【読み物】イマジナリーフレンド Imaginary Friend

あるいはイマジナリーコンパニオンImaginary Companion、
イマジナリープレイメイトImaginary Playmateと言った言葉をご存知でしょうか。
ここでは一貫してイマジナリーフレンド (表記の便宜を図るのため、当サイトに限る用法で略称を IF )
として扱いますが、 これらの言葉を日本語訳すると『想像上の友達』あるいは想像上の仲間、あるいは想像上の遊び友達、となります。その名の通り、心のなかにのみ存在するにもかかわらず、友達や家族、仲間のような存在。 そういったものが私達がこれから論じようとしているIFです。

この頁ではIFに纏わる要素をいろいろなところから掘り下げて考えてみたいと思います。ここに来た皆様のなかには、既にイマジナリーフレンドについて知識を持っている方もいらっしゃると思いますし、 自分の中に何か「もうひとりの自分」がいると感じ調べた、あるいは単に興味を持った、など様々な動機があると思います。 ここでは、皆様の声や自身の経験を含めながら、提供出来る限りの情報をお伝えして行きますが、イマジナリーフレンドの捉え方は個人で違いがあります。 特に、形を持たないとされる想像上のものを題材にしていますので、ひとつの明確な定義を下すのは難しい事です。 これからあげるひとつひとつの要素同士にはみな関係があり、分けることができない部分が多くあります。以上を踏まえて読み進めていただければ幸いです。●が大見出し、○は小見出しか、●に対する解説、ポイントです。 



●まえがき

IFの出現頻度は個人によって様々で、 生活の中枢として定義し多くの時間を構築に費やす人から、 寂しい時に思い出して呼び出す程度の人まで、それぞれの関わり方があります。

IFは「自分像」「理想像」「過去の自分」「思い入れのあるものに関する像」等が母体とされることが多く、 それらが高度に、あたかも人間と同じように自分の中で認識される程に強く擬人化、象徴化されたものです。 つまり、本当に2人の人間が自分の中に存在するのではなく、どちらもその人自身ということになります。 自分の中の感情や信念や過去などを強くしかも細分化して意識するあまりに、 それらが自律した形で動き話し掛けてきたり人間の形を取っているような感覚を体験するのです。

このような強い象徴化を引き起こす原因としては環境や経験した出来事、残念ながら精神的なショックもあげられることがありますが、 他にも1つのものごとを強く象徴化したり意識する傾向のある人、感受性の強い人、 想像や空想遊びが好きな人などがIFに出会う体験をしやすいと思われます。

そしてIFは精神状態や価値観の変化、現実での出来事の刺激によって性格や姿を変化させます。IFは単純な想像という枠を越えて本人に強く意識され、呼び出した本人に対する影響力をしばしば持ちます。会話が出来ていると感じる程度に身近で、多くの時間を共有する相手ですし、実際に姿が見えるような気がしたり、声を聞いたり触れた感覚ももたらされることがあります。 あるいは具体的な感覚がなくとも、確かにそこにいると感じることができるかどうか、存在そのものに納得できるかどうかが、IFかIFではない想像であるかを分ける1つの指標となります。

このサイトでは基本的にIFを、人間の精神構造に基本的に備わっている能力から成るもの、特に防衛機制反応・アイデンティティの形成・個々の環境要因・性格などと関わって形作られるものとして位置づけています。 人間にはストレスが何らかの形で降りかかってきますが、それに備えて心にはストレッサー(ストレスを及ぼすもの)に対抗する機能があります。 これが防衛機制と呼ばれているものなのですが、IFはその機能の一環として所持者の心的支えのために現れる事が多いと私は考えます。
現在、現実の自分とIFにはどのような差があるのか、どのような共通点があるのか、それらをIFとの関わりを通して知ることは同時に自身の心を分析する事にも繋がります。 例えIFという形を伴ったもので認識はされないレベルにおいても、 人間はこのような自分の精神に向き合ったり気持ちに整理整頓をつける作業、 自分を向上させようとしたり守ろうとする作業をを無意識にしています。IFはそのようなさまざまな精神の働きの現れ方の1つとしてとても興味深い現象ですので、もしあなたがIFに巡り会ったのでしたら、 ぜひその時間を自分や自分の生き方について考えるきっかけとして生かして貰えたらと思います。

