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ペテロ第一の手紙 2章22-23節     神に任せるということ

2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。


2:22 ὃς ἁμαρτίαν οὐκ ἐποίησεν οὐδὲ εὑρέθη δόλος ἐν τῷ στόματι αὐτοῦ:
2:23 ὃς λοιδορούμενος οὐκ ἀντελοιδόρει,πάσχων οὐκ ἠπείλει,
παρεδίδου δὲ τῷ κρίνοντι δικαίως:


罪とはなにか

22節の冒頭、『キリストは罪を犯したことがなく』とあります。その罪をハマルティアンと本文にありますが、ハマルティアです。ハマルティアとは的外れという意味ですが、厳密に言いますと、ターゲットを外した射手が勝利としての賞品を失うことを意味します。神学的には、罪は主の承認を逃す、すべての考えや行いに当てはまります。

 主の承認を得るためには、どうしたら良いのかといいますと、信仰を通して主の意志を識別し、主の力によって主のみ心に従うことを必要とします。つまり、主イエスに対する信仰です。イエス・キリストを自分の救い主として認め、自分の神として認めることが、神の承認を受けるための絶対条件です。主イエスに対する信仰は、「神のご意志」(セレマ)に生きることを意味します。

 ハマルティアは原罪とも訳される言葉ですが、その原罪とは、神の意志よりも自分の人生は自分で決定し、自分一人で生きていくというを選択することが原罪の意味するところで、アダムとエバはこの自分に対する自己決定権を獲得したのです。それは、今私たちが持っているのと同じものです。この結果どうなったのかといえば、私たちは、神の善の中に生きるのか、または私たちの痛み(悪、罪)を選択する自由というものがもたらされたのです。

アダムとエバは、神の意志よりも自己の意志を選んだとき、罪は人間の不従順の最初の行いを決定しました。このことは、創世記3:2-7の中に記されていますが、


創世記3:2-7
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 しばしば、園の中央にある木の実を食べたことによって、罪が入ってきたと言われますが、そうではなく、自由意志を持たされた人間は、食べてはならないとされていた木の実を食べようと選択した時点で罪を犯していたといえましょう。原罪とは、究極的には元々、神から自立するという選択を意味します。 「善と悪の知識の木」(ヘブル語:痛み)は、私たちが今日も持っているのと同じ選択、神の善を好むか、それとも自分で選択して生きる道(私たちの痛みの中で生きるか)に関係しています。後者(Self-goverment)は常に罪です。たとえ、それがどれほど「立派に」行われたとしてもです。対照的に、神は決して罪を犯さず、罪の作者でもありません。主は罪を許しますが、決して罪を犯せないお方です。

罪を犯したことのない方

 ペテロは、22節の言葉で、『その口に何の偽りも見いだされませんでした。』と記しました。寝食を分かたず、常にキリストと同行し、その言葉、行いの目撃者であった彼は、十字架の死の前の秘密裁判のときですら、その様子を目撃していました。キリストの口から漏れる言葉は、常に神の言葉であり、その行動は常に神のみこころの実現がなされていた瞬間であったわけです。公明正大にこの世に彼の正しさが明らかになればなるほど、この世の闇は深くなり、闇は光を覆い隠すように働きました。その闇は、十字架の死というかたちでもって、キリストに襲いかかってきたのです。しかし、そうした闇の力は、キリストの最後に至るまで、渾身の力をもって彼に臨んだわけですが、キリストは、十字架という苦しみ(πάσχων パスコー:受難)の中ですら、自分の不当な裁判を訴えるのでもなく、また、神として人類に報復することも可能であったわけですが、その苦しみに対して人間に脅迫するのでもなかったのです。

任せるということはなにか

 彼は、十字架の苦しみの中で何をしたのかといえば、『正しくさばかれる方にお任せになりました。』と23節で日本語で訳されていますが、δικαίως (ディカイオス:神の義)にκρίνω(クリノー:選ぶ)したということです。つまり、死の間際においても、彼は、罪とは真逆のことを選択したということです。罪とは、自己決定に自分の身を委ねることを意味しますが、キリストは、なぜ無罪であったのかといえば、神の決定に最後まで身を委ね続けたということが、『正しくさばかれる方にお任せになりました。』と訳されるπαρεδίδου δὲ τῷ κρίνοντι δικαίως(パレディドー デ トー クリオンティ ディカイオス)の意味するところです。

