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リベラリズムの源流と行き先: 香港とアメリカと日本の行方を握る、リベラル思想

リベラルという言葉は、古代ローマからの言葉で、当時は、現代の用法とは異なり、寛大であるとか、国家への奉仕を優先する姿勢など、富裕層・リーダーの特定の徳性を表す言葉だったという。冷淡であるとか、厳格であるというような、生き方や人柄の言葉だ。それが現代の自由主義思想や自由主義の制度を表す言葉に変わっていったのは、近代からだという。その時にリベラリズムという言葉が生まれている。近代、市民革命という時代を受けて生まれた言葉である。
本書はリベラル、リベラリズムの言葉の成立と変遷を近代政治史の流れとともに、解き明かす本である。
詳しくは本書を見ていただきたいが、
印象的なことをひとつ指摘すると、リベラル、リベラリズムという思想が提起され、流布されたのは、市民革命前ではなく、市民革命後、ないし最中だったという点だ。
国王の圧政に対する戦いの中でからではなく、市民革命があり、市民の自由が(一定)獲得された状況下で生まれてきた。フランス革命でいえば、国民の投票で皇帝の地位についたナポレオンの独裁政治との戦いの中で生まれて来たのである。
元来、自由主義思想家といえばロックを上げることが多いが、著者はロックの影響を排してして、源流として思想家バンジャマン・コンスタンとスタール夫人を上げる。
そして、民主主義をもたらした思想としてではなく、民主主義が形骸化し、独裁政治化することを防ぐ思想として登場したという歴史を掘り起こすのである。
民主主義が一定制度として成立した後、指導者が民衆を操作し、民衆の支持をもとに独裁化した事例は数多くある。フランス革命後のナポレオン、1848年革命後の第二共和政で生まれたナポレオン三世、ワイマール共和国のナチスなどである。
19世紀初期のリベラリズムは、そうしたボナパルティズム、「民主独裁政治」と仮に呼んでおくが、それとの戦いの中から生まれてきた。思想の自由(当初は「思考の自由」などの言葉もあった)とか、出版の自由、宗教の自由ということが主張されたのも、そういう「民主独裁政治」への抵抗から鍛え上げられてきた概念だ。
思想の自由、出版の自由、宗教の自由は当時考えられた自由とはなにか?という問いに対する核心としての答えである。それが自由の核心と考えられたのは、リベラル側の活動を弾圧する手段として、独裁側が頻繁に思想弾圧や検閲を行ったからである。
これは、私見の補足だが、市民革命以前なら銃による弾圧だろうが、仮にも「民主独裁政治」なので、銃ではなく、言論の弾圧がなされるのである。当然、人民の意思や世論を操作することが前時代よりも重要になったからである。今の香港や各国の現代民主主義に即しても、思想や出版の自由を巡る戦いがいかに重要かがよくわかる話だ。
特に、香港や中国の状況を指して、内政事項であるとか、アジアと西欧では民主主義の構造や意味が違うなどととぼけたことをほざいている場合ではないことがよくわかる。
また、宗教の自由が重要なのも、カソリックと独裁側の結託によって多くの弾圧や言論妨害があったからだ(このくだりは、日本における政教分離の位置づけに別の思考を呼びおこす面がある)。

「民主独裁制」やポピュリズムに脅かされているのは別に香港やアメリカだけではない。また、リベラルとは左翼の宝刀でも、常套句でもない。またデモクラシー、大衆民主主義を謳歌する言葉でもない。独裁を打破すると同時に、デモクラシーを正規化する概念だ。
もちろん、本書にはこれ以外の多くの箴言がある。リベラルを巡る北米と欧州の政治的含意の差異と背景や、19世紀のリベラリズムの普及と勝利に貢献した、リンカンとグラッドストンの足跡と意味など多くの蒙を啓く指摘がある。
21世紀の民主主義の危機において、再度検討し、鍛え直す事柄が多い。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3452

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