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聖書の山シリーズ11 戦うことの不毛   アマの丘

タイトル画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gibeon.png#/media/File:Gibeon.png


2022年10月2日 礼拝

聖書箇所 Ⅱサムエル記2章


Ⅱサムエル
2:13 一方、ツェルヤの子ヨアブも、ダビデの家来たちといっしょに出て行った。こうして彼らはギブオンの池のそばで出会った。一方は池のこちら側に、他方は池の向こう側にとどまった。
2:14 アブネルはヨアブに言った。「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう。」ヨアブは言った。「出そう。」
2:15 そこで、ベニヤミンとサウルの子イシュ・ボシェテの側から十二人、ダビデの家来たちから十二人が順番に出て行った。
2:16 彼らは互いに相手の頭をつかみ、相手のわき腹に剣を刺し、一つになって倒れた。それでその所はヘルカテ・ハツリムと呼ばれた。それはギブオンにある。
2:17 その日、戦いは激しさをきわめ、アブネルとイスラエルの兵士たちは、ダビデの家来たちに打ち負かされた。
2:18 そこに、ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、アサエルが居合わせた。アサエルは野にいるかもしかのように、足が早かった。
2:19 アサエルはアブネルのあとを追った。右にも左にもそれずに、アブネルを追った。
2:20 アブネルは振り向いて言った。「おまえはアサエルか。」彼は答えた。「そうだ。」
2:21 アブネルは彼に言った。「右か左にそれて、若者のひとりを捕らえ、その者からはぎ取れ。」しかしアサエルは、アブネルを追うのをやめず、ほかへ行こうともしなかった。
2:22 アブネルはもう一度アサエルに言った。「私を追うのをやめて、ほかへ行け。なんでおまえを地に打ち倒すことができよう。どうしておまえの兄弟ヨアブに顔向けができよう。」
2:23 それでもアサエルは、ほかへ行こうとはしなかった。それでアブネルは、槍の石突きで彼の下腹を突き刺した。槍はアサエルを突き抜けた。アサエルはその場に倒れて、そこで死んだ。アサエルが倒れて死んだ場所に来た者はみな、立ち止まった。
2:24 しかしヨアブとアビシャイは、アブネルのあとを追った。彼らがアマの丘に来たとき太陽が沈んだ。アマはギブオンの荒野の道沿いにあるギアハの手前にあった。
2:25 ベニヤミン人はアブネルに従って集まり、一団となって、そこの丘の頂上に立った。
2:26 アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。いつになったら、兵士たちに、自分の兄弟たちを追うのをやめて帰れ、と命じるつもりか。」
2:27 ヨアブは言った。「神は生きておられる。もし、おまえが言いださなかったなら、確かに兵士たちは、あしたの朝まで、自分の兄弟たちを追うのをやめなかっただろう。」
2:28 ヨアブが角笛を吹いたので、兵士たちはみな、立ち止まり、もうイスラエルのあとを追わず、戦いもしなかった。

はじめに


聖書に登場する山々は、神と人との出会いの場所として、また重要な出来事の舞台として、深い意味を持っています。これらの山々は、単なる地理的な特徴以上の存在であり、信仰の旅路や霊的な成長を象徴することも少なくありません。

今回、私たちは「聖書の山シリーズ」の第11回目として、あまり知られていない山、『アマの丘』に注目します。この山は、旧約聖書のⅡサムエル記に登場し、イスラエルの歴史において重要な出来事の舞台となりました。

『アマの丘』は、その名前こそ広く知られていませんが、聖書の物語の中で重要な役割を果たしています。この山で起こった出来事は、イスラエルの王国時代における政治的な緊張と、人間関係の複雑さを映し出す鏡となっています。

Ⅱサムエル記に記された『アマの丘』にまつわる記事は、単なる歴史的な記録以上の意味を持っています。それは、人間の野心、裏切り、そして最終的には和解の可能性を示す物語として読むことができます。

