生ではこれが出来て当たり前」や「みんなで同じように出来て普通」といったメッセージを暗に届けている。そして、このメッセージを感じると同時に、「何年生でこれが出来ないことはダメなこと」や「みんなで同じように出来ないことはおかしいこと」といったメッセージを受け取っていることになる。これが、偏見や差別の芽にも繋がっているのではないかと考えられる。
こういったことがある種の同調圧力として働きかけ、そこに生き苦しさを感じる子どもを生み出してしまっているのではないだろうか。子どもの健全な自己肯定感の育成を阻んでいるのではないだろうかと危惧する。
〇狭い範囲での学力テストにおける学力至上主義
近年、学力テストが全員参加になり、大阪では市内での経年テストや府下でのチャレンジテストが導入され、さらにテストの点数における学力競争が過熱している。
これらのテストで測れるのは、学校で学んだ一部の教科の習得状況や学習到達度である。その子がどんなことに興味関心を持っているのか、その子のどういった所に魅力があるのか、そのような事には関係なく、一部の教科のテストの点数だけで子どもたちを見てしまっても良いものだろうか。
入学試験や採用試験などにおいて選考するための一つの基準であったとしても、公教育までもがこのような偏った内容で子どもたちを競争させて序列化したり、評価や評定を与えることで子どもを価値づけするのはあまりに不健全であると考える。
公教育にいては、子どもの豊かな人間性を認め育み、互いに多様な生き方や在り方を認め合える感度を養っていくべきではないだろうか。
子どもたち一人一人が幸せになりまた幸せになるための、そして自らが幸せになり満たされることで他人の幸せも思えるようなそういった感度を育むことが公教育の使命であると考える。
〇不登校児童・生徒の増加
ここ数年問題視されている、不登校児童や生徒の増加の原因や理由には、様々なものがあると思います。しかし、上記した事柄も、その原因や理由になると考えられる。
子どもの権利が認められていない息苦しさ、みんなで同じことが出来て当たり前やみんなで同じようにいることが普通であるといった同調圧力による息苦しさ、市場原理における新自由主義的な学力競争や自己責任論による息苦しさ、そういった様々な息苦しさが不登校児童や生徒の増加へと繋がっているのではないかと考える。
さらに問題なのは、不登校(公立の学校に行くことを選択しなかった)子どもたちの学びの機会や場が保障されていないということである。NPO法人や民間のフリースクールなどはいくつかあるが、公的な支援が無いためにある程度の収入が無い限りそういった場を選択することが出来ないのが現状である。
〇今の教育の在り方を当たり前と思っている教職員
公立の小学校という現場で働く中で感じることは、同じように現場で働く現役の教員に日本の教育とは違った海外の教育について知る教員が非常に少ないという事である。日本のように黒板を教室の前面に設置し全員が前を向いて座って一斉に授業を受けるような授業が姿を消しつつあること、またそれとは違った学びの形態や教育理念があること、そういったことをもっと現場の教職員は知るべきである。
色々な学びの形態や教育理念を知ることで、もっと多様なもっと豊かな教育が成されていくものと考える。そうすることで、学校自体も多様で豊かなものとなり、息苦しさを感じている子どもたちにも学びやすい環境が生まれてくるものと考える。
しかし、日々の授業や子どもや保護者への対応、さらには新しい学習内容の導入などによって、目の前の事で精一杯で海外での事例を学ぶ余裕がないというのも実情である。教職員が知見を広め、感性を豊かにすることができるための時間的な余裕や学びの機会が必要である。
以上のことを今の学校や教育の問題点や課題と考え、以下のことを要望する。
1.子どもの権利が認められる学びの場
子どもたちが学びの主体となるためには、できる限り子どもたちが自己選択し自己決定できることが大切である。すなわち、子どもたちの権利が認められる必要がある。
学習の内容や進度など自分に合ったものを教員と相談しながら、その子自身で選んでいけるような個別最適化した学びの環境や、子どもたちの声(子どもの自治)を取り入れていける民主的な環境を整備を求める。
2.多様性が認められる学びの場
現在の学校は、子どもたちを年齢によって分けた学年や学級を編成したり、「みんなで同じことを同じように同じペースで」学ぶ画一的な一斉指導が行われたりしている。そこには、「みんなで同じであること」や「みんなと同じことが出来ること」が普通や当たり前ととらえられるような同調圧力が働きやすい。
しかし、本来、子どもたちまた人は、それぞれに違っている存在である。「同じように成れる子もいれば、成れない子もいる」「同じようにできる子もいれば、できない子もいる」、それが当然の姿である。
