大勇のプロフィール


(長文ですので、お時間があるときに読んでいただければ幸いです。)


出来の悪い変わった子供だった

子供時代の思い出と言えば親に怒られた記憶ばかりだ。勉強もスポーツも芸術も何の取り柄もなく屁理屈ばかり言う子供だったからか、親から「お前はどうしようもない変わり者のバカだな!」「お前みたいなバカは生きている価値がない!」などと事あるごとに言われ父親によく殴られた。逆らうことが得意だった私は殴り返していたので、父親は私のことが本気で憎かったことだろう。
当時は虐待などという言葉は知らなかったので、父親から受けた行為が虐待ではと認識するのは大人になってからであった。そんな子供時代はいつも「大人になったら見返してぶっ倒してやる!」の感情を持ち続けていた。

辰吉丈一郎選手が人生を決定づける

『1994年12月4日(日) 薬師寺保栄vs辰吉丈一郎 』の試合に衝撃を受けた。辰吉丈一郎みたいな男になりたいと…。(敬称略)
小学生の時からアントニオ猪木さんに憧れ、中学生の時に新幹線の車内で快く握手をしていただいた衣笠祥雄さんの優しさと笑顔に”こんな心の大きな大人になりたい!”と思ったときとは違う何とも言えない感情が湧き上がったのだ。
もしかしたら、人生で唯一の”男が男に惚れた瞬間”であったのかもしれない。そんな訳で、浪人中だった私は大学生になったらボクシングを始めると誓ったのであった。

プロデビューで見返したと思ったら…

「大人になったら見返してぶっ倒してやる!」をボクシングなら実現出来る。そして、子供の頃からの夢はプロスポーツ選手になること。その夢がプロボクサーになれば叶って父親を見返して恨みを晴らすことが出来る。これが僕に残された見返す唯一の方法だと本気で思った。
運動神経ゼロの私ではあるが、指導者に恵まれたのとプロボクサーへの強い憧れの気持ちが揺らがず大学4年生の時にプロデビューすることが出来た。

運良くデビュー戦に勝利して夢を叶えた喜びと同時に、これで父親を少しは見返せたと思った矢先、「大学卒業後もボクシングを続けるなら勘当だ!お前の存在が恥だ、目立たず生きてくれ。」と言われて私は喜んで家を出た。
「あなたは自らの拳を我が子への暴力に使ったが、俺は自分の夢に向けて使った。」と父親に言ったことを今でも覚えている。

次の勝利までに足かけ10年

これから実績を残せば俺は輝ける。有名になって更に親を見返せる。そういう人生プランになっていたが、人生うまくとは行かないことを痛感する。選手としてはもちろん、人生においても大事な時期である20代後半に度重なる負傷で入退院を繰り返すのである。この時期最大の発見は『手術室の看護師さんはどの病院も美人ばかり!』とどれだけ病院にお世話になったんだという有様である。

純粋にボクシングへの想いが強かったのか、親を見返すことへの強い執着かは不明だが、何故か引退という選択肢は一度も私の頭に上がらなかった。そんな私が度重なる負傷から復帰してからは連敗街道を突き進み、次の勝利を挙げるのにプロデビューから約10年の歳月が経過していた。

この10年の経験があって良かったとは思わないが、この時期の経験は私の人生における礎となっている。

まだ夢の途中なんだ!

30代になり母親は他界し父親とは絶縁状態なのもあってか、「大人になったら見返してぶっ倒してやる!」その感情は20代よりは薄れていった。(父親への恨みは消えないが。)
しかし、私はまだ夢を達成した訳ではないので心は満たされていなかった。子供の時に抱いた”プロスポーツ選手になる”には続きがあって、それは”海外で試合をする”こと。きっかけは不明だが、海外遠征というものに憧れ続けていたのである。

実はボクシングにはスポーツで唯一定年制があるのだ。オリンピックには40歳までしか出場できない。日本におけるプロボクサーの定年は特別に実績がなければ37歳である。実績のない私は37歳が来る直前にある行動に出た。

その行動とは、メールアドレスがわかった欧米各国のボクシング協会に「日本では37歳で選手のライセンスが剥奪されます。私を試合に使っていただければ幸いです。」と拙い英文でメールを出したのであった。アメリカとカナダは州ごとの管轄なので80件は送っただろう。世界には優しい方がいるもので、ならず者の日本人に数件の返信が来たのであった。その数件の中に熱のある好意的なメールをくれたのが北マケドニア共和国(当時はマケドニア共和国)の親分からであった。「とにかく一度来い」と言うので、私は現役続行のチャンスに賭けてマケドニアへと向かったのである。(有り難いことに親分とはボクシングを離れても友人となり現在に至る。)

バルカン半島初の日本人プロボクサーに

親分が住む街に到着したのは、飛行機と夜行バスを乗り継ぎ出国後35時間以上が経過していた。地元の方々からの熱烈な歓迎と日本人が来た物珍しさで地元新聞社の取材まで受け、至れり尽くせりであった。地元選手との練習に参加した3日間は、私のボクサーとしての実力をチェックする場となった。
最終日の夕食時に親分が「お前に選手ライセンスを発行する。来年この街でイベントを開催する予定だから、その時の試合に出場したら良い。」と言ってくれた。1年は待たされるのは確実だが、現役続行に少しだけ希望が見えた瞬間であった。

