小説①

 僕が秋田で学生をやっていた頃は、たぶん熱中症という言葉もまだ一般的ではなかったと思う。今思い出してみると、僕の住んでいたアパートはエアコンもなく、夏場は窓と玄関のドアを開けるとときどき風がすーっと通ることだけが救いだった。扇風機はあったとはいえ、あれで一度も熱中症にならなかったのは今も不思議である。
 だけど、男が一人暮らしをしているそんな部屋が、なぜか当時は一部の女子たちのたまり場でもあった。特に、なんやかやと理由をつけてはしょっちゅう立ち寄ってくるのが、寺村早香さんだった。
「何よこれ、くさい」
 梅雨の季節のある日、彼女は玄関から入ってくるなりそう言った。モデルのような抜群のスタイルに長身、きりっとした顔立ちのものすごい美人が、顔をしかめて鼻をひくひくさせながら靴を脱いでいる。
「洗濯物のにおいかな? 乾くと消えるから大丈夫だよ」
 居間で本を読んでいた僕は、そう答えた。一人暮らしの狭い部屋なので、玄関は丸見えだ。また、彼女があいさつもせずに部屋へずかずか乗り込んでくるのもすっかり慣れている。
「乾くと……って、それにしてもくさいわね。洗濯物なのね?」
 彼女は居間に入ってきて、部屋干ししている僕の洗濯物を見やって言った。
「本当だよ。嗅いでみる? 季節柄なかなか乾かなくて、どうしても臭いが出るんだよね」
「か、嗅ぐ?」早香さんはなぜかうろたえていた。「そ、それはちょっと悪いわよ」
「そうだねごめん、悪い冗談でした」僕は笑った。「まさか乾いてない肌着の臭いを、早香さんに嗅がせるなんて……」
「いやそれは別にいいんだけど」
 なんか頬を赤らめている。
「え?」
「いやそれも別にいいのよ!」
 狼狽したり怒ったり、なんだかよく分からない。
「ああもう、くさいし暑いし、地獄ねここは」
 僕の部屋には何度も来ているのに、今さらのようにキレる早香さん。よほど部屋が暑いのか、頬はますます紅潮していた。
 彼女はいつものように講義の後の「休憩」で立ち寄ったらしく、バッグからお菓子を出して食べ始めた。慣れたもので、ぺたんこの座布団を自分で引き寄せて、その上できっちり正座している。
「お茶飲む?」
「いただくわ。――何読んでるの」
 布団を外したこたつテーブルの上で開いていたのは、昔の哲学者が書いた本だ。どう考えても早香さん向けではなく、作者とタイトルを言ったが、彼女はふうん、と相槌を打っただけだった。
「ゼミの佐和田先生から借りてね」
「法哲学だっけか」
「そうそう。ときどき、いろいろ貸してもらってるんだ」
 扇風機の風が早香さんに当たるように調整し、僕はお茶を入れる。安いお茶だが、少し濃く出して氷を入れると、今の季節はそれだけでうまい。部屋に来る女の子たちも、その涼味にはなるほどと納得してくれている。
 さっき、一部の女子のたまり場になっている……と書いた。そういう書き方をするとまるでハーレムのようだが全然そんなことはなく、大学の同期生である寺村早香さんを筆頭に、どいつもこいつもただ立ち寄ったり、押しかけたり、休憩に来たりするだけだ。人によっては、菓子を食い散らかしたり勝手にいびきをかいて仮眠したりしてから出ていく。
「曾我さんとこ、ミョ~に居心地いいんすよね!」
 と、後輩のねねねは言っていたものだ。彼女も、中途半端な時間から講義があると、朝から立ち寄っては講義が始まるまでの間、ひとしきりゲームをしたり漫画を読んだりして時間をつぶしていく。
 どうも、僕自身が通いやすいからと、大学の近くにアパートを借りたのがそもそもの間違いだったらしい。かように、僕以外の(女子)学生までもが変な利用の仕方をするようになった。