●IFと構築者の年齢について

○幼児期(~6歳・学童期前半最高9歳程度まで)のイマジナリーフレンド

IFが発生する年齢というのは3歳頃から生涯にわたります。 そのなかでも特にIFが現れやすいのは3歳頃から20代前半頃まで、さらに狭めると10代がピークだと思われます。ただし、これは本人が意識しているIFのみ、アンケートに回答をくださったかたのIFのみですので、 ここでは直接体験を聞くことの難しい幼児期のIFについては憶測と知識を書くだけになってしまいますが、暫しお付き合いください。 小学校にあがる前の3歳頃から6,7歳くらいまで(遅いばあいだと学童期前半、6歳から小学3,4年生頃までを含む)、ぬいぐるみなどを友達と称してひとり遊びをしたり、 まるで生きている友達のように見立て話しかけたり、もち歩いたり、 まわりの大人にそのような趣旨のことを言ったりするなどの現象が良く観られます。 このようなIFは人間の精神や情緒面の発達において、コミュニケーションや人格形成のためにロールプレイを織り交ぜながらの試行錯誤のひとつの現れ方として出てくるものであり、 おかしいことではありません。元来、(主に欧米で)使われるイマジナリーフレンドという言葉は幼児期に見られるこのような現象の事を一般的には指しています。 これら幼児期のIFに関してはここでは深く取り扱いませんが、育児や教育で扱われるイマジナリーフレンドという言葉はどちらかというと幼児期のIFを指しているとお考えください。


○第二次性徴期・青年期以降(最低10歳程度~)のイマジナリーフレンド

このサイトで扱うのは、さきほど紹介をした幼児期のIFではなく、学童期の終わりあたりの年齢、特に第二次性徴開始以降(早ければ小5,6あたり、主には中学入学以降から)、思春期あるいは青年期、成人におけるIFです。 こどもの遊び、と見られることが多いIFですが、学生や成人でもIFを持つ人は一定数存在します。 しかし構築者が幼児期につくったIFがそのままの状態で一貫して大人まで維持されるという例は少数です。 よく見られるのは幼稚園・就学前の幼児期に一度IFを持っていたが、一旦IFがいない期間を経たあと、青年期に入りまた新しくIFを持つ・意識する、 あるいは幼児期にIFを持っていた記憶はなく(orいたが忘れている)、大きくなってから初めてIFを持ったと感じる、という例です。 

この理由を掘り下げると、人間の精神の発達のしかたに原因が見えてきます。 こどもの頃は、もちろん周りのことをたくさん学習するものの、客観的に自分をみつめるという態度や、自我はきちんと確立されてはいません。 そのためこどもとおとなのIFの間には違いがでるのです。 おとなのIFとこどものIFの境となるのは、だいたい、構築する人間が自我の萌芽を見いだす時期と被るように思われます。 人間に明確な自我が芽生え始めるのは、ルソーが「第二の誕生」と呼んだような青年期(だいたい15歳頃~)からであり、 エリクソンも青年期の発達課題(人間が健全な発達をするうえでクリアするべき課題)にアイデンティティの確立をあげています。 自我の芽生えと心の発達に差し掛かり、自分とは何か、自分とはどう生きるかを考え、自問自答や葛藤を経験する青年期と、それが到来する以前の幼児期とではIFの意味あいがちょっと変わってくることをお解りいただけたでしょうか。 

