『街の上で』(今泉力哉監督)〜アウェイ、そしてホーム

 傑作『街の上で』を語る上で欠かすことのできない青(若葉竜也)とイハ(中田青渚)の長い会話シーン。そのシーンが、なぜここまで魅力的なのかについて考察してみたいと思います。

他の監督には撮れないもの

──本当に日常の一コマを切り取ったような感じだったので、僕はあのシーンが好きなんです。

今泉「自分でも、あのシーンがあることが、他の監督には撮れないものが撮れたっていう印の一つになっています。あと、すごいと思うのは、アドリブがないと言いつつ、二人のやりとりの中で、笑いというか、受けてちょっと笑ってたり、ニヤニヤしてたりとか。笑いははっきり言って、こっちで脚本に“(笑)”って書いてるわけじゃないし、そこはコントロールできてないので。あれはアドリブとは違うんですけど、二人が作った空気が台詞以外に大量にあるので、脚本をただ読むよりも断然面白くなっています」

若葉竜也・今泉力哉監督:映画『街の上で』インタビュー

 長回しで捉えられた「他の監督には撮れないもの」。
 たとえばテオ・アンゲロプロスであれば、計算された俳優のブロッキングとキャメラワークこそが、その長回しを「他の監督には撮れないもの」にしていると思うのですが、青とイハの会話シーンには、二人に多少の動きはあるもののブロッキングらしいブロッキングはありませんし、それを捉えるキャメラも一切移動しないフィックスの長回しです。
 もちろん、たとえフィックスであっても、そこしかないという距離にキャメラを据え、これしかないというレンズを選択するということは、なかなかできるものではありません。そしてそれは監督の右腕と言っていい撮影の岩永洋氏の手により的確になされています。とはいえ、アンゲロプロスの長回しとは異なり、それをもって直ちに「他の監督には撮れないもの」とは言えないでしょう。
 では、やはりその演出方法が「他の監督には撮れないもの」にするのでしょうか。

自由に任せる演出

映画の現場って、撮影前に段取りを確認する作業があって、芝居の内容や尺(時間)を確認して、その後に監督・カメラマン・助監督などを中心として、カット割りを決めて、テスト〜本番という流れになるのですが、最初の段取り時に、どう動いてくださいとか、どうやってくださいってことは、基本一切言わないことにしています。座る位置なんかも一度好きに座ってもらう。さすがに何か言わないとやりにくいようだったら言いますけど、でも基本は役者さんに好きにやってもらいます。もしそこで、俺が思っていたことと違う芝居をしたとしても、そっちの方が面白くなる可能性がある。役者さんの方がアイデアを持っていることも多くて。だから、俺から先にこうしてくれとは言わないようにしています。

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 監督のみならず、出演した俳優のインタビューなどからも、演者の自由に任せる、好きにやってもらうという演出手段が用いられていることがわかります。「本人の能力をより引き出す」方法というわけで、この先にこそマジックがあるのだろうということは容易に想像できますが、とにかく、自由に任せるということ、その入り口に限って言えば、他の監督はおろか誰にでもできそうです。

日常のしゃべり

――特に言葉の面白さを感じたのは、青が映画の撮影後に初対面のイハの家を訪れたのち、ふたりで夜通し、えんえんと語り合うシーンでした。そこで語られるのは主に恋バナで、けっして特別な内容ではなく、さらに言えば生産性のある内容でもありませんが、逆にだからこそというのか、「(自分たちの)日常でもありそう」と思わず膝を叩きたくなるような納得感がありました。

 そう思っていただけるのだとしたら、ゴールがあってそこに向かって書いているわけではない、という作劇の方法が大きいと思います。また、自分の台詞の書き方で顕著なのは、話し出しに「え、それはさ」とか「いや、でもね」のように「え」とか「いや」とか、ノイズをたくさん入れるんです。「~なんだよね、私は」みたいに、意識的に倒置法を使ったりもします。間も多用する。そうすると日常のしゃべりに近づいていくんです。ただ、入れなくちゃダメみたいに強制するわけじゃなくて、俳優さんがやりにくかったらやらなくていいと言いますし、どれだけ自然になるかを考えています。あのゴールのない長い会話のシーンがあることで、『街の上で』はほかの監督には撮れない映画になった気がします。改めて、台詞は自分のひとつの核だなと確認できました。

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 やはり、今泉監督の核、台詞こそが二人の会話シーンを「他の監督には撮れないもの」にしているようです。何気ない「日常のしゃべり」が、いかに計算され尽くされたものか。
 では、もし仮に(もちろん、それがおいそれとはできないのですが)魅力的な「日常のしゃべり」が書けたとして、役者に自由に演じてもらい、それをフィックス長回しで撮影すれば、『街の上で』と同じように観客を魅了できるのでしょうか。

 たとえ、それが魅力的なセリフであっても、まだ足りないでしょう。あるシーンに私たちが魅せられるのは、そのシーン自体が魅力的であるのは当然として、否、たとえそのシーン自体は魅力的でなかったとしても、そのシーンを魅力的に見せる他のシーン(コンテクスト)があるからです。
 極論すれば、「日常のしゃべり」も殊更魅力的である必要はありません。そもそも日常のしゃべりが魅力的、特別なら、そのしゃべりは日常とは言えませんよね。監督が注力するのも「どれだけ自然になるか」であって、決して「魅力的なセリフを書いてやろう」ということではありません(たぶん)。しかし、それが結果、魅力的に響く。魅力的でないセリフが魅力的に響く、それが魅力的なのですから、そのセリフは徹底して魅力的でない=「日常のしゃべり」である方が、より魅力的に響くというわけです。
 決してそれ自体では魅力的とは言えない、何気ない「日常のしゃべり」を魅力的に響かせる術、それこそがこのシーンを「他の監督には撮れないもの」にしています。

