「愉快な仏教」(橋爪大三郎/大澤真幸)の素晴らしさ(再稿):
大分昔に読んだ「愉快な仏教」の読後感を記した記事をあるSNSであげたが、そこでの書き方に言葉足りない点があると、ある方の質問で思ったので書いてみたい(同書は著名で博学な社会学者2名が仏教について語る本だ)。
以前の記事の冒頭で、イエスキリストの生誕に纏わる話のところで、本書の一部を引用しつつ、以下のように書いた。
「父なる神と子なる神は、天地が創造されたあと、天に二人で並んで座っていた(たぶん)。中略。このままだと人間が救われないなということになり、「おまえ、行ってみるか」というわけで(地球に降ろされた)」
ここの文章も相当のけぞる意味のことをいってる文章だけど。
ここでなぜ私がのけぞったかというと、
当たり前だが、この文章は、カソリックの奥義である、三位一体を絶妙にかすっているからである(と私には思える)。
ご存知のように、三位一体説とは、神とイエスと精霊が一体であるという説だが、であるから、天地創造後神とイエスが並んで坐っている(この軽い感じがすごくポイント)ということは、幾分か三位一体的にずれている可能性が高い。一体ではないともとれるからだ 。でも軽い感じが、どちらとも取れ、深刻さを救っているが。
これは私の勝手な想像だが、そういうことまで考慮して、軽く言い放っていると思ったのだ。
神と神の子イエスの存在は、キリスト教では大事なテーマで、過去にいろんな解釈と議論があった。
例えば、
キリスト教は一神教である。
神は一人だ。ではイエスは神ではないはず。でないと、神は二人になってしまう。
では人間か?
でも人間が奇蹟を行えるのか?
復活できるか?
などなど。
三位一体はこうした疑問を抑える絶妙な解釈だ。
イエスと神は別々の存在だが、一体である。
またこの教義は多くの異端を産んだ。
実際イエスを人間と考えた一派があった。
アリウス派など。
でも公会議で異端とされ、激しく排斥された。
このようにして教理を巡って、多くの血が流れた。そういう重いテーマだ。そこを、冒頭から(裏側で)批評的にみながら語っている。とぼくは思う。
次に、仏教の本質ということで、同じく、橋爪大三郎の次の言葉を感嘆しつつ取り上げた。
橋爪大三郎が
「仏教で絶対外せないポイントは、ゴータマシダルータがブッダであること。これに尽きる」
この卓見のすごさは、
後で書き足しているが、
仏陀が悟ったということだけが仏教共通事項でかつ本質という意味だが、
解説すると
例えば、キリスト教では、イエスの復活や様々な秘跡が出てきて、それを信じることが入信の前提だ。
ユダヤ教では、律法などもあるが、教理では、神との契約(モーゼの十戒など)が出てくる。イスラム教も同様。
つまり、ほかの宗教では、様々な形而上学的な、つまりありえない事柄の物語が必須であるが、仏教にはない。
仏教説話的にはいろいろあるが、仏陀の言行録では、悟った以外ないのである。
ブッダは神でもないし、奇跡も行わない。
これで宗教になってしまうのが、仏教のすごいところだ。
もともと、一部の修行の「道」の話だったのだろう。小乗的である。そういう修行をする偉い人をあがめるというのが、仏教の初期のカタチだった。
そのうち、その偉い人が周りの人の幸福を祈りながら修行するうちに、衆生救済のための阿弥陀如来の「四十八願」というものが出てきて、修行僧以外の多くの人を救うロジックが生まれてくる。そういう成り行きで大乗的なものへ変わる。だが、大乗になっても、本質は、「仏陀が悟っただけ」という構造は維持されている。
阿弥陀如来の48願とは、周りの人間が救われない限り、自分は悟ることはないという阿弥陀如来の願掛け。ゆえに阿弥陀如来が悟ったことになると、みんな救われるということになる。無量寿経の教え。
橋爪大三郎の指摘を敷衍すると多分、こういうことだろう(これはあくまで私の解釈だが、あっていると思う)。
凄い宗教だと思う、仏教は。
そして、それを生んだアジアの民も。
「愉快な仏教」(橋爪大三郎/大澤真幸著)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-978490542
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