その当然の姿を互いに認め合える感性や感度を育むためにも、異年齢での関わり(異年齢での学級編成や異年齢での活動や学び)を増やしたり、画一的な一斉学習を緩和したり、国籍や障がいに関わりなく一緒に学び合えるインクルーシブな学びの場を整えるための環境や整備や人員確保を求める。
3.自己肯定感が育まれる学びの場
自己肯定感とは「自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情」などを意味する言葉です。多様性を認め合える感度を育むためには、まずは各々が自分自身を肯定できることが大切であると考える。そのためには、一人一人がありのままで認められる環境でなくてはならない。
しかし、今の教育委現場においては、学校の授業で勉強したことにおいての知的能力におけるテストの点数や成績に重きを置く傾向にあり、テストでどれだけ高い点数を取ることができたか学力テストの順位が何位であったかなど、それらに基づいて学校や教職員や子どもたちが評価されてしまう。そのため、、子どもたちは、テストの点数が高ければ自分は有益なものであるととらえ、テストの点数が低ければ無益なものであると捉えてしまう。
テストの優劣で子どもたちに身につく感情は、他者と比較したうえでの優越感や劣等感であり、自分で自分の在り方を肯定する自己肯定感とはまったく違うものであり、むしろある特定の軸においての他者との競争や比較が、自己肯定感の育成を阻害しているものと考えられる。
また、先にも述べた画一的な一斉指導の中では、個々の在り方はどうしても抑制され、周りに合わせることを求められるため、そこに合わない子たちにとっての自己肯定感は消失させられているのではないかと考える。
自己肯定感が育まれる学びの場として、画一的な一斉授業ばかりを行うのではなくそれぞれの学びに合った個別最適化した学びを取り入れ、市場原理に基づく新自由主義的な発想による学力競争をすぐにでもの廃止することを求める。
4.誰しもが自分にあった学校を選択できる多様な形態の学びの場
子どもたち一人一人がそれぞれに違っているように、子どもたちに合う学びもそれぞれに違っています。しかし、今の日本の公的な学校のほとんどは、先にも述べたような画一的な一斉指導という学びである。
オランダにおいては、日本のような画一的な一斉指導を行うような学校もあれば、イエナプランスクールやサドベリースクールなどのように様々な学びの場があり、それを公的に選択できるようになっている。
多様な学びの場があって、その中から子どもたちが自分合った学びの場を選択できることにより、子どもたちは自分に合った環境で学びに取り組むことができると考える。自分にあった環境を選べることで、今の学校が合わずに登校しないことを選んだ子どもたちにも学びの機会を保障できるものと考える。
そのために、公的な学校においても様々な学びを取り入れそれを実現できる環境を整えたり、今あるNPO法人や民間の学びの場への通学に関する公的な支援を充実させていくことを求める。
5.多様な教育の在り方を知り、感性を豊かにすることができる教職員のための学びの場
問題点で述べたように、現場で働く教職員が今の日本の教育以外にも様々な学びの理念や在り方があることを知らない。また、それを学ぶ機会が少ない。
日々の学習や様々なトラブルへの対処、新しく導入される学びや制度、それらへの対応にばかり追われ、学びの理念や在り方へと目を向ける余裕がない。また、そういった様々な学びについて学ぶための自治体や行政からの研修や講演会などが、ほとんどない。
そのため、現場では今の教育の在り方について見直したり考えなおしたりされることはほとんどなく、保守的になり、自分たちが行っている指導の仕方や学びの在り方の中でどう授業を進めていこうという考えになっってしまっている。これでは、先に述べたように、その学びが合わない子どもたちにとっては、学びが苦痛のものとなっていってしんまい、それが不登校へとつながっていってしまい、学ぶ権利を放棄するものとなってしまう。
まずは、現場の教職員が様々な学びの在り方や理念を知り、学びについて見直したり考えなおしたりするべきだと考える。そうすることで、個々の教職員の学びについての感性も豊かになり、公教育における学びのも豊かになっていくものと考える。
そのためにも、現場の教職員が学ぶことができる時間的なゆとりを持てる働き方や業務内容の見直しや改善と、様々な学びの理念や在り方について学ぶことができる研修会などの実施を求める。
子どもたちが「主体的・対話的で深い学び」を通して自立した考え持ち行動できるようになり、また、自己肯定感を高め、多様な在り方や生き方を認め合いながら協働していける感度を育んでいくためにも、1.~5.に記述したような「民主的な学びの場」の実現を公教育において求める。
Cuddle メンバー F.K
■特別支援教育の拡充について提案
