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愛するということ
夏バテにプラスして
親知らず抜歯でリンパが腫れて
体がだるいというダブルパンチで
この頃正直不調な日々です。
とほほ。
体調不良によって、あれこれが
うまくはかどらない。
はかどらない日々のあれこれに
ストレスに感じて
今の自分ではいけない、
よくならなきゃ、よくならなきゃ
というモードに入っている時
その思考自体が更なるストレスを生んで
悪い循環になってしまう。
よくならなきゃ、という
思いの始まりが何なのかを見分けることが大切。
あれもこれも…と
やらなきゃいけないことが
溜まりに溜まっていて
後で大変なことになる…だとか
人に迷惑をかける、とか
人に嫌な思いをさせてしまう…
といった他人を基準として
自分を蔑ろにして、
さらに恐怖に駆り立てられて
がむしゃらになるという場合は
もうそれ泥沼に腰までハマッてる。
あぶないあぶない。
しかも、がむしゃらになっている時というのは
大抵は泥沼にはまっていることにも気づけない。
あれもこれも…と
やらなきゃいけないことが溜まりに溜まっていて
後で大変なことになる…だとか
人に迷惑をかける、とか
人に嫌な思いをさせてしまう…
この思いの先にあるもの、
そして始まりにあるものは
突き詰めれば「恐れ」なんですよね。
そして、その恐れに駆り立てられて
その防御策をあれこれ
思案して、動いて…という
空回りするんですよ。神経すり減らして。
あぁ…思い当たるフシしかな無い。
他人の言動に敏感になっている時って
自分の本音に敏感でない時なんだよね。
自分のことを粗末に扱っておいて
他人の言動に右往左往してブレブレになって
どう思われているのか気にして
ジャッジして。
そんな自分をジャッジして…
あああ
思考まみれで苦しいわ、そりゃ!
◆
なんであれ
自分の行動指針の見直しというか
チェックって大事だなぁと
つくづく、つくづく思わされました。
自分の行動の源、思考の源が
不安や恐れによるものであれば
その行動のもたらす結果は
さらなる不安や恐れの実り。
いーや、本当にそう。
自分が明確にはっきりと望んだものがあって
それを追いかけてというか
それに動かされて行動した結果の実りは
その望んだことの通りになる。
現実的に、望んだ通りに
現れていないように見えても
それは短期的な結果が現れていないだけのことで
それでも望んだことから
目を離さずに行動し続けていれば
必ず物事は動いていくんだし
物や形は違えど望みは必ず
叶ってしまうと思っています。
良くも悪くも。
良くも悪くもというのは
いまがどんな状態であれ
自分の現状というものは
全て自分の望んだものだということ。
昔は、そんなこと
絶対に理不尽過ぎるでしょ、
そんなんある訳がない!と受け入れ難かったけれど
本当の本当にそうでしかないと観念したら
これまで自分の望んだものって
何だったのか、つまりは
今の自分の現状をもたらした
望みは何だったのかを知りたくなる。
そして、本当に望みたいものは何なのかを
知りたくなってくるし
自分が恐れているものも知りたくなる。
知りたい。
この「知りたい」という
この想いこそが愛するということなんですよね。
きっと。わたしはそう思っています。
なんだっけほらあの
愛の反対は無関心、っていう
言葉あるじゃないですか。
まさにそれですよね。
自分を愛するってナンデスカソレ
ワカリマセンという生き方で
数十年やってまいりましたが
いまのところ
自分を愛する、ということは
自分を知ろうとすることだと
自分の中で答えのようなものが出ています。
自分に対してだけではなく
人に対してもそうですよね。
特別に素晴らしいプレゼントを贈ることでもなく
相手のことを知りたい、という想い。
相手のことを知りたいと想うことが
愛するということだ、という言葉の
表面のみを捉えてしまっては
真反対の意味にも伝わりかねないですけどね。
ストーカー的に
ゲヘヘ…知りたい知りたい…という
利己的な欲を満たすための行為とは
遠く離れていて
この相手は何が好きなんだろう
何をしてほしくないんだろう
どんな距離がちょうどいいんだろう、とか
そこに善悪のジャッジはなく
ただ観察して受け入れるかのような想いの上に
相手がより美しく輝くには
何ができるんだろうとか
自分がして差し上げられることを
精一杯することなのかな、と。
そして
自分に対してもそのような扱いを
していることが大前提でなければ
相手を大切にしたくてしているはずの
行動のすべてが自己犠牲になってしまう。
自己犠牲は、自分に余裕があるうちはいい。
自分のことを蔑ろにした上で
自己犠牲をしていくと、我慢をすることになる。
我慢の先には怒りが生じる。
怒りを我慢していれば、怒りが更に募り
恨みが実る。恨みはしぶとい。根深い。
問題は、何故自己犠牲を払ってまでも
相手を満たしたがる自分では
何を求めているのか、だ。
自己犠牲を払うことで何を得たかったのか。
自己犠牲を払うことでしか
得られないと思い込んでいるものは何なのか。
そこまでして埋めたい自分の穴は何なのか。
本当は、嫌なのに「いいよ」と言う時
「本当は嫌だ」と言ったら
どんなことが起きてしまいそうで怖いのか
その起きてしまいそうなことって
本当の本当の本当に怖いのかな。
そして、本当は嫌だと言ったら
本当にそんな恐ろしいことが起きてしまうのかな。
んん〜〜〜〜
本当に?本当に?本当の本当に?
