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ボイストレーニングについて

前回の記事、
実はとんでもない長さになってしまったので
短くカットしたものを載せました。

前回の4倍くらいの長さのものが
原文になっていて
編集して何回かに分けて
出していこうと思います。


 



ボイトレを習いに行くとよくありがちな

それは無いでしょ、
いや、それだけは絶対にダメだろおい、な
エピソード。


枚挙にいとまがない、ってやつですけど…
いやー、本当に冗談じゃない。

無理をさせてしまう事だとか 
言われたことを同時にいくつも
やらなくてはいけなくて
苦しいものだなんて…


習い事をしていて
先生の言うことを信じて頑張るということは
素晴らしいことですよね。

その頑張りというものが
自分の感覚を潰して、盲目になり
闇雲に力任せになるものであったり
納得のいかないものであれば
それは疑い始めてもいいと思います。


先生が正しくて自分が間違っているという
世界観であったら、それはもう
違うんだと思います。

信じることって
何かを壊す力があるんです。

その壊すものが
自分にとって不必要なものであれば素晴らしい。

でも、必要なものを壊しているとしたら
恐ろしいことです。


生徒さんは正解に近づきたいから
痛みがあろうと、違和感があろうと、
同じやり方のままで更に無理をして頑張る。

やがて、壊れる。
大切な感覚、身体、こころが壊れていく。

そのことに気づいていない。
指導する先生も、指導される側も。

先生の言うことが正しいのだと
互いに信じているから。
盲目、っていうやつですよね。

盲目も時に素晴らしい。
何かに狂うということは素晴らしいこと。

だけど、その狂いが自分を壊しているのだと
思うのだったら
違うんじゃないかな、って。


もちろん、先生の指し示す
方向性の先に自分の探し求めていた
答えがある、ということもあるけれど

本当は、自分自身で
歌いながら感じていた違和感こそが正解で。


でもその正解を無視して我慢することが
頑張りのひとつだったから、
自分の感覚というものを信頼することも
壊れてしまっている。


先生が生徒さんの感じているものを
推し量ろうともせず正解を押し付けて、
その正解ができなければ不正解、と
互いに信じているという現象は

患者に触診も問診もせず
患者が訴えた症状に
痛み止めを出してるのと同じ。

頭痛の原因はどうでもよくて
はよ捌いて薬出して帰す。

やがて薬が効かなくなったら
薬の量を増やす。

痛みや不快はサインなのに。

今の意識や身体使い方では
心地よくないんだ、という大切な訴えなのに。


自分の外側に正解があって、
その正解は内側にはないと思い込んでいるから
自分の感覚というものを
何も信じない。頼らない。任せない。
むしろ無視する。

それが正解なのだと信じてしまう。





わかるはずなんです。
一瞬にして「これだ…!」って。
自分が一番わかるはず。納得いくはず。
自分の感覚が呼び覚まされるものがあるはず。

そういうものを伝えてくれる先生であれば
信じていいと思います。

よくわからないけれど良さそうだから、とか
この人はすごい人だから
信じていれば大丈夫だ、と
身を預けて感覚を潰すようなことは
絶対にしていけない。


だから

自分の感覚を潰して歌ってきた人にこそ
「自分の中にあるうたごころで歌う感動」を
伝えたい。渡したい。

みんな元からそれは持っていたのに
知識や思い込みによって
それを見失っている。

すみません、ちょっとね
いや、かなりね、憤りを感じているんです。

魂が泣いてる。みんな。
歌いながら魂を閉じ込めてる。

赤ちゃんが泣いているのを
泣かないように縛り付けているようなことを
平気でやっている。

だけど泣かないことが
お利口なのだと覚えさせられていくことが
成長なのだと信じている。

泣きたいのに泣かないことが
正解なのだと思い込んでいく。


なんでだよ、なんでだよ…って
すごい悲しくなるけれど

でも、かえってその
怒りのような炎めいたものが
わたしの原動力になっているのかもしれません。