青年期、特に13歳頃から19歳頃はIFに出会い易い時期といえます。 青年期は精神が著しく発達する時期であり、さまざまな新たな思想や価値観に出会う機会がたくさんあります。 人間はこのような刺激の中で精神的な学習を重ね、イメージを高度に操作、処理したり、複雑な行動ができるようになっていきます。 青年期には人間はおとなになるための環境を整備し、内省をしながら自我をつくりあげていきます。 IFは人間の精神の発達のに関わりの深いもので、こういった認識力や判断力の発達に伴い、人間が試行錯誤をするうえでの、ひとつの発達の経過のあらわれかたなのだと思います。 もちろんIFが発達の経過を表すと言う役割は、こどものIFとも被る部分があります。 人間はこどものころから蓄積してきたものと、新しく学んでみにつけたものの双方で発達していくので おとなにおけるIFと、こどもにおけるIFは完全に異質なものとして切り離されるわけではありません。 蓄積してきた経験を引き継ぐ側面もあれば、新しい要素を学習して振る舞う側面どちらもあります。 しかし、精神性の深さや複雑さという点では、おとなのIFはこどものIFと立場を異にすると言って然るべきだと思います。

(次回更新のときに、発達心理学、おもにエリクソンの考えやピアジェの考えについてとりあげたいと思います。しばしお待ちくださいm(__)m) 




●イマジナリーフレンドとは何か

「イマジナリーフレンドは何であるか」という問いには答えの可能性が尽きません。IFは人間の心と似たような構造を持ち、似たような機能を果たし、 人間の精神を映し出したりあるいは人間の精神に存在を依拠しています。重要なのは人間の精神構造とIFには密接な関わりがあるということです。 このサイトではIFがどういった機能・役割を持ち、どういった意味を内包して現れるのかということを含めつつこの疑問を掘り下げてみたいと思います。 

○像

像、は英語でimage、つまりイメージのことです。IFのことを割り切って明確に表そうとすればIFはある種の「像」です。 像、という言葉を辞書で引いてみますと、もののかたち、人の姿、と書いてあります。 また、あるいは何かの形をまねて描いたりつくったりしたもの、鏡やレンズで反射することで生じるその物体の形、という記述もでています。 IFはこのなかのどの意味にもあてはまる機構を持っています。短くまとめると「何かを反映するもの」としての機構を持っているということになります。 しかしIFには質量がありません。IFが形として映し出しているのは、人間の心であり、見えないものです。

IFが特に関係するのは、
心全体・精神(状態)・感情・情緒・思考・意識・記憶・観念・信念・価値観
など、さまざまなスケール・階層にわたる抽象的で実体のない概念です。 映し出されている元の物も、映し出している像も、私達は肉眼で見ることが出来ません。IFが専ら関わるのは想像の世界の事象です。 

IFは像をかたちづくるための要素、エネルギーである、
(思考の)収斂・強調・細分化・区分化・体系化・象徴化・人格化
によって補強(ときに生成)され、これらのエネルギーを構築者にフィードバックします。
これは相互の関係で、IFはこの力学を使いながら存在を安定させることができます。

もちろんIFはこの機能だけで完全に存在を保てるわけではありません。 このエネルギーにきっかけとなるできごとや環境的要因、発達の特徴が絡み合ってある一定の場合にIFが現れることになります。 

<IF形成に関わるエネルギー>
思考の収斂…分散している考えをまとめあげること。
思考の強調…特定の考えに重きをおいたり、特定の考えを強めること。
思考の細分化…雑多に融合している考えを整理し、細かくわけること。
思考の区分化…雑多に融合している考えを整理し、区別をはっきりつけること。
思考の体系化…考えを整理・カテゴライズしたり、階層や順序をつけて、わかりやすくすること。
思考の象徴化…考えをある特定のイメージと結びつけて、理解をしやすくすること。IFとは、抽象的な考えを何かの形に結び付けて考える一種の象徴化である。
思考の人格化…上記の象徴化のなかで、結びつける対象が人格(人間型のIF)の場合を指す。擬人化。 

