アカシック・アニマルズの体験より。自然界の弱肉強食やビジネスの為の生き物虐待を是とする感性ならば、あの捕食者たちに何も言えなくなるではないか。地球を保ってきたのは霊性の光。
ちょっと長いし内容が固いので、こんなのをBGMにしたらどうかと思って持ってきました😊ゆったり気分で読めるかな?✨
先日の土日に開催されたアカシックレコードシリーズ最後の講座
「アニマルズ(動物たち)」で、手塚治虫の「火の鳥」の中にあるようなものと似た体験をしました。
一体どこから書いたらいいんだろう?
まとめるのかなり苦労しました。
まず大前提として
人間以外の生物の情報場は、
人間の情報場の影響を受けるというのがあります。
つまり
人類の集合意識の次元が下がれば、生物場の次元も下がる、
人類の集合意識の次元が上がれば、生物場の次元も上がるというメカニズム、仕組みがあります。
これは、遥か古代よりもっと昔の、時のない時代から働いてきた法則のようなもので、今現在も脈々と息づいている仕組みです。
なので、現在の生物界の食物連鎖のピラミッドや弱肉強食の「場」の背景には、下降した人類の集合意識の影響のもとにそういう姿を現している、ということをまず理解していただきたいと思います。
では、なぜ人類の集合意識は下がってしまったのだろうか?
と、そんなことを考えながら以下の体験を読んでいただけたらと思います。
2日目の誘導瞑想に
「動物の意識の中に入って、その世界を体験する」というものがありました。
まずアカシックレコードに行くと目の前にスクリーンがあって
タマラの合図でそこに飛び込みます。
あとはその人なりの体験が出来るのです。
・・・・
気がつくと
私はコンドルの中に入っていました。
悠々と空を飛ぶコンドル。
眼下にはところどころに緑がある赤っぽい地面が見えています。
次の瞬間「私」は急降下して獲物を捕らえました。
それは小さなネズミ。
「私」は獲物を捕らえ、殺し、食いちぎり、食べました。
けっこうリアルな感触で、決して気持ちの良いものではなく、
とてもいやな感じがする。
でも、このコンドルはネズミが憎くて襲っているのではない
食べるため、生きるため、養うため。
そういう法則が働いているからそれに従っているだけです。
今の地球の自然界とはそうしたものになっているから
なんの不平も言わず、疑問も持たず
ただそれを生きている、それだけなんです。
それはよーーーくわかりました。
しかし、人間の意識の部分の私は違います。
くちばしで肉を食いちぎる感触や、引きちぎる感じに
やはり嫌な気持がしました。
私の心には疑問がわいてきました。
私は一体何を見せられているのだろう?
何のために、この体験をしているのだろう?
コンドルになってネズミの肉を食いちぎることを嫌だと感じる。
果たしてこれは、私と言う人間のエゴだということなのだろうか?
昔「自然の驚異」という番組があったのを思い出したりして。
もし、それがエゴであるならば、
気持ち悪い、それはイヤだ。
と思うことを私はやめなければいけないのだろうか?
それは未成熟な感覚なのだろうか?
これが自然界のありのままの姿なのだから、この現実に適応するべきなのだろうか?
たくさんの混乱した気持ちがありました。
そして
結局私は、自分の感じていることに素直でいたいと思い
そうあることを選んだのです。
これはとても残酷で凄まじい体験である、と感じているいうこと。
難しいことは脇に置いておいて
ただ自分はそう感じたんですね。
そして思いました、
明らかに、人間の意識には動物とは違う何かが宿っていると。
生きた生物を引き裂いて食べることに良い気持ちがしないことは、
人間として備わった性質なのだろうと思いました。
そんな風にいろいろと思いを巡らせているうちに
タマラが、今度は別の動物に入る合図をしました。
すると今度、
私はネズミの意識に入っていました。
上から突然大きな黒いものが襲ってきて
「私」は襲われて死にました。
なので、今度は襲われる側。
ああ、コンドルの「私」が襲ったネズミなのだな、
ということがわかりました。
意識だけだったので、痛みも何も感じません。
ただ自分は死んでゆく。
そういう意識だけでした。
急に目の前が暗くなって意識が消えてゆく。
「怖い」という感情もほとんどなかったような気がします。
ただ体に受けたショックとか
反射的にドキッとした感じはありました。
本能的な抵抗感はあったと思いますが
身体に強い衝撃を受けたら死んでいた、と言う感じです。
肉体はコンドルに引き裂かれ、餌になり、
そのとき魂は抜けていました。
これがネズミとしての「私」の体験でありました。
すると眼下に地球が見え(見せられ)
そういうこと(食い合うということ)が日々繰り返されている舞台がここに
現実にあるんだよと言われているようでした。
これが今の地球のありのままの現実。
グレイトネイチャーなんとかっていう番組が頭をよぎりました。ダーウィンが来た、とかもありますね。
捕食し捕食される生き物たちを映し出し、見せて、
大自然の厳しい掟!生と死 種の個数のバランスを保つ驚異の自然!美しい!とか言う、あれ。
命は巡る、それはそれで神聖で尊いことと言えるのかもしれないけれども
う~ん・・・それが本来の正しい感覚なのか、、?