もう、そういうの見たくない。
でも、そういう人にこそ会いたい。
伝えたい。
 

世に蔓延る、わたしから見たら
「悪」だと映るものこそが
自分の大切なものは何なのかを
問いかけてくれている。

じゃあ、お前はなにができるんだ、って。


締めの文章が
定まらずに言葉が彷徨っていますが、

ここでこの文章のタイトルにつけた
「ボイストレーニングについて」を述べたい。

…やっと肝心なところまで辿り着きました。


ボイストレーニングには
負荷をかけたトレーニングが必要な段階と
負荷のないそれが必要な段階があります。

更には、トレーニングが必要な段階は
自分の感覚に信頼ができてからです。

感覚を無視してトレーニングすると
人は壊れます。

トレーニングによって向上する人もいるけれど
向上したのは、感覚を信頼できているから。

その感覚に伴って、或いは一致した
身体操作がなされているからです。


向上しなかった場合は感覚と一致できていない。
その不和が起きているままで
負荷をかけたトレーニングをするということは

どれだけ自分の感覚を無視できるかという
我慢によって成り立っているので、

身体がもう我慢が効かないところまでいったら、
やがて必ず支障をきたす。故障します。

これはスポーツとか
あらゆる分野でも共通だと思います。

自分の得意な身体の使い方だけに頼り、
他を無理して酷使しているから壊れる。


そして壊れたから
自分は向いていないと結論付けたり、
苦しいから嫌いになっていく。



つまりは、自分の感覚を信用できる
状態に持っていってくれるトレーナーさんとの
相性が大切になってきます。

ただ、何でもかんでも褒めてもらっていたら
感覚を信用できるようになるという
意味ではないということは強く言いたい。

自然な自分の状態になれるようにと
導いてくれる場に身を置けているか、と
自分に問うた時に
濁りなくYESが浮かんでくるか。

そこで、自分が違和感を感じたのならば
その違和感は絶対に正しい。

だからといって、指導する先生が
間違っているという意味と
等しい訳ではありません。

自分と先生との
相性の問題も少なからずあります。



自分の感覚を信じずに
先生が正しい、と思ってしまっていたら
それは洗脳です。

ごめんなさい。キツイ言い方です。


自分の人生を預けられるものに
洗脳されていますか。

歌が好きならば、
先生に支配されずに歌に支配されてください。
正しさに支配されないでください。

歌が好きならば、歌に狂ってください。


狂うって、激しいさまや
錯乱状態を表すというイメージですが
「もう、自分の捉えた対象以外見えない」
といった状態のことだと思います。

ちなみに
狂う、ってけものへん(犭)に
王で「狂う」ですよね。

獣の王にでもなったかのように
歌っていいと思います。

想像は自由ですから。

己の内に棲む獣を解放するレッスン、
なんて格好良すぎるか。

でも、獣って何もライオンとか
熊だけじゃなくてリスさんとか
野ネズミも獣ですもんね。たぶん。

獣たる力を人間の知性によって
自在であってほしい。


自分の望まぬものに狂わされたり
自分の愛した対象に自ら狂ったり。

狂いたくないのに狂っているのか
狂いたくないのに狂っているのか。
はたまた狂わされちゃったり。


どうでしょうか。


生活を楽にするために仕事に狂っていたり
健康のためにと運動に狂っていたり

幸せになりたくて宗教に狂っていたり
大好きな人に好かれたくて美容に狂っていたり


傍から見て、当人とはだいぶ温度差があると
おいおい…大丈夫か…と思ってしまいますが

それにも左右されないほどに
幸せを感じながら狂えているのだとしたら
幸せなことなんじゃないでしょうか。

おめでたい、とも言えますが。
おめでたいヤツで良いと思うんですよね。


世の中は常識で狂っているんですから。
大丈夫です。
 
みんな好きなように狂っています。

狂いたいじゃないですか。
これだ、というものに。

好きな歌に狂いましょうよ。

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