危機の時代にあって──窮地のなかでの喜び Ⅰペテロ4章12-13節
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2023年1月29日 礼拝
Ⅰペテロの手紙4:12-13
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
Ἀγαπητοί, μὴ ξενίζεσθε τῇ ἐν ὑμῖν πυρώσει πρὸς πειρασμὸν ὑμῖν γινομένῃ ὡς ξένου ὑμῖν συμβαίνοντος,
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
ἀλλὰ καθὸ κοινωνεῖτε τοῖς τοῦ Χριστοῦ παθήμασιν χαίρετε, ἵνα καὶ ἐν τῇ ἀποκαλύψει τῆς δόξης αὐτοῦ χαρῆτε ἀγαλλιώμενοι.
はじめに
『危機の時代にあって』というテーマで語ってきましたが、混迷を深め、不安と狂気が渦巻く時代に必要なことは、クリスチャンとして当たり前のことを誠実に行うということが求められているということを知りました。
突如として、危機の時代が訪れるわけではありません。終末の時代もそうです。現代の私たちの時代にこそ、ペテロが語ることばの意味が必要とされていますが、今回は、試練の時への心構えについて見ていきたいと思います。
愛する人たちへのいたわり
12節冒頭で、唐突にペテロはἈγαπητοί(アガペノイ)と語りかけます。
この響きをこころで読みますと、苦難に喘ぎ苦しむ兄弟姉妹たちへの深いいたわりの気持ちが込められたことばであると感じ、涙を覚えずにはいられません。
迫害といういのちの危機におびえ、完全にマイノリティーであったクリスチャンのコミュニティには、信頼に値する聖書はほとんどなく、時折断片的に使徒たちから届けられる手紙、あるいは巡回する弟子たちから語られる言葉以外頼るものがないという現実にありました。
すでにアジア(現在のトルコ)やイスラエルの教会では、異教徒やユダヤ教信徒らによる迫害がすでに始まっており、そうした噂はローマの教会にまで達していました。彼らの信仰は、迫害の前にあってはまさに風前の灯であったでしょう。ローマの大火の容疑者に仕立てられた彼らの恐怖は想像に余りあるものに違いありません。そうした中にあったペテロの『アガペノイ』の熱い言葉に感涙を覚えるものです。
『燃えさかる火の試練』と訳された πυρώσει πρὸς πειρασμὸν(プロセイ プロス ペイラスモン)は、ギリシャ語で読むと見事な韻を踏んでいます。
直訳では、「あなたがたへの試練のために起こる、あなたがたの間の大火に当惑してはならない」ということであり、『燃えさかる火の試練』という表現は誤った印象を与えます。この当時、すでにアジアのクリスチャンは激しい迫害に耐えており、『燃えさかる火の試練』の渦中であったからです。
伝統的には、試練や迫害は、避けることが出来ないものとしてとらえられていますが、もしかすると、ローマの大火を預言した言葉であったかもしれません。
苦しみのコイノニア
ペテロは、ここで迫害を喜んでいなさいと教えています。『喜んでいなさい』χαίρετε(カイレテ)とありますが、この動詞は、現在形であり、継続的な経験を表します。ですから、「喜びつづけなさい」ということです。
つまり、迫害や試練といったものは、クリスチャンになったときからついて回る。しかも、喜び続けなさいという意味にとらえられます。しかも、『あずかれる』はκοινωνεῖτεとあり、原型をコイノネオー。元をたどるとコイノニアということばです。それは「交わる、苦楽を共にする」という意味となりますが、ここでは、「パートナーとする」という意味を持ちますから、キリストの苦しみをパートナーとして人生を歩むという意味にとらえることができます。
こうしたペテロの言葉は、パウロの中にも見られます。
ペテロは、クリスチャンにとって、試練は信仰と一体となっているということ、苦しみは、パートナーであるととらえています。
普通は、苦しみというのは、避けるべきこと、安心安全を目指して生きることが信仰の目的と考えることであるかと思いますが、人生の安心安全を目指すことではなく、むしろ、イエス・キリストの十字架の苦しみを分かち合うことがクリスチャンの人生であると教えています。