この導入に続いて、私たちは『アマの丘』で起こった具体的な出来事を詳しく見ていきます。その過程で、この山が聖書の中でどのような意味を持ち、また現代を生きる私たちにどのようなメッセージを伝えているのかを考察していきたいと思います。

『アマの丘』の物語を通じて、私たちは人間の本質や、困難な状況における選択の重要性について、深い洞察を得ることができるでしょう。さあ、一緒にこの興味深い聖書の山の探索を始めましょう。

アマの丘 聖書の謎めいた場所


アマの丘は、聖書の中でもひときわ謎めいた場所の一つです。この丘の存在は、旧約聖書のⅡサムエル記2章24節にわずかに言及されているだけで、その詳細については多くが不明のままです。聖書の記述によると、アマの丘は、ダビデ軍の将軍ヨアブとアビシャイがイスラエル軍の将軍アブネルを追跡していた際に、日没時に到達した場所とされています。

この丘の正確な位置を特定することは現在も困難を極めています。しかし、19世紀末に編纂されたEaston's Bible Dictionaryによれば、アマの丘はギベオンの東に位置していたとされています。ギベオンは、現在のエルサレムから北西に約10キロメートル離れた場所にあったと考えられており、この情報は現代の考古学的知見とも整合性があります。

興味深いことに、航空写真を詳しく調べると、ギベオンの東側に谷を挟んで小高い丘が確認できます。この丘がアマの丘である可能性が指摘されていますが、これはあくまで推測の域を出ません。考古学的な証拠が不足しているため、この説を裏付けるのは現時点では困難です。

アマの丘が登場する聖書の場面は、ダビデとサウルの家の間で繰り広げられた激しい権力闘争の最中のことでした。そのため、この丘が当時の戦略的に重要な位置にあった可能性は高いと考えられます。しかし、時の流れとともに、その正確な位置は忘れ去られてしまったようです。

アマの丘の謎は、古代の地名や場所を現代に特定することの難しさを如実に示しています。聖書に記された地名の多くが、時代とともに変化し、あるいは失われてしまった現実を、私たちに突きつけているのです。

この丘の正確な位置を特定するためには、さらなる考古学的調査や歴史的研究が必要不可欠です。しかし、たとえ正確な位置が特定できなくとも、アマの丘は聖書の物語の中で重要な役割を果たしており、古代イスラエルの歴史を理解する上で欠かせない場所であることに変わりはありません。

アマの丘の謎は、聖書研究者や考古学者たちを魅了し続けており、今後も新たな発見や解釈が生まれる可能性を秘めています。この謎めいた丘は、私たちに古代の歴史の奥深さと、まだ解き明かされていない多くの謎の存在を思い起こさせてくれるのです。

サウル王死後の情勢


ユダ族領地に帰還するダビデ

イスラエルの歴史において、ダビデのユダ族領地への帰還と即位は重要な転換点となりました。この出来事は、混沌とした時代の中で、新たな指導者の台頭を象徴する重要な瞬間でした。

すべては、イスラエルの初代王サウルがペリシテ人との戦いに敗れ、ギルボア山で悲劇的な最期を遂げたことから始まります。この知らせを受け取ったダビデは、かつての主君であるサウルに対して心からの弔辞を捧げました。しかし、時代は急速に変化しつつあり、ダビデには悲しみに浸る余裕はありませんでした。

サウル王の死後、イスラエルを取り巻く情勢は急速に悪化しました。戦いに勝利したペリシテ人による侵攻の可能性と、指導者を失ったイスラエル軍がダビデの軍隊に挑む可能性という二つの脅威が迫っていたのです。これらの危機に直面し、ダビデは迅速な行動を迫られました。

このような切迫した状況の中、ダビデは主なる神に祈り、導きを求めました。聖書のⅡサムエル記2章1節には、ダビデが神に「ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか」と尋ね、神が「ヘブロンへ」と答えたことが記されています。自分の出身部族であるユダの地に戻るべきかどうかを神に問い、明確な答えを得たダビデは、その導きに従う決心をしたのです。

