「ドレス・コード?」展を観に行って考えたこと
東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「ドレス・コード?–着る人たちのゲーム」展を観に行った。
なぜ観に行ったのか
この展覧会は、ファッションが様々な分析視覚で語られる中でも、ファッションを「視る/視られる」という相互行為の中で成立するもの、つまり社会学的視点でキュレーションされている。
この展覧会、当初の予定からコロナ影響で変更になっていたのだが、楽しみにしていた理由がある。
博士論文の準備段階として、色々な先行論文を読みまくっていたとき、「ファッション・デザイナーの変容−モードの貫徹と歴史化の行方」 という論文にめぐり合った。ファッションデザイナーの役割は、戦後期の洋装学校の先生としての教育者から、既製服化への進展に合わせ80年代には芸術家に発展する。しかしながら近年のファションビジネスの波の中で企業組織人としてのデザイナーに変容したことを、社会学の視角から分析した内容である。
その著者の小形道正先生がこの展覧会のキュレーターのお一人であると知り、その視角を形として視ることのできるまたとない機会だと考えていたのである。
加えて、秋学期の授業も完全にオンラインで行うことが決定したので、昨年の授業内容をアップデートしつつ、オンラインで行うための最適化もしなければならず、「見せる」ヒントが欲しかった面もある。
自分自身がファッションに関連する授業を担当しているのは、それは百貨店の人であったことと、経営管理学を学んだことで、ファションビジネス、リテールマーケティングの点では実体験から語れるからであって、衣服そのものを語るのはおこがましい。
おしゃれが好きか、という点でも、百貨店勤務をしている中で好きになったのが実際のところであり、服を自分で選べるようになったのも、周りにおしゃれな方々がいっぱいいて、素敵なモノが溢れていて、給与天引きでじゃんじゃん買い物ができた幸せな環境のおかげである。
そして服選びの基準は、お客様にどう視られるか、売場の責任者として販売員の方からどう視られるか、人事部の人間として他の社員の方からどう視られるか、就活中の学生からどう視られるか、だったのだ。
とは言え、20数年もそんな世界に身を置けば、40代後半の同世代の中に放り込まれればおしゃれだとは言われるようにはなる。そしてファッションビジネス関連の授業を担当すれこととなれば、学生からもおしゃれな存在とみられている(はず)という強迫観念にとらわれることになる。
そして、展覧会に足を運び、日々勉強する羽目になる。
まさに、「視る/視られる」という相互行為そのものかもしれない。
気になったこと
さて展覧会は「ファッションの歴史的変遷を記述する内容にしない」、「デザイナーの創造性を語るモノグラフな展示にしない」コンセプトのもと、「アーキタイプ=原型」、反復し広がっていく中で形成される「ステレオタイプ」、固定化された形式から脱却するための「プロトタイプ」といった文脈で展示が進んでいく。
コード(規範)→読み換える「着る人」→他者からの視線→自己と他者のディスコミュニケーションのなかで、着る主体である我々がコードとどのように向き合っているかを紹介されており、自分自身のファッションに対する立ち位置を解説されているようで興味深かった。
図録も購入し、熟読する。自分の関心領域、(というかこれから論文書かなければいけない領域)に引き戻すと、ビジネスや、ファッションデザイナーのマネジメントについて考えねばならない。そのあたり、図録に収められていた千葉雅也先生と、蘆田裕史先生の対談 に示唆があった。以下、気になるところをメモメモ。
・コーディネートの実験をlowなところでやっていたものが、highな資本に回 収され、「ラグジュアリーストリート」が誕生した。デニムやミリタリー も同様。
・ブランドにお墨付きを与えられて高級化するとき、着る人のイニシアチブ はどこにあるのか?
・投下資本の回収後に何が来るのか。
・ファッションが色々なトピックを持ってくるとき、常に表面的、表層的で ある。ジェンダーフリーにしてもその先の掘り下げがない。
・「モノは美しくあるべきだけど、ヒトはそうあってはいけない」というダ ブルインパクトな状況、外見で傷つく人がいない社会にすべきだという意 見には同意するが、「美しさを評価しない」以外の結論であるべき。
・「かっこいい」とか「美しい」という価値観自体が旧時代の観念になるの かもしれない。
・ファッションはもともと物質性が重要、高価なテキスタイルや刺繍は重要 とされる、記号消費。「グローバル資本主義というもののロゴ」。
・マークを実存の頼りにする、アイデンティティを自分で担保することがで きないので外にあるものに頼る、権威性を求める。
・承認欲求、インスタ、シルエットは二次元の世界でも伝わる。
・社会問題を正面から捉え、ファッションとして表明することがハイ・ブラ ンドの果たすべき役割の一つである、というメッセージ。これも表層的 か。
考えたこと
ファストファションと、ラグジュアリーブランドが、現代のビジネスとしてのファッションを作りあげているとすれば、そこに至ったメカニズムと、今後のファションビジネスにおいて意匠の次に「来る」のは何か、企業組織人としてのデザイナーの行く先はどうなるのか、研究の進め方を考えると脳内は拡散する。
資本がファションをどう認識し、ファッションデザイナーはその認識された中で自己の役割を果たそうとしてきたのか、それとも自己の表現が資本に利用されただけなのか。
その両方のバランスを取れる資本と人物が、「成功」するのか、興味は尽きない。
展覧会にはたぶん○○服装学院とか、△△モード学園とかの学生さんぽい方がいっぱいいて、私も午前中仕事があったからジャケット着てたけど、一応このような展覧会に来ることを意識したジャケットにしていた。心なしか、みんなが展覧会を観にきている自分を、他人からどう視られていることを意識しているようでならなかった。
警備員さんの制服が、一番自然体でその場に馴染んでいた笑。
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