私は現在、神戸市灘区で児童発達支援・放課後等デイサービスで勤務しております。また、神戸市灘区社会福祉協議会の『みんなの居場所助成』を受けて、子どもの発達とえがおを支援する親と支援者の会『HIKARI.CAFE』の代表をしております。また、私自身の子どもが発達障害で、現在小学校と連携をしながら、普通級に通っています。1年生の時は、とても理解ある先生で子どももとても楽しい1年が過ごせたようです。その先生の教育が、私自身も過去に兵庫県立の学校で勤務していた経験があり、とても参考になったので、他でも広がるよう、要望したいです。
1、
『2)障害のある幼児・児童生徒に係る福祉制度等の情報を周知徹底し、教職員の知識や対応力の向上を促進。』
まだ、放課後等デイサービスという場所で何が行われているか?ということを知らない先生が多い中(放課後等デイサービスを知らない先生も残念ながらおられます)、先生は全てをご存知でした。放課後等デイサービスの先生と連携を図り、様々な合理的配慮を検討して頂きました。内容につきましては、もし必要であれば添付させて頂きます。
他の先生方にもぜひ学んで頂きたい(知って頂きたい)ことだと思っております。
そこで、
2、
『1)関係部局との連携を密にし、障害のある幼児・児童生徒への支援体制を構築。』
『3)学校と障害児通所支援事業所が連携し、個別の教育支援計画等を介した幼児・児童生徒への支援を充実。』
とありますが、現場を知らないと連携も取れないと思います。担当児童が通っている事業所に担任が積極的に見学や話し合いの機会を持てば、学校でも支援を反映できると考えました。
また、場合によっては近隣の放課後等デイサービスに研修に行く制度等(長期休暇などを利用して)も必要かと思います。神戸市の教員採用試験は、特別支援教育に力を入れておられるので、ぜひ採用後も先生方の多様な学びの場を作って頂き、現場の声や多様な子どもたちの声をぜひ聞いて頂きたいです。
現在、新型コロナウイルスの影響で放課後等デイサービスは利用者の急増により、職員の人員不足等の問題が生じています。文部科学省が令和2年3月2日に依頼された『新型コロナウイルス感染症防止のための小学校等の臨時休業に関連した放課後児童クラブ等の活用による子どもの居場所の確保について(依頼)』の学校の先生の派遣をできる限り積極的に実施することで、学校再開後に特別な配慮を必要とする児童生徒に対して迅速な対応ができるかと思います。現在、緊急事態宣言が発令されて、教職員はできる限りの在宅勤務をされているとお聞きしました。ただ、放課後等デイサービスのほとんどは開所している状態です。各学校1人1日でも、研修あるいは見学をするいい機会だと思っております。新型コロナ感染の危険もありますので、十分なご検討は必要かと思いますが、ぜひ緊急の検討課題にして頂きたいです。
また、連携という観点から、時々管理職の先生によっては『外部機関なので、連携を取らない』とされる方もいらっしゃるようです。第3期神戸市教育振興基本計画(案)にも、『3)学校と障害児通所支援事業所が連携し、個別の教育支援計画等を介した幼児・児童生徒への支援を充実。』とありますので、担任の先生方をはじめ、特に管理職の先生方の理解も一層深めて頂きたいと思っております。連携の窓口は担任の先生であったり、特別支援コーディネーターの先生になるかと思いますが、いくら担任の先生に理解して頂けていても、管理職の先生方の理解がなければ、どうにもならないこともたくさんあると感じました。可能な限りぜひ管理職の先生方にも見学や研修、話し合いの場を積極的に設けて頂きたいと思います。
3、
『2)障害のある幼児・児童生徒に係る福祉制度等の情報を周知徹底し、教職員の知識や対応力の向上を促進。』
再度になりますが、現場研修や有識者の意見を聞くなども教職員の知識や対応力の向上を促進に繋がることもあると思いますが、一番は『当事者や家族の意見』が重要だと思っております。
子どもの1年生の時の担任の先生は、まず本人や私に意見を聞いてくださり、その結果を持って先生方に会議をかけてくださり、合理的配慮について有効な手段をとることができました。また、子どもは皆勤賞を取ることができました。
神戸市灘区では、『子どもの発達とえがおを支援する親と支援者の会HIKARI.CAFE』や、『幸せな社会人を共に育むラーニングコミュニテイーCuddle』等、親御さんが主体となって立ち上げた会が多くあります(詳細は、灘区社会福祉協議会にお尋ねください)。そういう場所に、担任の先生方や管理職の先生方にも親御さんの意見を積極的に聞きに行く機会を設けて頂いたり、教育委員会の方にお越し頂き、講演をして頂く等の連携も必要だと思います。更に、私自身神戸大学のゲストスピーカーとして講演をさせて頂いた経験があるのですが、会に依頼して頂き、学校の職員研修等で親御さんに生の声を講演をして頂く機会を設けて勉強会を開いたりすることも有効だと考えます。
以上、簡単ではありますがご要望させて頂きます。
ぜひご検討頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。