神の指示に従い、ダビデはペリシテ人の領地であるツィケラグからヘブロンへと移住します。この移住は単なる場所の移動ではありませんでした。Ⅱサムエル記2章2-3節に記されているように、ダビデは二人の妻、イズレエル人アヒノアムとカルメル人アビガイル、そして自分に従う人々とその家族を伴っての大規模な移動でした。これは、新たな時代の幕開けを象徴する出来事だったのです。

ヘブロンに到着したダビデを待っていたのは、ユダ族の人々による熱烈な歓迎でした。Ⅱサムエル記2章4節前半には、ユダの人々がダビデに油を注ぎ、ユダの家の王として立てたことが記されています。こうしてダビデは、ユダ族の王として正式に即位しました。これは、イスラエルの歴史における重要な転換点となりました。

王としての最初の行動の一つとして、ダビデはサウル王の遺体を丁重に葬ったヤベシュ・ギルアデの人々に感謝の意を表しました。Ⅱサムエル記2章5節に記されているこの行動は、ダビデの寛大さと政治的洞察力を示すものでした。サウル王に忠実だった人々に敬意を表することで、ダビデは新しい王として国民の支持を得ようとしたのです。

ダビデのユダ族領地への帰還と即位は、単なる政治的な出来事以上の意味を持っていました。それは、神の導きに忠実に従う一人の人間の姿を示すと同時に、混乱の時代にあって強力な指導者の登場を告げるものでした。この出来事は、後のイスラエル統一王国の基礎となり、ダビデ王朝の始まりを告げる重要な瞬間だったのです。

ダビデの行動は、困難な状況下での信仰と勇気、そして賢明な判断力を示しています。彼は、自身の野心を追求するのではなく、常に神の導きを求め、その指示に従いました。同時に、政治的な洞察力を発揮し、国民の支持を得るための慎重な行動をとりました。

サウル王の埋葬とダビデの反応:ヤベシュ・ギルアデの人々の勇気ある行動

イスラエル王国の歴史において、ギルボアの戦いは悲劇的な転換点となりました。この戦いで、初代王サウルとその三人の息子たちは命を落としました。彼らの死は、単なる戦争の犠牲以上の意味を持っていました。それは一つの時代の終わりを告げると同時に、新たな時代の幕開けを予感させる出来事でした。

戦いの後、勝利したペリシテ人たちは、残酷な行為に及びました。彼らはサウルと彼の息子たちの遺体を回収し、その首を切り落としました。そして、敵対する者たちへの警告と勝利の象徴として、それらの遺体をベテ・シャンの城壁にさらしたのです。これは、敗れた王とその家系に対する最大の侮辱でした。

しかし、この暗い状況の中で、一筋の光明が差し込みます。それは、ヤベシュ・ギルアデの勇敢な人々の行動でした。彼らは夜陰に乗じて、命の危険を顧みずベテ・シャンまで行き、サウルとその息子たちの遺体を回収しました。この行動は、単なる勇気以上のものを示しています。それは、かつて自分たちを救ってくれた王への深い感謝と忠誠心の表れでした。

ヤベシュ・ギルアデの人々は、回収した遺体を丁重に扱いました。彼らは遺体を火葬し、その遺骨をヤベシュにある樫の木の下に葬りました。この行為は、聖書のⅠサムエル記31章8-13節とⅠ歴代誌10章12節に記されています。彼らのこの献身的な姿勢は、サウル王への最後の敬意を表すものでした。
この出来事を知ったダビデの反応は、彼の人格と将来の王としての資質を如実に示すものでした。ダビデは、サウルとその息子たちを立派に葬ったのがヤベシュ・ギルアデの人々であることを知ると、すぐに行動を起こしました。彼は使者を送り、ヤベシュ・ギルアデの人々を祝福しました。この出来事はⅠサムエル記2章4-7節に記されています。

ダビデの言葉は、深い感謝と敬意に満ちていました。彼は、ヤベシュ・ギルアデの人々の勇気ある行動を称え、彼らに主の祝福があるようにと祈りました。この反応は、ダビデの政治的洞察力だけでなく、彼の寛大さと思慮深さも示しています。かつての敵対者であるサウルの支持者たちに対してさえ、ダビデは敬意を表し、和解の手を差し伸べたのです。