 ここで、παρεδίδου(パレディドー)という言葉が出てきます。παραδίδωμι(パラディドーミ)が原型ですが、そのもとの意味は、παρα(置き換える)+δίδωμι(与える・許可する)という言葉が合成されて、(別の)手に渡す、何かをするために何かを1つに提供するという意味になりました。派生して、裁かれ、非難され、罰せられ、罵倒され、苦しめられ、死刑に処せられる、不法に引き渡されるとも訳しますが、この言葉の意味は深いものがあると感じました。

 まずは、キリストの十字架の意味です。キリストは、人々を救う、つまり、自分のいのちを罪人である私たちのために差し出したことです。本来ならば、神の罰を受けるのは、私たちであります。ディカイオスなる神の義の前に、誰も罪はないとは言えません。アダムの時代から今日に至るまで、自分の欲望に生き、神のみこころは何であるのかを吟味もせず、やりたいこと、したいことを望み、その欲望のおもむくままに生きている人類が神の義の光のもとに照らされたとき、何の弁明ができるでしょうか。キリストを信じているからと言って、神の義の光に照らされたとき、私たちは、あのアダムとエバのように、『いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』とあるように、自分の隠し所を隠すような行為を始めるのです。キリストは、このような恥ずべきすべての人類のために、いのちを捨てた。これがパレディドーミの1つ目の意味です。

次いで、パレディドーミは、「パレード」という言葉の語源になります。パレードとは、祭事や祝い事・イベント時等に、見物人に見せるために屋外を行列で進むこと、またはその行列のことです。始まりは、神に供物を提供するための祭りの中で、山車や神輿で練り歩く様からパレードとされたようですが、元は、神への奉納を意味する言葉ともなります。

イエス・キリストの十字架への道もパレードでありました。イエス・キリスト自らが神の供物となるばかりか、ご自身が山車・神輿(十字架)を担ぎ、エルサレムの街を練り歩いたわけです。そのあとを群衆やローマの兵隊がパレードとなってゴルゴダの丘に向かっていった。まさにイエス・キリストの十字架というのは、パレードでありました。全人類が救われるための祭りのために用意された供物がイエス・キリストであったわけです。

 『正しくさばかれる方にお任せになりました。』と訳されたこの部分を日本語で見ると、分かりづらいのですが、英語では、『正しく裁く彼に彼自身を託しました。』NKJVでは直訳されますが、ギリシャ語のテキストを直訳すると、『キリストは、キリスト自身で選択した』とも訳せる言葉です。つまり、善悪の基準は、キリストご自身であり、キリストは、十字架に至るまで、最後まで、自分の選択の中に生きていたということです。彼は、肉体をとってはいましたが、人間としてのあり方の中に生きていなかった。ということが浮かび上がります。ディカイオスという神の本性のうちに死に至るまで生きていたということです。だからこそ、無罪であり続けたということです。人間性のうちにキリストは生きていなかったということがこのみことばから見えてきます。人間では考えられない神としてのあり方がこうした言葉からも見えてきます。これを直接人間に適用しようとすると難しいのですが、答えはあります。

 私たちは、何に委ねて生きるのかということです。キリストは、神であったゆえに、死に至るまで、自分の正当性を訴えるのでもなく、されるがままにしていましたが、それは、生というものが、この世だけのものではないということをキリストを教えてくれています。この世の生は限定的ですが、来世は永遠です。わたしたちが、キリストの復活によって明らかにされた永遠に目を向けて生きることで、この世の不条理、この世の苦しみというものからの解放の道がひらけてきます。

 その解放の道への導き手となるのが、わたしたちのうちにあるキリストの御霊です。キリストの御霊はわたしたちとともにあり(パラ)、言いようもないうめきをもってわたしたちをとりなしていてくださいます。その細き言葉をわたしたちは耳を澄ませて聞く。自分の決定に委ねるのではなく、聖書のお言葉、御霊の示す方向へとわたしたちは大きく舵を切ることです。結果は神が担ってくださることです。重荷をおいて神の側に向かいましょう。

Translation 聖書対訳

【NKJV】
1Pe
2:22 "Who committed no sin,Nor was deceit found in His mouth";
2:23 who, when He was reviled, did not revile in return; when He suffered, He did not threaten, but committed Himself to Him who judges righteously;

2:22「罪を犯さなかった者、口の中に偽りが見つからなかった者」。
2:23彼が罵倒されたとき、その見返りに罵倒しなかった者。 彼が苦しんだとき、彼は脅迫しませんでしたが、正しく裁く彼に彼自身を託しました。

【TEV】
1Pe
2:22 He committed no sin, and no one ever heard a lie come from his lips.
2:23 When he was insulted, he did not answer back with an insult; when he suffered, he did not threaten, but placed his hopes in God, the righteous Judge.