IFは雑多に散らばり不明瞭である観念を具体化してまとめ、再度心のなかで明瞭なかたちに位置づける働きをもち、 ときにはその心の中の「目に見えないもの」の集合体として、その集まった思考や観念を、代表する人格のようなものになる機能があります。 IFの現れる原因や意味合いに注目せず単純にIFを像として定義するとすれば、IFは以上のようなエネルギーの副産物や結果といって良いでしょう。 
IFは鏡のように、人の心のなかにあるものを映しだします。
いろいろな考え方がありますが、IFはその人間の心の一部です。IFはその人間の知っている情報や考えていることをベースにできていて、構築するための要素のひきだしは殆どすべて当事者にあります。 そしてIFには肉体がありません。IFは物質に依拠するのではなく、当事者の意識、あるいは精神といった不定形の、目に見えないものに存在を依拠する部分が多くあります。 

一旦IFが現れると、構築者がIFを保持するべく安定した環境を探るうちに、さまざまな要素や役割などが無意識、あるいは意識的にIFに肉付けされます。 IFに纏わる記憶、馴れ初め、エピソード。こういったものの一部も思考の収斂と結びついています。想像にある程度の密度を持った強度がないとIFを維持する事ができないからです。 

たとえば、自己主張が苦手な人が、思ったことを口にできる積極的なタイプのIFを構築する場合について考えてみましょう。 自己主張が苦手であるからといって、その人のなかに主張がないわけではありません。主張しようとする意識と主張をしりごみする意識、両方が混在しているのです。 生きているうちに積み重ねてきたいろいろな要素や経験から、主張をするのを控えよう、と思い至ることのほうが多くなっために、あたかも自己主張が苦手、というキャラクタライズされた認識で、行動の傾向を自他共に強く認識しているだけなのです。 この構築者がIFを構築するときに、もっと積極的に意見のいえるような人を理想に思い描くとすれば、 自らの心に含まれる積極性、やる気、感情、明るさ、などをまとめて練りあげる必要があります。 そして逆にそこに含まれない理性や調和を重んじる心、協調性、慎重さというものの行方はさらに他のIFに行ったり、構築者自身に行ったり、あるいは切り捨てられたりするのですが、 この時点で考えに、「AとB」的な薄い区別や解離がでてくるのがみてとれると思います。 このような過程を重ねる行為であるがゆえに、IFを構築する際には、心のなかの考え方や意識していることの細分化、区別や分割、あるいは人格として考えるのであれば解離的な思考が起きやすくなります。 考えをまとまめたり、また分離したり、ということはIFを持っていなくても人間の心が絶えずしている動きであり、 IFを構築するしないにかかわらずこのことは起きますが、IFがいると傾向が強くなるということです。 ですから、この影響の出方によっては気持ちをよりしっかり保てる一方で、度を過ぎると画一的な思考法を招く恐れもあるということです。

●どのようなものがIFの像となりうるのか

いままで漠然と像としてのIFという説を論じてきましたが、 具体的にどういったものがIFの担う像になるのでしょうか。像(IFがキャラクタライズされる際の投影されるもの・根幹となるもの)になりやすいと思われるものをあげていきます。


1.理想像・現在の自分と対照的な像
IFは構築する人間の心に依拠する、と述べましたが、これはIFがどのような性格や人格を持ち生まれてくるかにも密接に関わってきます。 IFは自分のなかにある要素や情報の限界は越えることは難しいですが、現実や肉体の制約や妨げを越えて、想像ならではの振る舞いをすることができます。 ですから、IFには現実で実現の難しい願望や欲求を織り込んだり、現実を超越するような能力を備えているというイメージを重ねることも可能です。 空を飛んだり、建物を動かしたり、そんなことも想像では可能ですよね。 そういった側面から、IFが尊敬できるような能力や性格を持っていたり、あるいは現状の自分とは逆の性格を持った人格として構築されることはしばしば見られます。 たとえば自分は何もやってもうまくいかない、と思っている人が何でもできて自信に満ち溢れたIFを呼び出したり、 すぐに感情的になってしまうのが辛い、と思っている人が冷静で寡黙なIFを呼び出したりという例はこれにあたります。 このような理想的な人格としてのIFは、構築者の目指す目標を示したり、構築者に隠れている新たな可能性を示したりする役割をしている場合が多いように思われます。 