興味深いことに、聖書にはヤベシュ・ギルアデの人々のダビデに対する反応は記されていません。彼らがダビデの言葉をどのように受け止めたのか、それが両者の関係にどのような影響を与えたのかは、私たちの想像に委ねられています。しかし、この出来事が、ダビデの統一イスラエル王国樹立への道を開く重要な一歩となったことは間違いありません。

ヤベシュ・ギルアデの位置は、ヨルダン川の東岸、ガリラヤ湖の南に位置しています。この地理的位置は、彼らの行動の勇気をさらに際立たせます。ペリシテ人の支配下にあったベテ・シャンまでの危険な旅を敢行し、サウルとその息子たちの遺体を回収したのです。

古代イスラエルの地理と政治:ダビデ王朝成立前夜の複雑な状況

古代イスラエルの地理と政治情勢は、ダビデ王朝の成立に至る過程において極めて重要な役割を果たしました。この時代のイスラエルは、地理的な分断と政治的な対立が複雑に絡み合う、まさに激動の時代にありました。

まず、ヤベシュ・ギルアデの位置について見てみましょう。この地は、現在のヨルダン北西部に位置し、ガリラヤ湖の南東に広がる地域にあたります。ヘブロン(ダビデの拠点)からは約100キロメートル北東に位置しており、当時のイスラエルの中では北部に属する地域でした。この地理的な位置関係は、後のイスラエルの政治的分断を理解する上で重要な要素となります。

ダビデがユダの王として即位した後も、イスラエル北部の人々からの支持を得ることは容易ではありませんでした。彼らにとって、ダビデは正統な王というよりも、むしろ「成り上がりもの」と見なされていたのです。ユダ族以外の部族からすれば、ダビデがイスラエルの王位を正当に継承しているとは考えられていなかったようです。この認識の違いは、後の内戦につながる重要な要因となりました。

サウル王の死後、イスラエルの政治情勢はさらに複雑化しました。サウルは生前、自身の王位を継承するであろう息子たち、軍を掌握する実力者、そして自身の支援者たちを残して世を去りました。特に重要な人物が、イスラエル軍の司令官アブネルです。アブネルは、サウルの息子イシュ・ボシェテをサウルの正統な後継者として擁立しました。

こうして、イスラエルは二人の王が対峙する内戦状態に突入することになります。南部ではダビデが、北部ではイシュ・ボシェテが、それぞれ支持を集めていきました。この分裂は、単なる権力闘争以上の意味を持っていました。それは、イスラエルの統一と分裂、伝統と革新、北と南の対立という、より大きな問題を象徴するものだったのです。

さらに、この内部対立に追い打ちをかけるように、外部からの脅威も迫っていました。地中海沿岸から内陸部へと侵攻を続けるペリシテ人の存在です。彼らは強大な軍事力を持ち、イスラエル北東部のベテ・シャンにまでその勢力を伸ばしていました。ベテ・シャンの位置は、ヤベシュ・ギルアデの西、ヨルダン川の西岸に位置しています。この地がペリシテ人の支配下に入ったことは、イスラエルにとって大きな脅威となりました。

このような複雑な状況下で、イスラエルは内部分裂と外部脅威の両方に直面していました。ダビデにとっては、南部のユダ族の支持を固めつつ、北部の諸部族の信頼を勝ち取り、さらにはペリシテ人の脅威に対処するという、極めて困難な課題が待ち受けていたのです。

この時期のイスラエルの状況は、新興勢力と既存勢力の対立、地域間の利害の相違、そして外敵の脅威という、古今東西の国家形成期によく見られる要素を含んでいます。ダビデがこれらの課題をどのように克服し、最終的に統一イスラエル王国を築き上げていったのかは、政治的手腕と軍事的才能、そして信仰心が結びついた興味深い歴史のドラマとなっています。

