クリスチャンとは蔑称──危機の時代にあって Ⅰペテロ4章16節
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2023年2月19日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
4:16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。
εἰ δὲ ὡς Χριστιανός, μὴ αἰσχυνέσθω, δοξαζέτω δὲ τὸν θεὸν ἐν τῷ ὀνόματι τούτῳ.
はじめに
前回は、古代ローマ時代の教会の中に存在していた犯罪者の問題について取り上げていきました。誰もが罪人であると教えるキリスト教の教えに甘え、救いよりも、自身の保身のために教会に入るという人が存在したことで世間から教会がバッシングを浴びるというような事態が生じていたようです。こうしたことは由々しき問題であり、教会内に犯罪者があってはならないとペテロは語ります。
今回は、当時の教会に対する非難の声について取り上げていきます。
クリスチャンという名称は3回のみ
クリスチャンと聞くと、教会や世間で普通に使われる単語です。ブランドのクリスチャン・ディオールや、サッカー選手のクリスティアーノ・ロナウド等々、欧米の人にも普通につけられることから、悪いイメージはないです。この『クリスチャン』という呼び名ですが、この言葉はギリシャ語から来ています。油注がれた者をヘブル語でメシアと呼びますが、このメシアをギリシャ語に訳した言葉が『キリスト』であり、そのキリストに属する者をΧριστιανός(クリスティアノス)といいます。そのクリスティアノスからクリスチャンという呼び方に変わってきたということです。
皆さんは意外に思われる方も多いかと思いますが、クリスチャンという単語が使われているのは、新約聖書の中、たった3回しか使われていないのです。クリスチャンを新改訳聖書では「キリスト者」と訳してますが、日常的に聞く割には、聖書での使用頻度の少なさに驚く方もいるのではないかと思います。
ところで、クリスチャンという言葉が最初に使われたのは、アンテオケ教会です。
アンテオケ教会
アンテオケ教会は、先日発生したトルコ・シリア大地震の被災地にあるトルコのハタイ県アンタキヤ市にある教会です。
現在アンテオケ教会は、サン・ピエール教会という教会として残っています。ところで、サン・ピエールとはフランス語で聖ペテロという意味です。
この教会は洞窟であるそうです。使徒ペテロがアンテオケに到着(西暦 37 年頃)し、この洞窟で最初の説教を行ったそうです。
ところで、アンテオケは初代キリスト教史において重要な市となっています。エルサレム教会の最初の執事の一人はアンテオケの改宗者(使6:5)でした。また、アンテオケ教会は最初の異邦人教会となったという歴史があります。弟子のステパノの殉教によって、イスラエルから逃れたクリスチャンがアンテオケに集まり、旧ギリシャ植民地に住んでいたヘレニスト・ユダヤ人だけでなく、異邦人であったギリシヤ人にもキリスト教が宣教されて、キリスト教の世界宗教への道が開かれた教会としてその名を知られた教会です。
エルサレム教会から派遣されたバルナバは、パウロと共にこの教会で奉仕し、イエスの弟子たちはこの市で初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになりました。(使11:19‐26)パウロとバルナバは1年のあいだこのアンテオケ教会で御言葉を教えました。その時以来、クリスチャンはキリスト者と呼ばれるようになったのです。
蔑称としてのクリスチャン
クリスティアノスとは、直訳では「キリストに属する者」という意味になりますが、当時のローマ世界の人々から言わせると、「キリストの連中」であるとか「キリストの奴ら」という意味にとれる言葉だそうです。この名前は異教徒間で嘲笑される名であり、信者が通常自分たちを指す名前ではありませんでした。
そうした背景もあるのでしょう。新約聖書で3回しか使われていない理由というのも理解できます。しかも、前回15節で紹介した「殺人者」「泥棒」「悪人」よりも悪い意味で捉えられていたようです。
Ⅰペテロを見ていきますと、15節と16節の「人殺し」「盗人」「悪を行う者」「他人に干渉する者」に加え、「キリスト者」と16節にありますが、15節と16節に登場する人は、悪人と聖徒という解釈で読むのではなく、当時の人々の悪人のイメージがここに列記されていると考えるべきであるということです。当時の人々の認識では『クリスチャン』を極悪人であるとか、笑いものといった意味合いでとらえていたようです。
それまでは、クリスチャンたちは、「弟子たち」「兄弟たち」「聖徒たち」「この道の者たち」などといった自称していたのですが、彼らそういうした自称を使うだけでなく、対外的に『クリスチャン』を好んで用いるようになったという経緯があります。
ですからクリスチャンとはもともと恥を意味したわけですが、この世から選ばれ救われて、キリストに属する者となりました。馬鹿にされた呼び名を自称することによって、自分の名誉を捨てキリストにすべてを委ねることを象徴したクリスチャンという名を名誉として彼らは好んで用いるようになりました。
こうしてみていきますと、面白いことに、『クリスチャン』という言葉は、ペテロとルカしか用いていない言葉です。パウロは一度も『クリスチャン』という名を用いていないことです。パウロは、『クリスチャン』という言葉を嫌がったのか、あるいは信徒向けに書いたので、使う必要がなかったのかは定かではありませんが、ペテロに関して言えば、世間で笑われ嫌われる『クリスチャン』という呼称をあえて使ったということがより鮮明になるということがわかるかと思います。