それが人としての成熟した受け止め方、在り方なのか?
・・・・
だけど
私の中の何かが 何か変。。。と言います。
魂のコアの部分の反応です。
良く分からないままに自問自答が続きます。
今の地球は確かにそうだ。
だけどどうも違和感がある。
食物連鎖なのだからそれでいいのだ、神聖で美しいのだ、という感覚には、私はどうしてもついて行けない。。
それはもしかしたら
私のワンダラーとしての経験から来るのかもしれない。
他の宇宙の現実を魂が知っているからなのだろうか?
他の宇宙ではもっと違う世界が広がっているのを知っているからなのだろうか?
それともただの、世の中の汚いものを見たくない逃避精神から来ているのだろうか?
何とも言えないまま、連想は続きます。
こうした自然界の弱肉強食に加えて人間の側の都合、合理化のために、
つまり、人間の欲(ビジネス・効率)のために、
生きたまま裁断機にかけられるひよこや同じ理由でシッポを切られる乳牛、
家畜や繁殖目的のブリーダーの問題などなど。。
一般の私たちが知らないだけで、この1万倍いえ、もっともっと悲惨なことを動物たちは体験してきているはずだと。。
それに対して、
それもまた「体験」だから。
すべてはマトリックスの世界の体験でしかなく、映画のようなものなのだから、
どんなに悲惨に見えても、それぞれの体験をしに地球に来ているのだし、
生まれているのだからその体験を妨げてはいけない、その体験をたださせてあげてください、という説も頭に浮かびました。
が、その言葉を聞いても、私はすんなりと受け入れることが出来ませんでした。
それにも違和感を覚えます。。
なにか、どこかがおかしい、と思いました。
例え生まれてすぐに犠牲になる運命だと分かっていても
それを体験しに生まれてきているのだから「その体験を妨げてはいけない」?
そうだろうか?
これを一体どう考える?
この現実をどうとらえる?
私は今まさに、この現実に生きている。
これは一体何なんだ?
そんなことを思ったわけです。
するとさらに連想は展開していきました。
それは一昨年のアメリカ大統領選以来知った
幼〇誘〇人〇〇買 レ〇ティ〇〇ンの存在 そうしたものが記憶から浮かび上がって来ました。
人間がそうして生き物を「虐待」して食物にしているなら
彼らのやっていることは、人間が動物たちにやっていることとほぼほぼ同じなんじゃないか?
食べたいものを食べたいから食べる。
人間が、鶏が食べたい豚が食べたい牛が食べたいと言って食べるのと何が違うんだ?と思いました。
私たちは動植物を食べる、魚介類を捕食して食べる。
彼らは人間を捕食して食べる。
ただそれだけのことという話になるじゃないですか。
間違わないでいただきたいのは、
私は彼らを擁護しているのではなく、思考の第一段階として単純にそういうことになるんじゃないの?と思っただけなんです。
人間を食べたい存在がいても不思議はないでしょう?と。
人間や動物界の食物連鎖の考え方を押し広げるならば
異星人が人間の大人や子供を捕食して食べるのも
弱肉強食なのだから良いではないか、ということになりませんか?
