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「栃」 〜その字の根源〜

明治、混迷の県庁

かつては「杤」と書いた。

とにかく江戸時代以前の文書には「栃」の字が見られない。有っても誤字と見ていい。(らしい)

「とちぎ」という地名は、一説に杤木町に所在する神明宮の千木(ちぎ、装飾として屋根の上に交差させる木材で、旧栃木市章の意匠。冒頭画像を参照)が十本あって「十千木」としたことに由来する。十×千は? 万ですね。これに木偏を付ければ「杤」である。万の代わりに萬を置いた変体も見られる。

一方では別字であるが「橡」も昔から用いられた。安政6年、小野湖山の筆による漢詩は「太平山下橡木郷」の一節に始まる。

そんな中に、「栃」は卒然として現れた。
この字が見えるようになるのは明治初頭である。

県名表記は混乱を極めた。一般に普通する「杤木」、印鑑類に多用された「橡木」、そして新参勢力の「栃木」が三つ巴を成し、加えて一部の文書には「櫔木」を用いた記述が残る。

そこで明治5年10月、県庶務課記録掛が文字統一を図り、「栃」とする旨を控所に貼り出すべく伺い出た。しかしこれにも紆余曲折があったようで、ある文案ではなぜか次のようになっている。

  県名之義橡杤之両字錯雑相用来候処、以来杤之字ニ一定候条為心得相達候事
   壬申十月  栃木県庁

栃木県史編さん委員会 1982, p. 50.

「杤」に統一するんだって。
あーもうめちゃくちゃだよ。

結局明治12年4月、「栃木」が正式な県名表記と定められた。以来、「栃」という漢字は先住民のような顔をして其処此処にふんぞり返っている。

存在しなかった漢字がいきなり出現して、それまで常用されていた漢字を瞬く間に駆逐したのだから、そこには並々ならぬ理由が無くてはならない筈である。

この「栃」の字の由来について判然と述べられることは少なく、ネットサーフィンだけでは中々要領を得なかった。そこで、長引いた休校期間を利用して自分なりに種々調査を試みた成果を、ここに記そう。

そもそも「栃」の字が誕生したのは、ズバリ何時何処でのことなのか?

誕生の瞬間

明治5年、太政官より「県印」が下付された。要するに県の公式のハンコであり、「栃木縣印」の4字が彫ってある。「栃」の字はここに端を発しているという記述が複数の文献に見えたので、『栃木県史』(昭和52年)に載っているその印の字体を再現した。下手だけど許してね。

画像1

「木偏に厂に卍」であった。「卍」と言えば「万字」であるから、この印を楷書に直せば「栃」になるのも頷ける。そしてこの県印こそが、今日まで使われる「栃」のマトモな初出であると考えられるのだ。

さて問題は、「杤」になぜ「厂」が割り込んだかである。この県印の下賜を受けて困惑した県も「今後『栃』に一定しなければいけないのか」と太政官に御伺書を出したらしい。ちなみに黙殺された。

字源追究

まずは漢和辞典を当たる。いや、漢和に載っている漢字の成り立ちなんかは好い加減なものが多いのであまり参照すべきでないが、今回の場合はかなり新しい字なので参考になる情報もあるかもしれない。

講談社『新大字典』は「栃」の字源について「不詳」としながらも、

」の略字体(「萬」→「万」)からの採用

という説を挙げている。出たな、櫔(レイ)。前述した県名表記第四の勢力「櫔木」の櫔である。ちなみに大修館『新漢語林』では、帰栃(キレイ)という語に見られるように栃の音読みを「レイ」と呼び習わすことの由来をここに認める。

「櫔」の字義について『康熙字典』には "木ノ名。實ハ栗ノ如シ。" とあるのだが、具体的になんの木なのかがわからない。『新漢語林』や冨山房『大系漢字明解』など昭和以降の字書には "トチノキ" という字義が載っているものの、これは近代に「栃」の本字として扱われるに至ってから附会されたように見受けられる。

仮に太政官が既存の文字を参照して官印を定めたとすれば、やはり「櫔」以外は考えられない。しかし「櫔」は「杤」や「橡」とはまったく別字であるし、率直に言って脈絡がないのである。そもそも「杤」という既存にして正式の表記を無視してまで「櫔」を引っ張り出す理由が、さらさら不明である。

となると、まさか誤謬では……?

『日本の漢字』における中田祝夫の推理によれば、

(一)彼《引用者注:「政府の無学な役人」》は「杤」字の日本的伝統についての知識がなく、これは中国の辞書にないから好ましくないと考えた。
(二)彼は中国の辞書にある「櫔」を簡略にするならば、当然「栃」になると考えた。なぜなら旁の「厲」の一部分の「萬」を「万」と簡易にするならば、「櫔」は当然「厂」の筆画を保存して「栃」となるべきで、「杤」は簡易化の方法を誤っている、と見た。

つまり(あくまで推理なのだが、)県名に国字を採用するのを厭うたことが原因か。おお、なんて事を……。

また『栃木市史 通史編』は次のように断じた。

実に栃木県はもちろん、栃木市の栃の字は、元来は杤もしくは橡であるべきところを、大蔵省の役人か、栃木県の官印を篆刻した職人が間違って、「厂」を「万」につけてしまったに由来する。

栃木市史編さん委員会 1988, p. 929.

信じるか否かは皆さんにお任せする。

その後

県印下付より8年目の春、県はこの太政官の県印を以て県名表記を決定し、布告した。

  乙第一〇四号
  県名ノ義従来杤之字相用ヒ来リ候処以後栃之字ヲ相用ヒ候条此旨布達候事
   明治十二年四月十一日
             栃木県令 鍋島 幹

栃木県史編さん委員会 1982, p. 50.

これよりのち5年、栃木町における自由民権運動の興隆を嫌った3代県令三島通庸の手によって、県庁はいとも容易く宇都宮へ移されることとなる。

県名には「栃木」の名を残したまま……。

総括

「栃」は、太政官がハンコを作る過程で凡ミスまたは勘違いによって誕生した漢字であり、それに従わざるを得なかった県が正式の表記として決定し、現在に至る。「櫔」については、意図して参照したとすればミスであり、意図せず似たとしてもミスである。——この可能性が高い。

長きにわたり用いられた「杤」を数年のうちに呑噬し、今日我々が目にする「栃」。それがひとりの人間の誤字によって産声を上げたとしたら、哀しいような、面白いような……。

事実は小説より奇なりってね。


   *   *   *


参考文献

・田代善吉『栃木縣史 15 市町編』臨川書店、1940年10月10日(23頁)
・栃木県史編さん委員会『栃木県史 通史編6近現代一』栃木県、1982年8月31日(49–50頁)
・栃木市史編さん委員会『栃木市史 通史編』栃木市、1988年12月21日(928–929頁)
・中田祝夫・林史典『日本の漢字』中央公論新社〈中公文庫〉、2000年5月1日(155–158頁)
・冒頭画像は栃木市章(1937年 - 2010年)およびWikimedia CommonsよりFile:Chigi-Katsuogi-DSC1628.jpgを引用し合成。いずれもパブリックドメイン

最終更新:2023年3月11日

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