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感想:夜と霧(ヴィクトール・E・フランクル)

精神科医ヴィクトール・フランクルが、ナチスドイツ政権下における強制収容所での自らの経験をもとに、過酷な収容所の生活と限界状況にある人間の姿を描いた世界的ベストセラー。

「人生の一冊」として挙げる人も多い本著。
胸打たれるキラーフレーズも多いのだが、わたしは、強制労働中、極度の疲労と空腹で今にも死んでしまいそうなフランクルが、空想の中の妻と会話を始めた時に、場違いな事を考えてしまった。

今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。

(夜と霧)

推し活そのものなのである。
大体のオタクが、極限状態でもないのに、日々このテンションで生きている。

フランクルは、妻とは別々の収容所に送られた。
だから彼女が生きているのか死んでいるのかもわからない。
それでも極限の疲労状態の中、幻の妻は自分に微笑みかけてくれる。会話にこたえてくれる。厳寒の森の中で、監視兵にどやしつけられる現実をよそに、妻は光に包まれてそこにいる。

愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。知るすべがなかった(収容生活をとおして、手紙は書くことも受け取ることもできなかった)。だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。

「夜と霧」

以前SNSで「推しという言葉が生まれる前は、何と呼んでいたか」という質問に対して、

「命じゃない?」

という回答があった。つまり「あのちゃん推し!」は「百恵命」と同じ意味だったという話である。

なるほど。

人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

(夜と霧)

推しは命か。

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