キリストにある者は隠れられない マタイによる福音書5章14節
2023年8月6日 礼拝
マタイによる福音書5:14
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
Ὑμεῖς ἐστε τὸ φῶς τοῦ κόσμου. οὐ δύναται πόλις κρυβῆναι ἐπάνω ὄρους κειμένη:
タイトル画像:KanenoriによるPixabayからの画像
はじめに
前回は、地の塩について語りました。地の塩というのは、私たちが通常口にする食塩ではなく、死海の岩塩であることを学びました。その多くはマグネシウムであって、NaClは含有率が低く、畑の肥料として利用されていたということでした。しかし、NaClが抜けてしまうと土壌の肥料としての役割が落ちてしまい、作物の収量の増加が見込めないということでした。つまり、このことから、私たちクリスチャンはこの世にあって土壌を潤す肥料としての役割を担い、世を潤す存在であることを学びました。
今回は、地の塩とセットなる『世の光』について語ります。主イエスが世の光について語った意味とはなにか、検証していきたいと思います。
光
『光』と訳されている言葉を旧約ではオールといい、ギリシャ語では、フォースと言います。
光の性質から寓意として、悲しみに対する喜びであるとか、敵意に対する祝福であるとか、また、死に対するいのちといった比喩として聖書に示されています。
神の臨在と愛を示す言葉として
一方で『光』という言葉は、
神の臨在と私たちへの愛を指すことばとして光が用いられています。
神の姿を表す言葉として
光がもつまばゆく輝く性質から、神の聖さや力強さを示しています。
さらに、神は光そのものであるとヨハネは表現します。
神は光の中に住まわれるお方であるとパウロは語ります。
世の光としてのキリスト
ヨハネはその福音書の中で、キリストご自身が、自分を「世の光」であると証言したことを記録しています。
ヨハネは、キリストご自身が、自分を「世の光」であると証言したことを記録しています。すなわち、キリストは神であることを自らが宣言し、さらに「光」を神のきよさという表現だけにとどめず、キリストにおける神の愛や、その愛が罪のやみの中にある人生に、救いによってもたらされる喜びとして述べています。
光の子ども
聖書は、『光』という言葉を神やイエス・キリストを示すだけでなく、キリスト者にも適用する言葉として紹介されています。
「光の子ども」ということばは、きわめてヘブライ的な表現ということですが、パウロはキリスト者に対して、この表現を繰り返し用いています。
私たちの光を輝かせる
こうして、光というものを見ていきますと、それは、神とイエス・キリストを示すものであるとともに、キリスト者に対して用いられていたことが明らかになります。
しかも、イエス・キリストは、キリスト者をマタイによる福音書5:14の中で『あなたがたは、世界の光です。』と語っています。
クリスチャンは世の光として輝く存在になりなさいと語られることがあります。本当にそうでしょうか。イエス・キリストは、善い行いをして輝く存在になりなさいとは言われませんでした。むしろ、何と言ったかといいますと、
マタ5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
私たちがもっている光を輝かせること、その光を輝かせることが、良い行いであるということです。善行を心がけることではなく、私たちのうちにある『光』を輝かせることが善行になるということです。
その光とは、言うまでもなく、聖霊であります。人間を、内側から道徳的にきよめ、私たちの霊性を形成する原動力は御霊です。
聖霊の働きは、私たちを「主の聖なる御霊」(イザ63:10)、「良きみたま」(ネヘ9:20)、「いつくしみ深い霊」(詩143:10)というように呼ばれますが、その名前は聖霊の倫理的、道徳的性格を示したものです。
聖にして、いつくしみ深く、かつ良い御霊は、神の民に悟りを与え(ネヘ9:20)るとともに、神のみこころを行うように教えます(詩143:10)。
また、主に対する恐れをよびおこします(イザ11:2‐5)。公正と義(イザ32:15以下)を示すことや、主への献身を勧める源泉ともなります(イザ44:3‐5)。
さらには新しい心を生み出し従順な心に向けさせ(エゼ36:26‐27)、罪を悔いる心や祈りを促す(ゼカ12:10)ことなども、みな御霊の働きによるものです。
このように旧約聖書には、聖霊こそが人を内的にきよくし、聖化を実現する力であることを明確に示している通り、聖霊の内住とその働きの発露が、私たちの光であることが明らかです。
私たちは、自分で自分を磨き輝く存在になるのではありません。私たちは、内住される聖霊の力によって輝く存在であることを忘れてはいけません。
光は隠せない
いにしえの信徒に隠遁者であるとか、修道士という人たちがいましたが、神との合一を目指して世俗を離れる人たちが存在しました。一見素晴らしい目的と思うこともあるのですが、キリストはそう教えませんでした。たしかに、イエス自身は弟子たちから離れ山に篭もり祈るという姿もありましたが、その活動の多くは世間に出て行き、人と関わるということに注力していたことです。
私たちによくある思考として、自分がキリストの御名を汚すものであると考え、人との接触をあえてしないということです。また、世の汚れから避けるために関わらないという姿勢があります。
そうした思考や行動は、一見信仰的というように見られるものですが、翻って、イエスの生涯を見ていくとどうでしょうか。
それは、イエスの御心から離れることになります。
イエスが私たちに求めていることは、『この世に出ていく』ことです。
私たちは主イエスを信じたときから、自らが輝く恒星のように変えられた存在となっています。自分では気が付かないものですが、神の栄光の光を輝かせています。その光をこの世にあらわしていくということは、自分を世の中に適合させることではなく、世の中にあって、神を信じ、聖霊が働かれるように生きることです。そうした姿勢の中に、周囲の人々は神を見るようになるのです。
私を磨き、整えることを狙いとするのではありません。もちろんそうした面も大切な側面ではありますが、私たちが重要視するのは、内面、その内面を形成する信仰、つまり聖霊であることを忘れてはいけません。
聖霊を悲しませたり、聖霊の輝きを失わせることから私たちは聖別していきましょう。世との聖別ではなく、自分を輝かせない原因である罪や行いからの聖別であることです。
こうして、御心がなるようにと生きる姿勢にへと変えられることで、人々は感銘を受け、何がこの人に働きそうさせているのか疑問に思い、私たちの光の正体がいかなるものなのかという好奇心へと変わります。
私たちの伝道の基礎は、私たちが信仰によって、聖霊の光に照らされるということなのです。
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