ペリシテ人の侵攻は、イスラエルの地理的・政治的構造を根本から揺るがす出来事でした。彼らは地中海沿岸部から内陸へと勢力を拡大し、やがてヨルダン川にまで到達しました。この侵攻の過程で、ペリシテ軍は戦略的に極めて重要なイズレエル平野を掌握しました。

イズレエル平野の占領は、単なる領土の喪失以上の意味を持っていました。この平野は、イスラエルの北部と南部を結ぶ要衝であり、ここを支配することは、すなわちイスラエルの国土を南北に分断することを意味したのです。ペリシテ人はこの地理的利点を最大限に活用し、イスラエルを効果的に二分することに成功しました。

この外部からの分断に加え、イスラエル内部でも深刻な対立が生じていました。北部では、サウルの息子イシュ・ボシェテを擁立するアブネル率いる軍が勢力を保っていました。一方南部では、ダビデとその軍が支持を集めていました。本来ならば、この二つの勢力が国家の統一を巡って対峙する構図となるはずでした。

しかし、ペリシテ人の侵攻により、状況はさらに複雑化しました。ペリシテ軍が両者の間に「楔」のように入り込んだことで、イスラエルは三つ巴の対立状態に陥ったのです。北部のイシュ・ボシェテ軍、南部のダビデ軍、そして中央を占拠するペリシテ軍という、三つの勢力が互いに牽制し合う状況が生まれました。

この三つ巴の対立は、イスラエルにとって未曾有の危機でした。国土は分断され、統一的な指導者不在の状態が続きました。さらに、外敵であるペリシテ人が国土の中心部を押さえているという状況は、イスラエルの独立と存続そのものを脅かすものでした。

この複雑な状況は、イスラエルの指導者たちに極めて困難な課題を突きつけました。彼らは内部の対立を解消し、国家の統一を図りつつ、同時に強大な外敵に対抗しなければならなかったのです。特にダビデにとっては、南部の基盤を固めながら、北部の支持を獲得し、さらにはペリシテ人を撃退するという、三つの課題を同時に解決する必要がありました。

この時期のイスラエルの状況は、新興国家が直面する典型的な課題を如実に示しています。内部の政治的統一、外部からの脅威への対処、そして国土の一体性の維持という、いずれも国家の存立に関わる重要な問題に直面していたのです。

イスラエル内戦から学ぶ神の摂理と忍耐の重要性


イスラエルの歴史において、サウル王の死後に起こった内戦は、単なる権力闘争以上の深い意味を持つ出来事でした。この内戦は、人間の計画と神の摂理が交錯する場面として、私たちに多くの教訓を与えてくれます。

内戦の具体的な様子は、聖書のⅡサムエル記2章13節から17節に生々しく描かれています。ダビデ軍の司令官ヨアブと、イシュ・ボシェテ軍の司令官アブネルが、ギブオンの池のそばで対峙する場面から物語は始まります。緊張が高まる中、アブネルは興味深い提案をします。全面戦争を回避するため、両軍から代表者を選んで一対一の闘技を行うというのです。

この提案にヨアブが同意し、両軍からそれぞれ12人ずつの精鋭が選ばれました。しかし、この闘技は予想外の結果に終わります。互いに相手の頭をつかみ、わき腹に剣を刺し合うという激しい闘いの末、24人全員が同時に倒れてしまったのです。この悲劇的な結末は、その場所に「ヘルカテ・ハツリム」(剣の地)という名を残すことになりました。

代表者による決着がつかなかったため、結局のところ全面戦争へと発展していきます。そして最終的には、ダビデ軍が優勢となり、イシュ・ボシェテの軍が追い詰められていくのです。

この一連の出来事の背後には、人知を超えた神の御手が働いていたことを、私たちは認識する必要があります。表面的には、正統な後継者であるイシュ・ボシェテと、新興勢力のダビデの権力闘争に見えるかもしれません。しかし、より深い視点で見れば、これは神の計画が着実に進んでいく過程だったのです。

