赦せないことについて 『仲間を赦さない家来のたとえ』
イエスのたとえ話シリーズ No.2 仲間を赦さない家来
2024年6月9日
マタイによる福音書18:21-35
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
はじめに
今回は、マタイによる福音書18章21節からの御言葉を紹介します。そこには、私たちが何度も赦すことが必要であるという重要かつ、当たり前とも思える教えが語られています。しかし、現実には、人を赦すことは容易なことではありません。私たちの心の中には、赦せない感情がしばしば存在します。それでは、赦すとは一体何なのでしょうか。主イエスの言葉を通じて、赦しの真実に迫り、その深い意味を理解していきましょう。それこそが、私たちが真の平和と解放を得る道です。では、一緒に御言葉を紐解いていきましょう。
莫大な借金を負ったしもべのたとえ
マタイによる福音書18章21-35節は、主イエスが弟子たちに「赦し」について教える箇所になります。この部分は、「天の国」の教えの一部で、神が御自身の力をもって教会をこの地上に建て上げるための交わりの理想像として、あるいは究極の目標としてお与えになったものです。
21節においてペテロがイエスに尋ねます。
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
それに対して、イエスは、こう答えます。
22節「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。当時のラビたちの教えは、3回までは隣人に罪の赦しを請うことができるとされましたから、ペテロは7度まで十分と考えたのでしょう。しかし、イエスの答えは「7度を70倍するまで」というものでした。
ここで、数字の7は完全数ですから、その70倍は実質的に「無限」の意味となります。無限に赦すこそが、イエス・キリストの説く真の赦しということになります。
この教えは、私たちが他人を赦すことの大切さを示しています。しかし、実際に人を赦すということは、大変な難問です。それがどういうことなのか、イエス・キリストがそう言っているからと言って、理解するにも実践に移すにも苦労します。しかし、イエスが教えられた「赦し」は神の愛の顕れであり、仲間を交わりの中で生かすための神の賜物であり、平和を作り出すための知恵であるということです。
ここで、23節からイエスは一つのたとえを取り上げます。2あらすじは次のようなものです。
王が、自分のしもべたちと清算を始めます。その中に一万タラントの借金があるしもべがいました。一万タラントとは、膨大な額で1タラントが今の日本円で約六千万円ですから、六千億円に相当します。この額は膨大で、日本人が一生かかって稼ぐ金額が2億円ということですから、3000年かけてようやく返済するような途方もない数字です。
当然のことながら、そのしもべは返済できるはずもありません。そうした巨額の数字を前にして王は、彼の全財産と家族を売るよう命じます。厳命というように受け取るかもしれませんが、それでも、6千億円という金額からすれば恩赦に近い命令でした。こうした命令に対し、しもべは王に懇願し、全額返済するための猶予を求めます。王は彼を哀れみ、借金を全て免除してあげます。
しかし、そのしもべは出て行き、自分に百デナリの借金がある同僚に出会います。百デナリとは、日当の百倍ですから、約100万円から200万円ぐらいの相場かと思います。彼はその同僚を捕まえ、借金を返すように要求します。六千億円からすれば、百デナリは微々たるものですが、我々の感覚からすれば、捻出するには相当な努力が必要とされる金額です。
当然のことながら、急に言われた同僚としては、彼に対して同じように返済の猶予を求めますが、しもべはそれを無視し、同僚を借金を返すまで牢に入れます。
このことを見た他のしもべたちは、王に全てを報告します。王はそのしもべを呼びつけ、彼が自分に対して示したあわれみを同僚に対して示さなかったことを非難します。そして、王は怒り、そのしもべを借金を全て返すまで獄吏に引き渡すという内容になります。
このたとえ話は、我々が神から受ける無限の赦しを、他人に対しても示すべきであるという教えを示していることです。
被害者としての私たち
私たちは、自分自身の罪を認識し、それがどれほど重大であるかを理解しています。そして、その罪のためにイエス・キリストが十字架にかかったという事実を受け入れています。実際はどうでしょうか。
他の人が自分に対して罪を犯したとき、それを赦すことは困難です。これは、人間の心の中に常に存在するわだかまりや不和の源泉となります。これが、18節のしもべの心です。
