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でも1である

北海道がとてもすき。

とにかくせいせいする。

視界を遮るものは遥か彼方だし、県境もないしね。

北海道だけじゃないけど上の写真みたいに「○○まであと何キロ」って標識、北海道を旅して面白いのは、上の写真で言うと釧路まで100キロ切ると次には釧路までの距離の上に根室までの距離が平然と現れる、120キロとかって。(笑)
この広大さがすごく、すごく好き。

表紙代わりの写真は日勝峠だけど、これぞ北海道って感じが満載で本当に好き。
今年の冬にも行ったけど天気があんまりよくなくて遠くまでは見渡せなかった。

だいたい同じ場所から十勝平野を眺めてる。

展望台いく階段、雪に埋もれてるのを登ったはいいけど、下りるのホントに大変だった。
……って言うか「危ないからやめろ」だよね。(笑)

ここまで書いておきながら、この記事は北海道好きの話じゃないと言います私は。

じゃ、何の話かというと、

「自分の大きさの捉え方」の話です。

初めて北海道行って、広々とした大地に佇んだ時、ずっと見たいと憧れてたオホーツクを見た時、「うわ!やっべ!アタシめちゃめちゃちっさいじゃん!」って、あの大地やら空やら海やらのでかさ(大きさじゃなくてでかさ)にあっさり圧倒された訳です。

「これはもう人間は自然には絶対に敵わんわ!降参っ!」って、人生折り返し地点とっくに過ぎてから自覚するに至ったんだけど。(笑)

人間が小さくて、やたら心許ない存在なのはもう動かしがたい事実として。

だけれども、「社会のなかにおいて」、特に我々日本人って自身の存在をやたら小さくとらえ過ぎる傾向があるのではないかしらと最近よく思うんですよ。

1億3000万人でなる日本の中において、

「わたしは1億3000万分の1」として自分の大きさを定義してるとしたらそこにメリットってあんまりないと思うんだな。

それって、日本という国が「1」みたいなもんでしょ?

でもって「わたし」が1億3000万分の1。

あまりにも小さいと思う。

「そんなバカな」と思う。

それぞれが1でしょ?

その「1」が1億3000万集まったのが日本という国のはず。

自分がその感覚でいると、社会においてもそんな風に扱われてしまう気がするんだな。

わかりやすいのは為政者から。

政治が常に「ひとりひとりにいちいちかまってられない」現実は現実だけど、実際にそんな扱われ方をされそうになった時にはきちんと「抗議」や「抵抗」をしなくてはいけないわけで。
その時に自分を「1」として自覚出来ていないと、そんな抗議すらも出来なくなってしまうし、抵抗なんて思いつきもしなくなる。

それ、ヤバいと思う。
すごくヤバいと思う。

それをいいことに、為政者が「悪政に及ぶ」ことはこの日本においてはある意味「既定路線」な気がする。

「小さき、声なき市井の者」だらけな方がやり易いからね。

結果、為政者からすれば「楽な日々」になっても、ひとつの国という集合体の歴史から見たら悲劇にしかならないし「黒歴史」確定だよね。

基本的には人間は「小さい」です。

小さくて心許ない存在だけど、常にその「個」は「1」という単位であり続けるはず。
そして外からもそのように扱われなければならないはず。

肥大しちゃたらダメだけど、今日日の政治家みたいに。(笑)

「私は1」、その感覚は断固持ち続けたい。

それが、「人権感覚」だと思う。

私は常に「1」であり、あなたも常に「1」である。

モラトリアムな日本から脱け出すのは、まずこの感覚がごく当たり前になることじゃないのかと、話はそこからだと、(笑)自粛生活で遠のいた北海道の雄大な大地や海、空に焦がれながら思っているわけです。

さぁ、北海道行かなくちゃ。

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