2.自己像・自身の現在および過去の精神像(精神状態の反映)
上記の場合とは対照的に、自身の置かれている状況を反映した、あるいは精神状態と似通ったIFが構築されることもしばしばあります。 これはIFが構築した人間の精神に依拠していることが良く解る例だと思います。 人間が、自分から他人になりかわることはできない状態でものごとを見ている以上、やはり想像にはたくさんの自分に纏わる要素が関わってきます。 ですから、自分のアイデンティティを強調したIF、自分に似ているIFなどが現れることもあります。興味深いことに、IFの姿も構築者と似ることがあります。 このようなIFは本人が気付いていない部分に気付きを与えたり、自己を客観的に見つめ、考えを整理したり信念や気持ちを深めさせるような役割をしていることが多いと思われます。 また、次のインナーチャイルドの項にも含まれることですが、IFを構築するひとつの原因に、辛い経験をしたがために、その記憶を自分に起こったことだと受け入れることを本人が拒否し、 その記憶をIFの受けたものとして、つまり自分とは違う自分では無い人格として捉えるという心の動きが起きることがあります(解離)。 このような場合のIF達も、自己像の一種、あるいは自身によって打ち捨てられた自己像として含めることができると思われます。 

インナーチャイルド:幼少時、過去の自分像について
インナーチャイルドは内なる子供と訳され、幼少期や子供の頃の記憶、またそのとき感じたことなどの総体を指します。 インナーチャイルドと形容されるくらいですから、彼らはイメージとして姿をとることができます。 恐らくIFという枠組みのなかにインナーチャイルドが含まれているといっても良いかもしれません、 何かしらその人間が心のなかで認識できるイメージとして表れることが可能であると言う点ではIFとインナーチャイルドは共通です。 記憶の総体として考えるのであればインナーチャイルドは誰もが持っているものですが、 このなかでトラウマティックな出来事の記憶、自身に、あるいは他者に抑圧された状態のままケアがされてこなかったショッキングな記憶に関しては注意が必要です。 そのような記憶、つまり心の傷を抱えたインナーチャイルドが存在する場合は、 それが原因でおとなになっても本人がうまく社会に適応ができなかったり、その当時の傷や苦しみを抱え続ける、ときにはフラッシュバックを起こすといったこともあります。 インナーチャイルドを論じているホームページを見ると、 インナーチャイルドにこちらからアプローチし(その存在に気付き)ケアをすることが可能であり、  たとえば心のなかで「辛い思いをしたんだね、あなたは悪くないよ」といったように彼らに声をかけるような試みを重ねたり、 記憶をきちんとみつめ、頑なに拒むことをせず受け入れることで、記憶と共に自身を肯定できるようになる、という記述が見られます。 このようにイメージに対して心のなかでの対話をしたり、存在を認め受け入れることによってケアが可能になるという性質は、 非常にIFに似通っているように感じます。 

インナーチャイルドを下敷きに生まれたIFは子供のような精神状態である場合が多くあり、個々人の記憶が色濃く反映されます。 おおむね彼らは子供の頃の自身の姿や、子供の姿をとります。このような種類のIFを呼び出す人の中には対になるものとして保護者役のIFを構築してインナーチャイルドであるほうのIFを癒したり、 対話をしていくことで前述の心の傷を癒す営みをしたり、記憶にアプローチをし、構築者の記憶の捉え方に影響を与えるという働きも見られます。 ショックや躓き、あるいは印象的な記憶、楽しかった記憶などはIFとして現れ易く、記憶の分散の数によっては複数のIFとして姿を呈することもあります。 