2:22彼は罪を犯さなかったし、彼のくちびるからうそが来るのを聞いた人は誰もいなかった。
2:23侮辱されたとき、彼は侮辱で返事をしなかった。 彼が苦しんだとき、彼は脅迫しませんでしたが、義なる裁判官である神に希望を置きました。

Lexicon レキシコン

ἐποίησεν ποιέω,v \{poy-eh'-o}
Person 3 Tense A Voice A Mood I Number S
1)作る

οὐδέ,c \{oo-deh'}
1) but not, neither, nor, not even

εὑρέθη εὑρίσκω、v \ {hyoo-ris'-ko}
Person 3 Tense A Voice P Mood I Number S
1)出くわす、ぶつかる 2 )見つけること、実践と経験によって見つけること 3)自分自身を見つける、獲得する 、取得、取得、調達

δόλος,n \{dol'-os}
Case N Number S Gender M
1) 〔人をだます〕狡猾さ、ずる賢さ、だますこと、偽り、詐欺、ペテン

στόματι στόμα、n \ {stom'-a}
Case D Number S Gender N
1)体の一部としての口:人間、動物、魚など1a)人間の魂の思考は口から言葉で発話されるため、「心」または「魂」と口は区別されます。 2)剣の端

λοιδορούμενος λοιδορέω,v \{loy-dor-eh'-o}
Tense P Voice P Mood P Case N Number S Gender M
1)非難し、手綱を引き、罵倒し、虐待を積み重ねる

ἀντελοιδόρει ἀντιλοιδορέω,v \{an-tee-loy-dor-eh'-o}
Person 3 Tense I Voice A Mood I Number S
1) お返しに悪口を言う, 抗議して反論する

ἠπείλει ἀπειλέω,v \{ap-i-leh'-o}
Person 3 Tense I Voice A Mood I Number S
1)脅迫、脅威

παρεδίδου παραδίδωμι、v \ {par-ad-id'-o-mee}
Person 3 Tense I Voice A Mood I Number S
1)(別の)手に渡す2)(自分の)力に譲るまたは使用する2a)維持、使用、世話、管理するために何かを1つに提供する2b)1つを保管するために提供する 裁かれ、非難され、罰せられ、罵倒され、苦しめられ、死刑に処せられる2c)不法に引き渡される2c1)裏切られて連れて行かれる2c2)教えられるものを引き渡す、成形される3)コミットする、称賛する4) 口頭で伝える4a)コマンド、儀式4b)ナレーションで伝える、報告する5)許可する5a)果物が許可するとき、つまり熟度が許可するとき5b)諦め、現れる

κρίνοντι κρίνω,v \{kree'-no}
Tense P Voice A Mood P Case D Number S Gender M
1)分離する、下に置く、選ぶ、選択する、選択する2)承認する、尊重する、好む3)意見を述べる、考える、考える、意見を述べる4)決定する、解決する、布告する5) 裁判官5a)善悪に関する意見を表明する5a1)判決を受ける、すなわち、自分の事件を調査し、判決を下すことができるという裁判に召喚される5b)判決を宣告する、5b1)その部分を演じる者の非難の対象となる 裁判官や仲裁人の日常生活の問題、または他人の行為や言葉についての判決を通過させる6)統治する、統治する6a)司法決定を下す権限を主宰する 判決7)戦士と戦闘員の一緒に争うこと7a)争うこと7b)法医学的な意味で7b1)法に行くこと、法に訴えること

δικαίως δικαίως、d \ {dik'-ah-yos}
1)義にかなった、神の法則を守る1a)広い意味で、正直で、義にかなった、善良で、神の命令を守る 、現実か想像かを問わず1a2)罪のない、誤りのない、罪のない1a3)考え方、感じ、行動が完全に神の意志に一致しているため、心や人生を正す必要がない彼を使用した1a3a)キリストのみ 真に1a4)神の承認または受け入れ1b)狭い意味で、それぞれの正当な理由と司法的な意味で、言葉で表現されているか、それらを扱う方法によって示されているかにかかわらず、他の人に公正な判断を下す

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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。