 いや、学生ができるだけ大学に近いアパートを選ぶのは自然なのだが、大通りやスーパーが近くにあり、駐車スペースまでそれなりに確保されているのも、多くの(女子)学生にとっては安全というか安心感というか、とにかくそういう感覚が湧くポイントなのだろう。実際、僕も居心地がいい――一人で静かに過ごせる時間がもう少し多ければ、の話だが。
「ねえ、ところでこの生乾き臭なんだけど」
 冷凍庫から氷を取ってグラスに入れ、居間に戻ると早香さんが言った。
「ナマガワキシュウ?」
 言葉自体知らなかったので、おうむ返しになっていた。洗濯物が湿ってる時に出てくる臭いのことよ、と彼女は解説する。
「なるほどね。その様子だと柔軟剤も使ってないわね」
 冷えたお茶に口をつけて、早香さんはちらりと僕の洗濯物を見た。すぐ目の前にボクサーパンツがぶら下がっていて、一瞬目を丸くしてからすぐに目を逸らす。
「ジュウナンザイってなんだっけ。聞いたことはあるけど」
「洗剤は何種類使ってるの?」
「種類って、ひとつだけだよ。そんな、カレールウみたいに何種類も混ぜるものなの」
「ああ、曾我くんも混ぜる派なのね。あたしもよくこくまろとジャワカレーを……」
 あれっと思った。以前、早香さんは「あたしはカレーもスパイス調合から作るの。一人暮らしでも料理の手間は惜しまないのよっ」って自慢してたような。
「カレーはどうでもいいのよ」どうやら彼女も、まずいことを口走ったと思ったようだ。「――とにかく洗剤も一種類なのね。その分だと、安い粉洗剤とか使ってるんでしょ」
「よく分かるね! 今はやりの、百円ショップのやつだよ」
 百円ショップ、いわゆる「百均」と呼ばれるようになる店をあちこちで見かけるようになったのが、ちょうど僕が学生の頃だった。早香さんはそれを聞いてがっくり項垂れた。
「結論を言うわね」彼女は顔を上げて、「この臭いは生乾き臭って言って、雑菌が発する臭いなの。確かに乾けば臭いは薄れるけど、それでも残るわよ。で、洗濯するたびにまた臭う。今はいい洗剤がたくさんあるから、それを適切に使えばだいぶ抑えられるんだけど、この強い臭いはもう手遅れかもね」
「そうなのか。不潔ってこと?」
「そうとは限らないわ。洗濯が終わってから、洗濯機の中に何時間も放置したりしなかった? それだけでも雑菌は繁殖するわよ」
「ああ、心当たりがあるかも。寝る前に洗濯機をかけて、干す前に寝ちゃったから翌朝までほったらかしとか……」
「それも大きいかも。でも解決策はあるわ。オスバンを使うの」
 早香さんは、不敵な笑みを浮かべた。
「オスバン?」
「逆性石鹸よ。普通の石鹸より洗浄力はないけど、殺菌力がすごいの。これをキャップに一杯程度の量、水で薄めて一晩漬けこんで、水洗いしてから洗濯するとかなり効果的よ。それこそ、下手な柔軟剤より効くわ」
「へえ」
「というわけで、今度持ってきてあげる。いつもお邪魔してるお礼がやっとできるわ」
 いつもみたいにお邪魔する口実がまたひとつできたわ、という感じにも聞こえた。
「オスバン持ってるんだね。じゃあやっぱり、早香さんも生乾き臭に悩まされてるんだ」
「そうよ!」彼女は何かがフラッシュバックしたらしく声のトーンを上げた。「もうあんな納豆みたいな悪臭は金輪際ごめんだわ。ネットで調べて、人に聞いて、やっとオスバンにたどり着いたのよ――」
 だがすぐに我に返ったようだった。
「……実家のママがね。言っておくけどあたしじゃないわよ。オスバンは、一人暮らし用にってママが持たせてくれたの」
「そう」
 使い方も分量も、ママが詳しく教えてくれたのだろう。決して実地に体験したわけではないのだ、きっと。
 早香さんが帰ってから、僕は改めて干してある洗濯物を一枚一枚チェックして、臭いを放っているものを特定した。タオルとTシャツが一枚ずつだった。

(つづく)


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