【添加要素】ある特定の思想や考えを反映した像、役割分担的な働きの強い像
これは1や2と兼ねられている場合がほとんどなのですが、 1や2のように、まとめあげられた思考や精神そのものが投射されているというよりは、自分のなかにある、「特定」の思考や考えを、ピックアップして具現しているIFということになります。 人間の営みにおいては「偶像(崇拝)」「擬人化」などという言葉の感覚や方向性に近いものだと思ってください。 さらに具体的にいえばシンボルや会社のロゴのような働きをもっていると考えてもいいかもしれません。 このようなIFが担うものというのは、○○主義、理性・感性・力・積極性・能動性・聖性などといった概念的なものから、保護者・恋人・兄弟・親友・神などのように役割的なものまで、 範囲が多岐にわたります。共通するのは何かしらのことがらを強く代表するIFであるということです。 ですから、思考の収斂や細分化・象徴化という傾向は特に強く発揮されます。さきほどのインナーチャイルドの項でも述べましたが、この要素を持っているIFが居る際には特に、 固定化した役割、たとえば守るものと守られるもの、保護者と子供、教育者と生徒、理性と感性、主体性と協調性、などIFとの関係性をはっきりと分けている人も多い様に思われます。 IFは文字や役割での定義に依存するところがあるので、肉体のある人間とは違って、はっきりと一言で括れる性格や関係性が定着しやすいのかもしれません。 

【添加要素】特定の人物・キャラクター像
実在する人物やアニメ・漫画や小説、映画などのキャラクターをIFの構築の題材に使うこともできます。 この場合、インスピレーションを得る題材が自分の外にあるところが、これまで紹介してきたIFと違う点ですが、 結局は情報を自分のなかで噛み砕いてイメージしている点では変わりがありませんので、IFのひとつとして取り上げることが可能だと思います。 また、そのままコピーするだけではなく、そのような人物やキャラクターの気に入ったところをちょっとずつ融合させたり、彼らをベースにして新たにオリジナルの要素を付け加えたIFも構築することが可能です。 ただし、この系統のIFに関して注意が必要なのは、IFを本当に実在する他者と混同することです。そのような認識は非常にリスキーな面がありますのであまりお勧めしません。 

●IFの姿に関して:ボディイメージとの関連性


IFは人間の姿をとることがほとんどです。 IFを動植物や物体などの姿にすることも可能ですがこれはちょっとマイノリティだと思われます。 しかし物体に意識があるのではないか、と考える慣習は人類史上古代からアニミズム信仰としてなされてきましたし、 児童心理学においては、幼児(このばあい2歳~4歳頃)のうちはまわりにあるもの、あるいは動くものはみな意識を持っていると思っています。 ですからこどものころ実在する物体にIFを投射したり、その年齢がすぎても物体をIFとして認識する、IFを物体の姿で構築するという考えは特異的なものではありません。

さて、人間の姿の場合なのですが、興味深いことに体型や顔立ち、服装についても構築した本人の体型や顔立ち、あるいは体型や顔立ちの好み、服装の好みなどが反映されることが多いようです。 服装に好みが反映されるのは特に説明が必要ないと思うのですが、体型に関しては私はボディイメージと関わりがあると思います。 ボディイメージとはその人が持つその人自身の体についての認識、つまり自分の体はどのようなものであるのか、という認識です。 ボディイメージが崩れたり現実の姿から離れすぎると、現実の肉体と理想とする肉体にずれを感じさせます。 ボディイメージという言葉は普段の生活であまり耳慣れない言葉のように思いますが、先程のボディイメージのずれや崩壊は食生活の乱れ、特に過食症や拒食症の原因としてあげられることもあります。 IFの構築の際にも、ボディイメージは一定の影響を及ぼします。上記のような現実と理想の過度な解離がなければ、IFは大概構築者の持っている情報の引き出しからパーツを拾ってきますので 自分の見た目と似たIFが出来る可能性は高いということです。共通の特徴を探してみて下さい。 

●あとがき

これまでは像としてのIFを見てきましたが、IFはの働きや関係する領域はそれだけではありません。 次項「イマジナリーフレンドが発生する原因・環境」ではIFを構築するきっかけとなる要素を、特に
①防衛機制
②発達課題・アイデンティティの確立
③環境的要因
に着目して紹介していきたいと思います。 

そのまえに、ここまで紹介してきたことのなかからポイントを抜きだしておきます。
(1)IFはその構築者の心の内部に存在する情報を概ねの母体とし依拠しながら、像(イメージ)としての形を保つ
(2)IFが専らアプローチの対象とするのは感情などの抽象的で目に見えない概念である 

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