「アウェイ」と「ホーム」

「日常のしゃべり」を魅力的に響かせる術とは、一体どのようなものでしょうか。ここでキーワードになるのが、イハのセリフにある「アウェイ」と「ホーム」です。イハは、お互い「アウェイ」である青を、彼女の文字どおり「ホーム」である部屋に招き入れます。このとき観客もまた「ホーム」に招き入れられなければなりません。それが見事になされているから『街の上で』は素晴らしい。
 映画の観客は、そもそも「アウェイ」であって、映画の作り手は、いかに「アウェイ」の観客を「ホーム」に招じ入れるかに意識的でなければなりません。この場合の「ホーム」とは映画、「アウェイ」とは映画の外を意味します。ゆえに、スクリーンの外、客席の観客は「アウェイ」なのです。
 それを知らない作り手が、いきなり(そして、ずっと)「ホーム」で話を展開します。そのような映画は、客席からしか見ることができません。それが面白くないのは当然です。
 もちろん、いきなり「ホーム」で展開する話であっても、それがまさに観客自身が経験してきたこと(あるいは置かれている状況が観客と同じ)であったりすれば、それだけで観客を「ホーム」に引き込むことができるかもしれません。ゆえに、作り手は、誰にでも思い当たるような、且つ、個人的な話を創造しようとします。「ホーム」を魅力的にしようと試行錯誤するのです。しかしながら、誰にでも思い当たるような話には引き込むほどの力はないですし、個人的な話では、それに共感できる観客が限定されてしまい、その他多くの観客に、ただ独りよがりの映画と評されて終わりです。

観客=「アウェイ」

 観客=「アウェイ」であるという認識から始めなければなりません。その観客を、映画という「ホーム」に誘うには、映画の中で外に出てもらえばいいのです。映画の中の外とは、もはや客席ではありません。

 では、どうすれば映画の中で外に出ることができるのでしょうか。 

 登場人物(主人公)を、観客と同じ「アウェイ」に置くだけです。
 青がそうです。青は、観客と同じ「見ることしかできない」状況、即ち、映画の中で「アウェイ(外)」に置かれます。映画の中で「ホーム」をただ描くのではなく、それを「見ることしかできない」「アウェイ」の登場人物を描く。観客は、描かれる「ホーム」を、客席ではなく、映画の中のその登場人物がいる「アウェイ(外)」から眺めるというわけです。
 この場合、描かれる「ホーム」は、下北沢の日常であり、自主映画の現場です。青は下北沢に住みながらも「アウェイ」の視点(街の上)で、そこに漂います。自主映画の現場は、文字どおりの「アウェイ」で、青の居場所はありません。そこに同じく「アウェイ」だというイハが現れ、青を観客共々「ホーム」へ連れ帰るわけです。つまり「アウェイ」が見事に描かれているから「ホーム」の描写も活きるというわけです。

「わたし、アウェイなんで」

現場が白熱して「すごいものになった」みたいな瞬間も、一番冷静にいようとしてますね。現場の瞬間が凄かったとしても、それはあくまで“生”だったからであって、決してスクリーンで観てるわけじゃない。今この現場では面白いけど、スクリーンを通してみても面白いかどうかっていう視点は、常に持ってますね。

『街の上で』今泉力哉監督 映画の完成形は頭の中に全くないんです【Director’s Interview Vol.116】

 映画『シコふんじゃった』(周防正行監督)に、怪我をしたメンバーに代わり、女性マネージャーが男に扮して相撲をとるシーンがあります。ついにOKが出て、その場にいた誰もが彼女の努力に感動し、この引きのショットで十分だと誰もが思っているとき、監督がヨリが必要だからと、もう一度同じ芝居を命じた、確かそのようなエピソードだったと記憶しているのですが(出典が思い出せません)、そこで周防監督が、今泉監督の発言と同じ趣旨のことを述べていました。

──他に想像以上に収穫があったシーンというのはありましたか?

今泉「長回しで撮ってるシーンは、撮れちゃったっていう理由があって。例えば、喫茶店で芹澤(興人)さんとしゃべってるのも、あんな広い画一つなわけがもともとはなくて、もっとちゃんと割って、ツーショットとかカットバックとか撮る予定だったんです。でも、“もう撮れたからいいかな”と言って。全員、“え? また今泉……”みたいな感じでしたけど(笑)

若葉竜也・今泉力哉監督:映画『街の上で』インタビュー

 カットが増える周防監督とは異なり、今泉監督の場合はカットが少なくなるのが面白いですが、いずれにせよ、監督は「アウェイ」でなければいけないということに何ら違いはありません。なぜなら、観客は「アウェイ(現場にはいない)」だからです。
 そして主人公を「アウェイ」として描く。監督、観客、主人公が三位一体となって、映画の中で外に出る。

 自主映画の上映後、イハが青の店に来て「映画に出てましたよ」と言います。青のシーンはカットされていたはずなのに、なぜでしょう?

 イハの言う「映画」とは、学生映画ではなく『街の上で』のことではないでしょうか。映画の冒頭、確かに私たちは青が演技しているショットを見ています。イハは、映画『街の上で』の中で、映画の外に出てしまっている、即ち、「アウェイ(メタレベル)」の存在です。そして、なぜ彼女はそんな嘘を言うのだろう、と気づかない私たち観客は、いつのまにか「ホーム(オブジェクトレベル)」、即ち、映画の中に没入してしまっているのです。これが映画のマジックです。

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