子どもの発達とえがおを支援する親と支援者の会HIKARI.CAFE代表
Cuddle顧問
E.A
■こうべ教育プラン(案)で目指す人間像、心豊かにたくましく生きる人間をどう育むのか、教育出来るのか、時間がないのでざっくりと考えてみた。(私が意見募集を知ったのは締め切り2日前。このような、神戸に住む子どもたちの将来に関わる重大な事柄を、ホームページ掲載のみで、しっかりと市民に周知することなくコロナの混乱に紛れて形だけ民意を募るのは納得できなかった。)
出来れば今回のプランは6月市議会では通すことなく、保護者からなる各団体や、支援者、現場で子どもたちの指導に当たっている教員、出来れば今問題を抱えている生徒たちからしっかりと丁寧にヒヤリングしてもらい書き換えて頂きたい。その上で子どもたちも親も教員も納得いくプランを通して頂きたい。そのくらい重要な事だと認識している。
基本計画に書かれている事全て、そうなればいいな、という願望にしか聞こえず、その指針が一人も取りこぼさない教育という観点から実現可能なのかは、このプランからは読み取れない。
新学習指導要領に合わせた内容で、当たり障りの無いように書かれていると感じる。
重点事業1の取組の方向性の所に、「主体的・対話的で深い学び」という新学習指導要領に記載された言葉があるが、その学びが具体的にどういう学びなのか、どのような学びと捉えているのかなどの説明が無いままに、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善の促進と書かれている。どう改善していくのかが見えてこない。
現場でもたくさんの学校が模索し授業研究などを実践しているが、何校かの実践を見聞きしてもピンとくる実践は自分の知る限りなかったという教職員の話を聞く。
そもそも学習に取り組むスタートが主体的ではなく、それを実現させるために授業をどう改善していこうと考えているのか?
学力向上が念頭に置かれているのに
主題の心豊かにたくましく生きる、とはどういう状態を指すのか。学力だけが価値判断なのか。
人間は一人ひとり個性があり、立つスタートラインも違う。
両親が揃っている子どもとそうでない子ども、経済状況が整っている子どもとそうでない子ども。算数が得意な子、音楽が得意な子…それぞれの発達段階も違う。そんな不平等な状況下で、教員1に対して40人程の生徒をきめ細やかにフォロー出来るのか。偏差値で人を評価する世の中で、偏差値では測れない能力を伸ばす教育を今の公教育下で神戸市は取り組もうとしているのか。本気で取り組もうとしているなら、せめて公立学校内フリースクールやイエナプランを導入している機関に視察に行き、参考にしているのか。
基本的に教職員は、既存の学校教育を受け続ける事が出来た人だけがなれる職業だ。いわば学校の世界のエリートだ。そんなエリートばかりが集まった、同質性の高い環境下では内集団バイアスがかかり、内輪ルールが強化され、無意識に子どもたちや後輩教員を支配下に置く構造が出来上がる。そして教職員は日々の重労働や様々な内輪ルールに心のゆとりがなくなり、いちいち少数派の子どもたちに時間を割いて関わる余裕はない。そんな教職員が心豊かな学びを子どもたちに提供出来るだろうか。学校教育は学校エリートだけでは成り立たなくなっているのだ。だから不登校問題が生じる。不登校の問題は子ども側にあるのではなく、学校側、もとい、制度にあるのだ。それは自覚されているだろうか。プランの文面を読む限りNOだ。
そしてこのプランの欠点は、一人ひとり応じたきめ細やかな教育、支援と謳いながらその目標は支援の比較的少なくて済みそうな多数派の生徒向きのものだという事と、主体的、対話的、と謳いながら全て教育委員会と”有識者”でプランの決定、目標を勝手に作成し、本当にきめ細やかな支援が必要な子どもたちの意見はヒヤリングされていない事だ。
小気味いい言葉だけが並べられているが矛盾だらけ。
そんなことを繰り返していては子ども間、教員間のいじめはなくならないし、子どもも教職員もますます”学校不適応”が増えるだろう。
私たちは真剣に"子どもたちの今と向き合い、子どもたちの将来を誰もが心豊かに生きられる社会作り"を提言したい。
海外の教育現場では子どもたちの個性を尊重し、教育改革を行った結果 不登校児の数が激減し、全体の成績も上がった…"
世界に目を向けてみると、様々な選択肢があるが、日本は未だに150年間変わらない押し付けられた古い価値観や同調圧力による弊害が子どもたちを心豊かにするどころか追い詰めている。
まずは現場の声を丁寧に聞き、共に心豊かに生きるとは、を議論してはどうだろうか。コロナ禍で学校運営が通常ではない今ならそれが可能だと思う。私たちは喜んでそれに参加させて頂く意思がある事をお伝えし、提言とさせて頂く。
幸せな社会人を共に育むラーニングコミュニテイーCuddle(カドル)
共同代表 M'M