クリスチャンとは恥である
ペテロの手紙をもう一度見ていきましょう。先ほど説明したように、『クリスチャン(キリスト者)』という呼ばれ方は世間一般から、後ろ指差されるであるとか、バッシングされるように言われるという背景を考えると、キリストの信仰を持つだけで苦しみを受けるわけです。
アンテオケ教会を見てください。現在は洞窟に立派な白い石で建てられていますが、後年カトリック教会によって建てられたようですが、もともとは人目をはばかるようにして、クリスチャンたちは集会を行っていたわけです。人目をはばかり、人を避け、隠れるようにして信仰を保っていた、いにしえの信徒たちの苦労が見えるようです。ですから、彼らは信仰は絶対的なものとして受け止めてはいましたが、周囲の反対や無理解、嘲笑を恥じていたことは当然あったことでしょう。
そうした中で、ペテロはクリスチャンたちに鼓舞します。世が我々を悪く言おうが、たとえ笑われようが、キリストの名を頂戴しているわけだから、恥ずかしがるなということです。新改訳を見ると最後に『あがめなさい』とありますから、勧告のように聞こえますが、直訳では、
むしろ、このクリスチャン(クリスティアノス)という蔑称によって、神が讃えられることができるようにとギリシャ語でペテロは祈りか、願いに読めます。
あがめなさいとは
ところで、16節を見ますと、新改訳で『あがめなさい』と訳された言葉は、δοξαζέτω(ドクサゼトー)と書かれています。原型は、ドクサゾー。意味は、栄光を与えるという意味ですが、詳しくは、価値を認めて重みを与えるという意味です。
聖書における 『神をあがめる』とは、『神の栄光の像を映す』 ことを意味します。つまり、私たちが神を信じることによって、キリストが私たちを通して働かれるクリスチャン人生を生きることによって、自分自身が神を尊敬することを言います。
誤解しないでいただきたいのは、私たちは惑星のような存在であるということです。光もしないのに、恒星のように自分で光ろうとすること、これは律法主義の生き方です。私たちは、自分で光る生き方ではありません。イエス・キリストという太陽のような存在の光を受けて輝く存在であるということです。ですから、努力してクリスチャンとしての名声や名誉を打ち立てる存在ではありません。誰も実際に神様に栄光を捧げることはできません。 なぜなら、神様だけが栄光を持っているからです。その光を受ける時、私たちは、汚名から栄光へと変えられることを私たちは学ばなければなりません。
ところで、多くのクリスチャンは自分はクリスチャンとして恥ずかしいという思いをいだき、キリストの御名を損なっていると思っている方が多いのかと思います。私たちは、常に罪や失敗という試みのなかに常におかれております。そうした罪や失敗にとらわれて、キリストの御名を汚さないようにと努力してます。それはそれで立派なことだと思いますが、もう一度自分は何者であるのかを思い出していただきたいのです。私たちは、神の栄光を反映させる存在であるということです。しかも、神の栄光を自分自身のうちに持っているとパウロはコリント人第二の手紙のなかで語っています。
この名のゆえに
私たちは、失敗を恐れて何もしないものであってはいけません。私たちは、チャレンジするものとして、神に召された者たちです。クリスチャンとは、汚名でありましたが、同時に『この名のゆえに』神をあがめるものとして変えられているということです。
信仰を証しすることを重要視して、信仰が対外的あるいはプレゼンスのようなもの────見せるものとして私たちは考えがちですが、そうではないです。ペテロが活躍した時代のクリスチャンたちは、クリスチャンという汚名を着せられましたが、その名を通して神は彼らにより祝福を与えられたということを歴史において証明しました。
ステパノの迫害以降、クリスチャンたちは、各地に散らされました。これをディアスポラと言いますが、普通はそこで教会は解散ということになりますが、そうはならなかった。逆に散らされた人々を通して、福音が前進したのです。彼らは心には大きな傷を負いましたが、その傷を癒やしたのは、イエス・キリストであり、救い主を語ることによって、心の傷を癒やしていきました。結果、ユダヤ人たちの間にリバイバルが起こり、そのリバイバルの嵐はヘレニスト、異邦人伝道へと開花していくことになりました。
イエス・キリストもはずかしめられた
主イエス・キリストもそうでした。キリストとは油注がれた者の意味があり、特別な存在であるのにもかかわらず、ユダヤ人やローマ人から愚か者という汚名を受けたお方でした。しかも、十字架を前にしてイエスは、嘲笑され、嘲られるということをされ、人間としての尊厳や神の子としてのプライドを奪われるという経験をしました。十字架は人格を奪うという目的がありまる。彼は人間ではなく、ゴミとして処分される可能性もありました。しかし、そうした極限の否定と汚名を着せられたのにも関わらず、イエス・キリストは、3日目の日曜日の朝に復活します。神の力によって、十字架という恥辱から、復活によって完全に名誉を回復しました。
十字架において、イエス・キリストという御名はとことん馬鹿にされ、貶められますが、神は復活の御業において、イエス・キリストの名を地上の権威にはるかにまさる名として高く上げました。
この十字架と復活の御業は、私たちクリスチャンにもなされることです。たとえ、私たちがキリストの名のゆえに汚名を受けたとしても、私たちはそこで潰えるものではありません。そこで終わるものでもありません。汚名を受けたとしても、そこから新たに復活としての名誉の回復が行われるのです。
神は、私たちが毀損されて終了する者として終わらせることを良しとなさいません。神は必ずや神の御名にかけて、私たちが恥で終わることがないようにするお方だということを知っていただきたいと思います。
最後にパウロの言葉を紹介して閉じたいと思います。