年は開け桜が咲く少し前に親分から「5月末か6月初めにイベントを開催する。試合するか?」とメールが来たのである。勿論イエスの返信をして、若干の紆余曲折を経て1年振りのマケドニアに到着したのであった。
試合の地は人口約8万人、小さい街でボクシングの試合が珍しいからか、試合前に市長との対面や記者会見もあった。日本とは違った様子を経験してリングに上がった。
変わり者と親から揶揄され30年余り、その変わり者を貫いたら『バルカン半島初の日本人プロボクサー』になってしまった。

試合結果は判定負け。海外で試合をする夢は叶えたが勝っていない。夢は完全に叶っていないので引退する予定は、まだない。

1%以下の人間になってみたら

北マケドニアを訪れる日本人は海外渡航者の1%以下らしい。そんな国で地域初の日本人プロボクサーとリングに上がったことは全国ニュースで報道されたらしく、街で「ニュースでお前の試合を見た」と声を掛けられるという日本では考えられない経験をした。
また、東京在住の政府関係者(当時は大使館がなかった)に試合のことを知らせていたからか、首相が来日時にマケドニアと縁のある日本人としてパーティーに招待された。

子供の時から何事においても”みんなと同じが嫌”で、それで親から変わり者と揶揄されてきたが、自らの持つマイナー気質の行動がもたらした幸運だと思っている。

このように北マケドニアと縁が出来たので、この場で現地のことについても発信できたらと考えている。

スポーツ選手だがスポーツが嫌いかも

プロボクサーになって気づいたことの一つに、スポーツ選手に対する世間からの風当たりが強いことである。前述のように、私は大学卒業後もプロボクサーを続ける選択をしたら勘当された。日本ではいまだに”スポーツとは健全な精神を育成するために部活動でするもの”と考える大人が決して少なくないと感じる。だから、新聞社が筆頭に演出する感動ポルノ『甲子園』の人気が衰えないのであろう。
そんなスポーツを利用して感動ポルノを演出して金を稼ぐ大人達。その典型例が東京五輪であろう。そして、金のために汚い大人達に利用される選手達。
私はこんなスポーツ界の現状を冷めた目で見てしまっている。利用する大人達が最も悪いが、それに気づかなかったり問題意識を持たない選手達の姿勢も如何なものかと思う。
幸か不幸か私はプロボクサーではあるが職業ボクサーではない。選手としての報酬だけでは生活が出来ないので常に別の仕事を持ち続け、社会生活から外れたいわゆる”競技バカ”ではないと自負している。

東京五輪開催の頃には五輪への苦言を当ページに載せてきた。触れたい話題があった際には、プロスポーツ選手の端くれとしてスポーツを批評していくつもりだ。

お坊さんになってしまった

コロナ禍でこれまでの生活が一変した方も少なくないだろう。かくいう私もコロナ禍の影響で受けていた仕事はキャンセル、試合の話もあったが消えていった。
そして、極めつけは契約した仕事の件で裁判所に訴えられたのだ。最終的に和解が成立したのだが、訴状を読み答弁書を作成して出廷する作業は何とも嫌なものであった。弁護士を立てずに裁判に挑んだので勉強になることも多かったが、二度と経験したくないことである。
周囲から人間は離れ、和解が成立したら「裁判の様子を教えて」とすり寄ってきて人間の嫌なところを見せられた。そんな時に何故か歎異抄を手に取った。私にとって歎異抄がとにかく面白くて、すっかり親鸞に魅了されてしまった。
そして、『親鸞の教えと俺がリングで学んだことを合わせれば、必ず俺は更に成長する!』と確信して坊さんになったのである。

複雑性PTSDになってしまった

2023年の夏、「バカ親父とうとう呆けちまったよ!」と弟から電話があった。

その瞬間、悔しさを覚えた。それは父親が呆けたことへの悔しさではなく、これからいくら見返してもその事を理解できない人間に父親がなってしまったことにである。僕の人生のモチベーションは物心がついた時から”バカ親父を見返してやる!”であったからだ。

最も恨んでいる人間に対して、見返したと思えることが出来ても無意味なこと。それを理解した瞬間に僕の身体は崩壊した。幼少期に虐待されたことのフラッシュバックが始まり、不眠に摂食障害…。3週間余りで約12キロ痩せた。あまりに苦しくて何度か自死を試みようとしたが、その度に試みを止める助けが入ったのであった。
「俺、近いうちに死ぬな…」と思って遺言書を作成して弟に保管場所を伝えた。

今(2023年末)では尊敬できる知人達から、「お前はこれからの人生、幸せになる義務がある!」、「もう父親ではない、自分が主語の人生を歩め!」の言葉をいただき、

僕は必ず幸せを掴む!

これがモチベーションとなり心理的には前向きになっているが、依然としてフラッシュバックと摂食障害が続いていて体調は良くない。

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大勇 (Daiyu) プロボクサーでお坊さん
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