神は既にダビデを王として選び、油を注いでいました。人間の視点からは理解しがたいかもしれませんが、神の計画は確実に、そして時には目に見えないほどゆっくりと進んでいたのです。この事実は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。

私たちはしばしば、自分たちの力や知恵で物事を進めようとします。政治的な駆け引きや、力による支配を通じて目的を達成しようとするのです。しかし、神の方法はこれとは全く異なります。神は、私たちが気づかないうちに、歴史の歯車を少しずつ動かし、その御計画を実現していくのです。

この神の働き方は、私たちにとってしばしばもどかしく感じられるかもしれません。「いつになったら、神は御手を伸ばしてくれるのか」と、焦りや不安を感じることもあるでしょう。しかし、ここで私たちに求められるのは「忍耐」なのです。

ヘブル人への手紙10章36節は、この真理を端的に表現しています。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」この言葉は、イスラエルの内戦の文脈においても、そして現代を生きる私たちにとっても、極めて重要な教訓となります。

神の計画は、必ずや成就します。しかし、それは必ずしも私たちの期待するタイミングや方法ではないかもしれません。ここで求められるのは、神の時を待つ忍耐と、目に見えない神の働きを信じる信仰なのです。

アサエルの悲劇 長所に基づく野心の危険性と神への信頼

Ⅱサムエル記2章18節から24節に記された出来事は、一見単なる戦闘の描写に見えますが、その背後には人間の野心と神の摂理が複雑に絡み合っています。

物語は、ツェルヤの三人の息子、ヨアブ、アビシャイ、そしてアサエルの登場から始まります。特にアサエルについて、聖書は「野にいるかもしかのように、足が早かった」と描写しています。この特徴は、後の悲劇を予感させる伏線となっています。

戦いの中で、イシュ・ボシェテ軍の将軍アブネルが敗走を始めます。ここでアサエルの悲劇が幕を開けます。彼は自身の俊足を頼みに、単身でアブネルを追跡し始めたのです。アサエルの心中には、敵将アブネルを討ち取ることで戦争を終結させ、ダビデの王位を確実なものにしたいという思いがあったのでしょう。さらには、この功績によって自らもダビデの側近として重用されたいという野心もあったかもしれません。

しかし、アサエルの行動は彼を破滅へと導きます。アブネルは幾度となくアサエルに警告を発し、追跡を止めるよう諭します。しかし、アサエルはその警告を無視し続けました。結果として、アブネルは自衛のためにアサエルを槍で突き、アサエルはその場で息絶えることになります。

この悲劇的な結末は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。アサエルの俊足という長所は、本来であれば彼の強みであったはずです。しかし、それへの過信が彼を破滅へと導いたのです。自分の能力を過信し、周囲の警告を無視し続けたことが、彼の命取りとなりました。

この物語から私たちが学ぶべきことは、自分の長所や能力に頼りすぎることの危険性です。私たちの長所は、時と場合によっては短所にもなり得るのです。重要なのは、自分の能力を適切に評価しつつも、それ以上に神の導きを求めることです。

詩篇20篇7節は、この教訓を端的に表現しています。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」この御言葉は、私たちが誇るべきは自分の能力や経験ではなく、神の御名であることを教えています。

私たちが何かを成し遂げようとするとき、まず必要なのは御言葉に立ち止まる姿勢です。自分の行動の是非を問う以前に、私たちは「主のみ心はどこにあるのか」を問わなければなりません。御言葉に寄り添い、従うことこそが、真の成功への道なのです。

アサエルの悲劇は、私たちに自己過信の危険性を警告すると同時に、神への信頼の重要性を教えています。私たちが最終的に委ねるべきは自分の能力ではなく、イエス・キリストであり、神の御言葉なのです。

この教訓は、古代イスラエルの戦場だけでなく、現代を生きる私たちの日常生活にも深く関わっています。仕事、人間関係、信仰生活のあらゆる場面で、私たちは自分の長所を活かしつつも、それに頼りすぎることなく、常に神の導きを求める姿勢が必要なのです。

