友達の人格ぐちゃぐちゃにしたっぽい(集団力動の非推奨)

 アリのコロニーって一つのでっかい脳みたいに機能してるよね、群知能だっけ、やってみよう。

 言い出したのはK君だった。高校一年生になったばかりの、青少年。俺ともう一人の友達Mは二年生だった。それからあと四人、適当にお互いの友達を集めた。奇しくもK君と仲の良いやつばかりになった。Mが最年長、早生まれのAが最年少。合計七人の脳を、一つの巨大な脳にしよう。胸を高鳴らせた夏休み、俺たちは同じ生き物になろうとしていた。

 まず、語彙を統合した。鑑賞会を開いて、お互いの言葉を拾った。最初は絵本から、『赤い蝋燭と人魚』を読んでそれぞれ感想を言い合う。咄嗟に出てくる言葉と熟考した言葉は違うから、文章にしたり、それを朗読したり。何度も繰り返して、相手の感想を予想し、正誤判定のち、修正。面白かった。そもそも注目する部分が絵か文か、展開か、はたまた体裁か、十人十色とはこのことだろうなと思った。俺たちはこれから、十人一色になろうとしている。
 絵、景色、音楽、食事、誰それの香水だとか、生地見本帳だとか、なんでもやった。ある程度予想できるようになったら、今度は二人一組でお互いに歩み寄る訓練をした。AとBが同じ感想を言うようになったら、Aと俺が同じになるように、日を置いてもできるようになったら、三人に、四人に、いつしか七人で、同じ感想を言うようになった。FPSに親しんでいる人間は理解できると思うが、長く一緒にやっている相手はVCを繋げなくともジェスチャーで言いたいことがわかるようになるだろう、それこそテレパシーのように。俺たちは高精度のテレパシーが使えた。
 お互いがお互いの脳を再現できるようになったころ、勝手に価値観が統合された。あいつならきっとこう言うさ、その予想が確信に変わって、自然と代弁になった。お互いの要素をごちゃまぜにした特別製の脳を使って生きていた。冬休みにもなると、一人でいることが極端に減った。いつでも集合の脳、その一部でいるから、本当に孤独であることは滅多になかったのだ。俺は特に、これを始める前からイマジナリーK君がいたし、精度が上がったから。

 自我というものの、芽生えがいくつかというのは個人差が大きいだろう。記憶があるころには、という人も、二十歳を過ぎてやっと、という人もいる。俺は、というか俺とMとK君は、記憶があるころから、自我がある。時には過剰と言われるほどの自意識を持って、区分した自分の世界で生きていた。皆が皆、当然にそうだと思っていた。
 三人は、自我と巨大な集合の脳を区別していた。クッキー12枚1ダース。1枚のクッキーである自覚があったし、1ダースの1缶である認識があった。それを当然にそうであるとしたのは、三人だけだった。
 残りの四人に自我はなかったらしい。今まさに形成している、成長途中の、粗削りですらない柔らかな精神だった。経験と知識を精査して、自意識を、自己決定権を自分で持とうとしている、自分の形と範疇をこねくり回している最中だった。自分と外界を区切ろうとしている彼らを、好奇心の塊を、こんなことに引き入れればどうなるかなんてわかりきったことだ。自分の端と、他人の端を、認識できなくなる。そりゃそうだ、わざと境界を融かして同一性を得ようと訓練したんだから。
 当時の俺らに、自我の有無なんて概念なかったのだ。三人はある状態しか知らないし、四人はない状態しか知らないんだから。俺たちは好奇心と敬意と、それから、K君への特別視で成り立っていた。訓練法を考えたのも、それを改善していったのも、全部K君だった。お互いに平等で、K君だけが特別なのだ。特別が平等を望むから、絶対に平等だった。全員がそうだったから、気づかなかった。

 四人は自我にお互いを混ぜてしまった。彼らはずっと1缶だ。そのうちのどのクッキーが自分か、わからないらしい。だって、三年も続けたんだ。今でも、時おり鑑賞会を開いては、精度を保っている。彼らはもう一人になれない。彼らの端は、巨大な脳の端になってしまった。幸いなことに、外界と七人は厳格に区別されていた。そのほうが結束が強まるし、ノイズが減って精度が上がるから。だから彼らは辛うじて、自分というものがある。
 巨大な脳の中から、いくつかの要素を抜き出して個性にしている。三人は自分の要素だけ抜き出せるが、彼らはどれが自分のものかわからないから、俺に似ることも、Mに似ることも、K君に似ることもあった。特に、K君は自己愛の範疇でしか他人を愛さなくて、自分という存在の認識を他人にまで拡張して自己愛で可愛がるという最悪の性質があったから、K君に似ると本当にそっくりになった。だってK君がそれを自分の一部として認めてあげるし、彼らもK君が特別だから、自分の要素もわからないくせにK君の要素は的確に抜き出せるのだ。
 俺とMは、いい加減に悟った。あれは、未熟な青少年がやっていいことじゃなかった。自我を確立して、自問自答の果てに自分という存在を定義できるような、そういう頑丈さがないと参加しちゃならなかった。大人は、探求心だとか研究だとか褒めてないで、さっさと解散させるべきだった。一生涯の影響を嬉々として受け取る前に、お互いに洗脳しあう子供を止めるべきだった。

 俺とMは腹を括って、それぞれの自我、人間性の定義に付き合ってやった。覚えている限り、それぞれに要素を振り分けて、そいつらしさになるように。K君の言うとおり、議事録と映像記録を残しておいてよかった。あとは好き勝手にカスタマイズすればいい、こうなりたいと思うやつになればいい。けどたぶん、俺たちはお互いに似た存在であり続ける。俺は、あと多分Mも、今更K君から離れたくないし、K君が飽きない限り鑑賞会は続く。四人も参加し続けるだろう。境界を融かして、同じ生き物になる。一つの脳で生きていく。

 この記事を書いた理由は、止めるためだ。やるな、こんなことは絶対にやるな。柔らかな青少年を引き込むな。面白い、人生棒に振ってもいいくらい、これは素晴らしい。短いスパンで成果があるし、承認欲求は満たされるし、孤独は遠ざかり、閉じた絶対的なコミュニティに属して、明け透けに自分として生きれる安寧の場が手に入る。だが、決してやるな。俺たちは特別に成功したんだ。それは特別がいたからだ。K君が望んで、それを叶えてやりたくて、全員が、若気の至りと一蹴するにはあまりに重く人生を捧げられるほど頭がおかしいから成り立ったことだ。破綻した家庭や、どうしようもない病に、縋る場所がなく粉々になった精神を簡単に「ちょうだい」と言って拾っていく最悪の存在に、全部差し出したからできたんだ。最初からK君が、K君の持ち物で遊んだだけなんだ。

 お前たちに責任は取れない。楽しかったな、とか言って容易く思い出にしてしまうだろう。平等はなく、自我持ちに寄った価値観を形成し、ぐちゃぐちゃになった柔らかな精神を、そうとは気づかないまま呆気なく手放すだろう。やるな、何が何でも、どんなに魅力的でも、やるな。俺たちはこのまま生きていく。このままを保つ努力をして、手間を惜しまず、一つの脳を守り続ける。お前たちには叶わない、理想郷は作れない。俺たちはお互いへの無関心と、K君への特別視だけでここまで来たんだ。こんなことは、初めからやるべきではないのだ。

いいなと思ったら応援しよう!