幕末・維新の先駆者: 水戸藩と水戸学の人々
尊皇という言葉は以前からあった、攘夷という言葉もあったが、つなげて尊皇攘夷という言葉を発明したのは、水戸藩であり、水戸学である。二つがつながることで可燃性が極めて高い概念となり、維新に向けて時代を大きく変えるエネルギーとなったのはよく知られて話である。本書は、尊王攘夷を作り出した水戸学の成立から最後までを実際の政治史、社会史とともに語る本である。
尊皇は江戸期には水戸藩の専売特許ともいえ、水戸光圀が進めた「大日本史」は将軍の上に天皇があり、尊皇を説くのが目的だった。それが攘夷と結びつくのは、光圀の時代(17世紀)から下がって、19世紀である。そこには、水戸藩を取り巻く地理的環境が影響している。当時、水戸藩が位置する常陸の海岸沖に英国船などの異国の船が出没し始めていた。そこは鯨漁のよい漁場で、クジラを追って捕鯨船が多数現れたのである。常陸の海岸で漁業を営む漁民の中には、異国船と交流するものが現れ、その影響が無視できないほどであったことが明らかにされる。詳細な記録が残っているのだった。異国船は交易を目的にするものもいたそうで、銀などと食料や日本の着物や工芸品などを交換していたらしい。漁民には好評で水戸藩の官吏には見つからないように動いたというから密貿易である。「鎖国」に不満をもらし、海外との交易を主張するものもいた。これに危機感をいだいたのが、当時の水戸藩の上層部であり、水戸学者の会沢正志斎である。
国の祖法を犯し、海外勢にたやすく慰撫される漁民や町人層をみて、亡国の危機をみとったのである。因みに、武士以外の農工商層が天下国家の危機を意識しないのは江戸期の支配体制の在り方そのものである。民はよらしむべし、知らしむべからず。水戸学の学者層(それは同時に藩の指導層である)は、そこに大きな危機感を抱いた。それゆえ、天皇を中心にして、武士だけでなく農工商層も一体となって、つまり君以外は平等に臣として、国防、つまり攘夷を行わなければならないと思った。それで「尊皇攘夷」という言葉が生まれた(言葉そのものは藤田東湖の発案とされる)。
異国船への脅威におびえ、策に悩んでいた各地の武士や武士以外の豪商、儒学者、神主、農民層に強力な処方箋を与えたのである。
水戸学は、もちろん幕府・将軍を前提とした思想であるが、天皇中心に士農工商をまとめ上げる点で、吉田松陰らの草莽崛起に影響を与え、政権から除外されていた西国諸国(薩摩や長州など)に多大な影響を与えた。ペリー来航の直前のことである。そしてペリー来航によって、尊皇攘夷から尊皇討幕へという幕末が開始されるのである。
嘉永から安政期、攘夷をリードしたのは水戸藩である。天皇を中心とした政体、列公会議を最初に主張したのも水戸藩である。天保期から攘夷のために軍備の洋風化を進め、反射炉を作り、少ない財政のなか海岸防備を積極的に進めたのも水戸藩である。水戸藩は幕末期の先頭集団であり、第一走者だった。
ただ、その後の攘夷をめぐる激しい闘争で多くの有為の人材を失い、幕末最終期には歴史の中心舞台からは引き下がってしまう。
もちろん最後の将軍である徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の子どもであり、水戸学の継承者である。彼が一時期政権(一会桑政権)を握ったのも、また大政奉還を選択できたのも水戸学の影響があり、最後には維新後の「五か条のご誓文」に「広く会議を興し、云々」と記されているように、水戸学は維新の一角に足跡を大きく残しているのである。
そのほか、水戸光圀が尊皇思想に深く染まり、「大日本史」作業を興すきっかけに兄を差し置いて藩主の座をしめたという個人的な事情が大いに影響したとか、天狗党と幕府軍が激しく戦った那珂湊の戦いは、日本史上初の近代戦だったとか、歴史の中で語られないエピソードが満載である。
もし水戸藩が宇都宮などの内陸藩だったら、尊皇と攘夷が結びつくことなく、尊皇攘夷という言葉も生まれず、幕末の歴史も相当変わったいただろう。
そういう思いが立ち上る本である。随所に、ただの思想史、幕末史ならぬ筆の走りがあるが、音楽や芸能など博学な知識と関心ゆえだろう。
尊皇攘夷: 水戸学の四百年 (新潮選書)
https://www.shinchosha.co.jp/book/603868/