アサエルの物語を通じて、私たちは自己の限界を知り、謙虚に神の導きを求めることの大切さを学びます。そうすることで、私たちは真の意味で自分の長所を活かし、神の栄光のために生きる道を見出すことができるのです。

アマの丘の教訓 剣を納め、平和を求める神の民の使命


アマの丘での出来事は、イスラエルの内戦における転換点となりました。この場面は、単なる戦闘の描写以上に、人間の本性と神の望む姿の対比を鮮明に示しています。Ⅱサムエル記2章25節から31節に記された出来事は、私たちに戦いの虚しさと平和の尊さを教えてくれます。

戦いが激化する中、ベニヤミン族の兵士たちはアブネルの下に集結し、アマの丘の頂上に陣取りました。この時、アブネルはダビデ軍の将軍ヨアブに向かって重要な言葉を投げかけます。「いつまでも剣が人を滅ぼしてよいものか。その果ては、ひどいことになるのを知らないのか。」この言葉は、戦いの無意味さと、それがもたらす悲惨な結果を鋭く指摘しています。

アブネルの言葉は、単に目の前の戦いを止めようとする戦術的な呼びかけ以上の意味を持っています。それは、人間社会に潜む根本的な問題、すなわち憎しみの連鎖と報復の悪循環を浮き彫りにしているのです。「やられたらやり返す」「倍返しだ」という思考は、この世界に広く蔓延しています。しかし、こうした考え方は教会や家族といった親密な関係の中にも存在し得るのです。

皮肉なことに、関係が近ければ近いほど、衝突が生まれやすく、憎しみも強くなる傾向があります。これは、親密な関係ほど深い亀裂と分断を生み出す可能性があることを示しています。ガラテヤ人への手紙5章13-15節は、この危険性を警告しています。「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」

イスラエルの分裂の根源を辿れば、サウルのダビデに対する妬みに行き着きます。しかし、その小さな火種は、やがて国全体を二分する大きな炎へと発展しました。本来、神の栄光を表すはずだったイスラエルが、内部で争い、神の民同士が剣を交えるという悲劇的な状況に陥ったのです。これは神の民にとって恥ずべき状態でした。

この悲劇的な状況の根底には、人間の欲望があります。神のみことばに従うよりも、サウル王が残した権威にあやかろうとする者たちの貪欲さが、国全体に悲劇をもたらしたのです。もし彼らが自分たちの欲望を捨て、神の栄光を求め、神の国と義を第一としていたならば、このような分裂は起こらなかったかもしれません。

しかし、私たちもイスラエルの人々と何ら変わりありません。私たちの身近な関係、教会、職場、学校を見れば、人間関係での軋轢やいざこざ、摩擦が常に存在していることがわかります。ここで重要なのは、私たちがそうした状況にどう対応するかです。祈りを通じて神の導きを求めているでしょうか。

アマの丘は、私たちに戦いの虚しさを教える場所です。人を殺すことは分裂を深め、戦いはさらなる混迷を招くだけです。イエス・キリストは山上の説教で「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と語りました。これは、神の子どもとしての私たちの本質的な使命を示しています。

私たちは闘うことよりも、平和の使徒としてこの世で生きることを求められています。それは容易なことではありません。しかし、アマの丘の教訓を心に留め、日々の生活の中で小さな平和を実践していくことから始められるのです。

対立や分裂に直面したとき、まず祈りましょう。神の知恵と導きを求めましょう。そして、自分の欲望やプライドを脇に置き、相手の立場に立って考える勇気を持ちましょう。和解と赦しの精神を持って行動することで、私たちは神の子どもとしての使命を果たし、この世に神の平和をもたらす器となることができるのです。

アマの丘の教訓は、古代イスラエルの戦場だけでなく、現代を生きる私たちの日常生活にも深く関わっています。それは、剣を納め、平和を追い求めるという、神の民としての永遠の使命を私たちに思い起こさせるのです。アーメン。

参考文献


  • 新聖書辞典 いのちのことば社

  • 新キリスト教 いのちのことば社

  • フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)