SABRINA vol.13
1.
何でか分からないけど昨日カフェイン飲料を三本も飲んでしまった。
缶コーヒーが2本とエナジードリンクが一本。
毎回エナジードリンクを飲むとすごい不健康な気がして、それも何でか分からないけどその日はもうどうしようもないぐらい不健康になりたくなる。
だから僕は追加で缶コーヒーを二本飲んでからマクドナルドを袋一つでは収まりきらないぐらい買って家で食べた。そうすると血糖値が上がって眠くなるはずなんだけどハンバーガーを食べる前に飲んだカフェイン飲料のおかげで夜まで眠れる気配がなかなかしない。
僕はその後もどうしようもない一日をさらにどうしようもなくするためにSNSが人格を持ったかのように勧めてくる巨乳の女の子を過去まで潜って何かその人のドラマを感じてみようと試みたりしようとなんかした。そして、まだ眠れなかったので何となく僕みたいなアマチュアが書いた文章を読んでみたりもした。
自分のことをかなり棚に上げて言うと、プロの世界は知らないとして僕はだいたいの他人の文章を読んで、何でこんなに退屈なんだろう、と思う。
文章が上手いんだろうけど下手そうにも見えたり、賢そうでバカみたいで僕が学校にいた頃に嫌いだった全ての教師も先生も同じようなことをしていたんじゃないかと疑ってしまうような。僕は先生と教師の差も全くわかってないし、学校もそのさっき言ったどちらも嫌いで嫌いで仕方がなかった。
せっかく文章を書いていてプロでもなければ責任もないんだからむちゃくちゃなことをしてやれば良いのに文字がみんな綺麗に列を作って整頓されたような文章ばかりだなって思う。
運動会の時も別にまばらに隣に好きなヤツを置いてちっさな台に登って話している校長先生の話を適当に聞いていたらまだ楽しいのに。
赤と白に分けたところで何の責任感も湧いて来ないんだから好きにさせてくれよ、って感じがするしみんな多分あの頃から同じようなことを抱いていたような気がする。
2.
僕にまだ教師が付いていた頃の驚くぐらいどうでも良い話を最近思いだした。
自分は中学生の頃も、今もかもしれないけど、何をするにしても自分のモチベーションが性欲からしか湧いてこなかった。当時の感覚のまま言うとエロ仙人、今も当時もエロ仙人の卵として生きているつもりだ。
全く経緯は覚えていないけど、どこで僕がその秘伝奥義を編み出したのか見当もつかないのだが、僕は中学生の一学期の頃にキンタマにムヒを塗ると感じたことのない薬品ならではのケミカルな快楽を感じることを知った。
詳しく言うと、いや、キンタマにムヒを塗るだけなんだけど。とにかく最初の5分から10分ぐらいはムヒのメンソールな感じに燃えるような激痛を感じる。ただ、それを我慢し続けると脳みそのシステムなのか、あまりにも痛すぎて僕のキンタマの中に潜むエンジニアがプログラムから根こそぎ変えたのか唐突に神様が降りてくる瞬間がある。
偉そうに言える話でも何でもないんだけど、中学生の頃の自分はシステムを悪用して強引に神秘体験をして金の玉に宿る精神を完全にハッキングしていた。
そんな僕が学校の先生の机にムヒが置いてあるのを見つけてしまったのだ。
だんだん書いていくのがめんどくさくなってきたのでさらに簡潔にいうと、まぁ当然と言えば当然なのかもしれないけど、僕は授業が終わった後に友達たちを近くのトイレに集めてジャンケンに負けた人がキンタマにムヒを塗る罰ゲーム大会を開催した。
あんなジャンケンはみんな嘘だと思う。
全員が自主的にやってない言い訳が付く方法でキンタマにムヒを塗りたいだけだ。
負けろ、俺負けろ、勝つな、負けるんやったら今日やぞ俺、負けて勝てる時に負けておけ俺。…残念ながら勝ってしまった僕は悪ふざけで友達のキンタマが雪だるまになるぐらい白くムヒを塗り重ねた。
授業が始まってからその人の経験値が浅すぎたせいか、友達は金の玉に宿いし裏世界のエンジニアの出現を待たずして教室を飛び出した。
放課後にその人にあの後トイレで何をしていたか聞くと、彼は水道の蛇口の水圧をMAXになるまで上げて洗面台に足をかけてキンタマを激流に直で当てていたらしい。灼熱の痛みには水で激流を作るしかないと。体から余分な水分を出す部署を直に水洗いする「目には目を、歯には歯を大作戦」という何とも滑稽な話で僕たちは笑い転げた。
この話を今してもみんな笑ってくれるし、こんなことを今本気でしてみても僕は楽しいと思うよ。それでもできる環境があるかとか、それを楽しんでやれる人があの日みたいにトイレでジャンケン大会した人数集めるのも難しそう。
多分表面的には説明がつかない何かが何もかも今は変わってしまってるのかもしれない。
3.
僕は絵を描くのが好き。
アートとかって難しいイメージがあるけど多分やっぱり難しいんだとは思う色んな意味で。こんな仰々しくキャンパスに描いたりしてるぐらいだったら近くのいい感じの駐車場にある壁に向かって絵の具に浸した泥ダンゴでも投げまくってる方が楽しいんちゃうか、とか毎日思う。
人の壁にそんなことやったら怒られそうとかもあるけど、そんなのってアートとか良い絵かどうかって全然知ったこっちゃねーけど今やってる事よりはよっぽど楽しくて何か世の中変わったりするんちゃうかとかどうでも良いことを色々考える。
何回かその遊びを自分の頭の中でやってる。
そうするとあんなけ自由奔放に遊んでる方が楽しいと思って始めた自分が、この壁の方がよく見えるんちゃうか?とか、これさっきオレンジ投げたから次は緑の泥ダンゴ投げた方がマティスみたいな色味になる気がして良いんちゃうか?とか、なんかそんなような感覚をずっと抱きながらやっているような自分が何回やっても出てくる。もしかしたら見たことのありそうな賢そうな抽象画家が書いた傑作に近づいた時にこれが自分のスタイルだとか言い出しそうな自分が何回も出てくる。
それって僕の中では物凄く寂しい気持ちになって何だか傷ついたような感覚になる。多分適当に投げていけば順当にうんこ色みたいに多分なる。それを見て、うんこ色やん!!きったね!!!て言いながらやるのが一番楽しいはずなんだ。
だけど、やっぱり世の中に汚れ散らかしたうんこ色の壁を増やし続けたって物事は変わらない。それって人の美的センスなのか意識なのか何なのかわからないけど、いやそんなことじゃなくて、どうしたって自分だけが一番楽しいフォルムで何かをやっていったところで自分以外への影響力がないということかもしれないけど。
うん、とにかくわかんないことだらけでそこだけは産まれてきてからずっと変わらない。
僕に最低限できるのはうんこ色の壁を増やすことじゃなくて、そのうんこ色の壁を見つけた時に何か誰かがワクワクすることが起きたかもしれないと、そんなことはないかもしれないけどそのイメージが浮かび上がってくるまで眺め続けることで、それってもしかしたら多くの人ができることじゃないのかもしれない。
もし浮かび上がってきたらすぐに他人に伝える努力をしないといけないと思う。そうしないとただ汚されただけだと感じると思う。
僕はずっと見るからもしかしたら何もしてない奴に見えるかもしれない。
まとめがきかない話なので終わっときます。
2023/11/28PM17:09