こうやって本当に?って
問うていくと、どんどん怪しくなってくる。
「クラスのみんな持ってるから買って!!」
と力説してプレゼンをするも
親から
「え?ほんとにみんな持ってるの?誰なの?みんなって」
と、問われて
「え?ゆうくんとか、みっちゃんとか、あと、なおも持ってる!!」
と、たどたどしく反論するも
揺るぎない自信は萎んでいき
やがて親からは
「みんなじゃないじゃない…」
と、論破されてしまう構造のアレですね。
本当ではないものを
本当に起きたらどうしようと
ありありと臨場感を持って信じ込んでいると
それを助ける思考が、バラエティに富んで
これでもかと急き立てくる。
不安を駆り立ててくる。
その幻想に惑わされずにいられるのは
「これって本当?」と己に問えるかどうか。
常に気づき続けられるのかどうか。
◆
ぽっかりと空いた心の穴、
残念だけれどそれは
誰にも埋めることが出来ない。
自分でしか、その穴の正体を
知ることはできない。
もちろん他者とのあたたかなやり取りによって
埋めることはできる。
だけど、やがて必ず乾く。
また、穴がうずく。
穴を埋めることは絶対にできない。
本当は嫌だけど、いいよと言う時にした行動は
痛みを避けるための行動なのか。
それとも、純粋に自分の内側から
溢れ出る相手への愛情ゆえの優しさなのか。
モヤモヤが少しでもあるならば
残念だけれど前者であることは間違いない。
穴がうずいてモヤモヤしている。
そしてその穴は埋めることはできない。
じゃあ、どうすんのよ
絶望でしかないじゃないのっていうね。
うん。正直絶望です。
絶望でしかないです。
穴を埋める手段はありません。
しっかり、絶望したほうが早い。
そして、絶望して突っ伏して
起き上がれないほどに打ちのめされたら
ふと気がつくんですよね。
そもそもそんな穴なんかなかった、ということに。
元来、自分には何にも穴なんかなかった、と。
まるで穴が撃ち抜かれたように
痛みを感じていた自分に気がつく。
本当はお気に入りのロケットえんぴつを
きょうだいに貸したくなかったけれど
貸さないと、親から悪い子だと言われるから
貸したら、良い子だねと褒められた、とか。
本当は悲しくて怖くてたまらないときに
ふざけて踊ってみせたら、周りが笑ってくれて
自分はふざけていれば
みんなに必要とされるんだ、と思った…とか。
どれも「本当は」のあとの行動が
喜びに溢れて、
相手にして差し上げたことではなくて
なんらかの報酬を期待しての行動なんですよね。
その報酬は、本当の自分丸出しで生きていたら
得られないと思っている。
ここに挙げた例は
すごくしょうもないことのように
感じることばかりでしたが
本当の自分丸出しで生きたら
自分は愛されないという確信を深める
ちいさな行動とマインドが
こうやって練り上げられていっていると
思うんですよね。
そして、そのような行動が悪いんじゃない。
人にやさしくしたいという想いは
美しいものだから。
だけど、我慢だったり嫌な思いがあるのに
それでもそうしなくてはならないと
思い込んでしまっているところに
切ないほどに愛されたいという願い、
痛みを抱えた想いが
あるのだということなんですよね。
幼少期にそのような体験があったとしても
親や周囲の大人が受け止めてくれていたら
自分は良い子になろうとしなくても
ありのままで愛されているんだという
安らぎがあれば話は全く変わってくる。
人に頼らずとも
自分自身で、その本音を受け止めて
承認して安心できるという
こころの安寧を知っていたら
自己犠牲も悪いものではないけれど
逆説的に言えば
そのようなこころの安寧のある人は
自己犠牲など払わずとも
自分は十分に愛される価値のある存在だと
肌でわかっているだろう。
人は何かしらの痛みゆえに
幻想に縛られている自分であるのだと
気がつく必要があるのだということ。
そして大切なことは
自分には、自分のことを知ることができるという
強い、強い、力があるということを
自分に見出す必要がある。
めっさめさ
お堅い、リズム感のない文章になっちゃった。
これもまた一興…ということで
おひらき!
きょうも長文を読んてくださり
ありがとうございました◎