クリスチャンの苦しみというものは、受ける人のみが我慢するものではありません。私たちにもたらされる苦しみは、まずはキリストが身代わりとなって、十字架の上で受け止めたものであることです。
キリスト自らが、率先して私たちの苦しみを引き受け、苦しみをともにしてくれたことです。生贄となられたということは、私たちの苦しみを担われたということです。
そのイエス・キリストの苦しみを知って、他の兄弟姉妹への苦しみを共有し、相互に分かち合うことができます。これは特権であり、クリスチャンの恵みです。痛みや苦しみを知れば知るほど、私たちは、イエス・キリストが何に苦しめられたかを知り、同時にこの痛みに耐えたイエスを知ることで、イエスの愛を共有できるのです。そうして、クリスチャン同士がいたわりあうことができるようになります。
なぜ、イエスが私たちのために血潮を流されたのかといいますと、一つには、クリスチャン同士が結び合わされるため、苦しみが結束を生みだし、互いの理解を共有できるためにです。
一見、信仰を駄目にしそうな迫害や、試練というものは、その痛みによって、十字架の意味をあらためて教えるものであり、結束を増すために必要なものであるのです。兄弟姉妹と言いますが、そのコイノニア(交わり)の中にはイエスの血が流され、その血潮によって結びあわされた強い結合があるということを忘れてはいけません。
イエスの血による深いつながりがあるからこそ、ペテロは我々をアガペオイと語りかけ励ましていることを忘れてはいけません。
現在、クリスチャンの交わりが希薄になってきているのは、血で結ばれているという感覚が希薄になってきているからでしょう。
福音が言語で終わり、血肉となっていないことが私たちの課題になってきていることです。
十字架の血潮とイエス・キリストの断末魔が、当たり障りのない優しい言葉に置き換えられて、そのふわっとした優しさが福音とされている光景は、現在のキリスト教界の普通であることです。
そうした現状を決して否定するものではありませんが、そうした甘いものではないことです。
ペテロは、「キリストの苦しみを共有するようになればなるほど、さらに喜ぶべき」であると教えます。
聖プロブス(カッパドキア人)の使徒言行録によれば、プロバスはむちで殴られ、背中と脇腹は熱した串で刺された。最後に、彼もナイフで切り刻まれるという酷い殉教の死を遂げますが、拷問の後に、裁判官が赤熱した釘を手に刺すように命じたとき、聖プロバスは「主イエス・キリストよ、あなたの名のために私の手を刺すことをお許しくださったあなたに栄光あれ!」と叫んだそうです。現在も彼の追悼式典は、ローマ カトリック教会やギリシャ正教会で行われているそうですが、殉教者の死というものを決してナンセンスなこととして考えるべきではないでしょう。彼らは、その信仰において積極的に苦しみに関わっていきました。信仰にとって苦しみや死というものは避けるべきものではなく、祝福であると考えていたのです。
現在の私たちの信仰の不足を考えるならば、まさに、苦しみに積極的に関わる力でしょう。そういう力は無いと思う人は、私を含めてすべてのクリスチャンに共通することですが、その結果何を招いたのか。それは、現在の福音から苦しみを除去してしまったのです。
主イエスは、終末の時代をこう言います。
信仰と試練や痛みが不可分であるイエス・キリストの苦しみを共有するということから逃れることを目的とした信仰は、いずれその中身を失うことになるというメッセージを与えているのではないかということです。
痛みに立ち向かう勇気、苦しみに積極的に関わる力。
それは、どこからくるものでしょうか。
それこそが、聖霊の満たしにほかなりません。
私たちの信念ほど弱いものはありません。ペテロは、十字架にイエスが架かる前にこう言いました。
いざ、イエスがとらえられてしまうと、ペテロは否定しました。人間の決意や決心、信念ははかないものです。
信仰はそういう移ろいやすいものではありません。聖霊の力によって支えられるものだからです。この終わりの時代、私たちに求められているのは、聖霊の満たしであります。『不思議に思わず、喜びなさい』というのは、主の再臨の日に歓喜に招かれるということを知るだけではなく、その力の源になっている聖霊に自分を委ねることです。
そうして初めて、私たちは、苦しみの意味を認識し、今の苦しみを喜ぶことができます。その苦しみが将来、栄光を喜ぶための確かな手段であることを確信できるのも、聖書のみことばを裏付ける聖霊の力強い満たしにあることです。
私たちの人生は苦しみで終わるとしても、そこで終わるものではないことを聖霊によって確信していきましょう──