そして思考は次の段階に移ります。
そうはいっても、嫌なものはイヤだ。
やめてほしいと感じる。
幼〇系に至っては、リアルな映像、画像を何度も何度も見て戦慄しましたし
泣きました。PTSDやトラウマにもなりかけました。
これを見て感情が動かされないということは無いと思います。
さっき私がコンドルになってネズミを捕食した時に
人間として動いた気持が同じように動いています。
残酷なシーンを見れば怖いと思い、人間が捕食されると思えば怖いし嫌だと感じる。これは自然な反応です。
人間にはこうした感情がある。
これも真実。これが非常に重要なことだと思います。
そして次の思いへと続いていきます。
このアルコン、キメラ、レプ、そういう存在は、地球に何千年、何万年もいたという。(その手下に闇の政府だったりDSがいる)
ごく最近になってその存在が掃討されて広く知られるようになった。
この存在たちが古代には既にいた証拠としての遺跡や遺物は世界各地に残っており、日本でも正倉院に収められている。
彼らは古代に人間と交わった者もおり、ハイブリッドの人間?がいて
彼らを表に立て地球を支配してきたという。
所有の概念に基づくピラミッド型の残酷な奴隷支配だ。
そして人間はあっけなくその支配に絡めとられ
彼らは地球の周囲にエネルギーのバリアまではり、人間を輪廻させるような仕組みを作って転生すらもコントロールしていた。
(偽の光になり、転生後の計画も立てさせ、親も彼らが選んだりしています)
そして生まれる際には、人間のライトボディへの様々なインプラント(埋め込み)やシール(封印)タグ(貼り付け)などとして知られるものを取り付けます。細胞死プログラムも彼らが施しました。
さらに、高次元の愛と周波数に向かって進化出来ないように封印しました。
目的は地球と人類全体をファントム・マトリックス(幻想現実)に転生前も後も引きずり込むこと。
それらによって、人間の集合意識は彼らの色に染まり、高い次元から急降下していった。
人間の集合意識が生物場に影響を与える。
人間の集合意識は、上記の理由でダダ下がりしてきた。
その結果の弱肉強食の現実。
地球は何万年も前の昔に、闇の存在に入り込まれ波動が落ち続け
人同士は戦いの歴史を繰り広げて
これでもかと言うほど恐怖や憎しみのエネルギーを放出し
それを好んで栄養にする存在たちが、私たちの見えないところで繁殖してきました。
なので、自然界もそんな人間たちの集合意識の影響を受けて
現在のような弱肉強食の世界を表しているのだと私は思います。
それが今現在の地球の姿であると。
もう、少なくても1万年以上はその状態が続いているので、当たり前となってしまっているのですが、これはこの次元での「当たり前」なのです。
「当たり前」は次元によって違います。
今のこの「当たり前」は、本来の霊性の光を宿した人間の当たり前ではないと私は感じます。
これはアルコンやキメラやレプや闇の政府やDSたちの「当たり前」の世界のはずです。
もし私たち人間が、今の自然界の弱肉強食や、ビジネスのために、人間の欲のために生き物が犠牲になること、虐待されている生き物たちを見て、慈悲の気持ちが全く無いのが良いとしたならば
おそらくこの次元に希望はありません。
動物が引き裂かれるのを見るのが辛い
血が流れるのを見たくない
泣き叫ぶのを聞きたくない見ていられない
その気持ちは、それが本来の地球や人の在り方ではないと
魂が感ずるからこその反応なのだと思うんです。
ここまで考えて私は気づきました。
人間にそう感じる気持ちがあったからこそ、今まで地球は保たれてきたのだと。
その周波数の高さが地球を守ってきた。
そう、私たちの中に慈悲の気持ちが備わっているからこそ
虐待される生き物を見て可哀そうで見ていられないと感じさせ
人間を捕食することをあり得ない暴力だと感じさせるんです。
それは魂の光、
霊性の光です。
経済や金融的なものが最優先され、それに適応したり迎合したり出来る者たちだけに力が集中してきた今までの地球。
その地球をいよいよ解放しようとしている動きこそが、アライアンスだと思うんです。なので心ある人はみんなそれに反応する。
今まではあまりに闇の力が強く、凄すぎたので、だから苦しかった。
何度転生しようとも迎合するしかなく
(転生時にインプラントやシールを受けて生まれますから。⇒注:現在は取り除く技法が各種存在していますし、これからはもっと増えてくると思います。その内に知らないうちにとれているという時代になっていくでしょう。闇の存在が掃討されてきているせいか、最近の子供たちは、もうこのような封印やインプラントは受けずに生まれているとも聞いています。)
そういう光の思いは表立っては力を持つことが出来ませんでした。
それでも、多くの方の心に慈悲の光が宿っていたからこそ、その周波数のおかげで今まで地球は存続出来ていたのだと思います。
闇の存在たちだけだったらとっくの昔に破壊です。
一人一人の思いが本当に大事なんです。自分は小さくて世界に何の影響も与えられないとは思わないでください。
あなたの思いは、この地球の状態に物凄い影響を与えているんです。
あなたの優しさがこの地球を支え、守っています。
自分の心の中を覗いたときに、どんな声がしているでしょうか?
どんな理屈をもってしても、経済的合理化による虐待のようなことは「是」とできません。これが私の中の真実でした。
そんなことまでして経済効率など上げなくて良い、それは繁栄などとは呼ばない。というのが私の中の答えです。
実は本当は、
おそらく皆さんのほとんどの方は同じなのではないかと思うのです。
今、闇の存在の根源は駆逐され、慣性や余韻で動いていますが、これから次第に光は強くなり、本来の人間の在り方に戻っていきます。
命は巡る、捕食したりされたりして種は保存され、バランスを保つ。。
これは今の次元の地球での在り方で、受け入れざるを得ないのは確かなものがありますが、この状態が絶対ではありません。
人間の集合意識の周波数が上昇し、本来の霊性の光が惜しみなく放出される時代になった時
その時には、自然界からも弱肉強食のような現象は無くなっている。
私はそう思います。
それは私が生きている間のことではないかもしれない。
だけど、そういう日はきっと来る。
その確信だけは揺らぐことはないのです。