同樣に私たちも、他者が陰口など不適切な発言をしていたと知った場合、裏切られたという感情が強く働き、心に深い傷を負うことでしょう。キリストの愛を受けた自分は、そのことを赦そうと努めても、しこりが残り続ける。またその人に対する不信感が増し、その人とのコミュニケーションを避けようとするでしょう。このような他者との関係、あるいはクリスチャン同士の問題は常にあります。
私自身も、日々このような感情に苦しむことが多く、他の人の言動に失望し落胆することが多々あります。
また、極端な例ですが、仮に自分の親族が殺害されたり、自分が傷を負わされた、あるいは、家族が交通事故に遭いその生命が奪われたとしたら、その悲しみや痛みは計り知れず、生涯にわたって加害者を赦すことができず、重い苦しみを背負いつつ生き続けるという状況にもなり得ます。
現実の社会では、職場でのハラスメントや過度な労働要求など、日々の生活の中で私たちは様々な形の悩みや搾取に直面しています。これらの状況は私たちを被害者とし、許せない思いを抱えながらも生き続けるという厳しい現実を作り出しています。
例えば、過酷な労働環境に置かれた労働者は、自分の健康や幸せを犠牲にしながらも、生計を立てるために働かざるを得ない状況にあります。また、ハラスメントに苦しむ人々は、自分の声を上げることが困難であるため、内に秘めた苦しみとともに日々を過ごしています。
このような社会に生きる私たちにとって、喜びを感じること以上に、思い通りに事が進まない現実、許せない出来事に取り込まれているのが被害者としての私たちの姿です。
償わせたい願望
私たちが日々抱える感情や経験を、聖書の教えに照らして考えてみると、百デナリの同僚に対するしもべの感情がよく理解できます。神の視点から見れば、我々が直面する問題は微々たるものかもしれません。しかし、我々自身の立場から見れば、それは許し難い事態であり、何らかの形で償わせたい、または報復したいという強い思いが湧き上がるものです。
主人から全ての借金を免除されたしもべの行動は、私たちが日々直面する状況を鮮明に描き出しています。彼が同僚に貸していた百デナリは、現代の価値で約100万円に相当します。これは、私たちが感じるところの大きな金額で、しもべが同僚に貸していたことは理解できます。
私たちも同じように、借金の取り立てに遭ったとき、すぐに頭に浮かぶのは資金繰りの問題です。どうにかして金を集めなければならないという焦りが生じます。このしもべが金を貸していた同僚に出会ったとき、貸したお金のことを忘れることはありません。借りたものはすぐに忘れてしまうのに対し、貸したものは忘れない。これは私たちの心情と共通する部分です。
同僚に出会ったとき、彼はすぐに同僚の首を絞め、金を返せと迫ります。私たちはこの感情を理解できます。それは100万円という大きな金額です。それを許してしまうことは人間の感情としては難しいです。
このしもべは、自分の借金が免除されたにも関わらず、自分が貸したお金のことを忘れることはできません。これは、私たちも同じように感じることでしょう。しもべは、自分が多く赦されたのにもかかわらず、貸した相手に償わせようと考えました。
加害者としての私たち
今まで、被害者としての自分たちの姿を見てきましたが、神は私たちをどのように見ているかと言いますと
ここでは、私たち一人ひとりが想像を絶するほどの巨額の負債を抱えているという事実が示されています。具体的には、一人ひとりが六千億円という途方もない金額の負債を背負っているとされています。仮にこの六千億円が1年間で0.1%の金利が発生するとすれば、その利息だけでも年間6億円、1日あたりでは約164万円となります。
このような天文学的な金額の負債を、私たちは神の前で背負っているというのです。つまり、私たちはすでに破産状態であり、債権者である神の赦し無しには、この負債を返済することは到底不可能です。
私たちが負債者であるということは、債権者である神に対して加害者として認識されているということです。しかし、「私は神に対して何も悪いことをしていない」と思う人もいるでしょう。また、「神は存在しないから、神に対して加害することはできない」と主張する人もいるかもしれません。しかし、私たちは無意識のうちに神に対して加害を犯しているのです。
加害者としての事例
具体的な例を挙げてみましょう。例えば、私たちは自然環境を破壊する行為を通じて、神が創造した地球に対して加害を犯しています。私たちは森林を伐採し、海を汚染し、大気を汚染することで、神が私たちに与えた自然の恵みを破壊しています。
また、私たちは他人を傷つける言葉や行動を通じて、神が創造した他の人々に対して加害を犯しています。私たちは他人を侮辱し、差別し、排除することで、神が私たち一人ひとりに与えた尊厳と価値を侵害しています。
これらの行為は、私たちが神に対して加害を犯している具体的な例です。私たちは自分の行動が神に対する加害となっていることです。加害者であるということは、すなわち、負債であると言い換えることができます。聖書は私たちの原罪を負債として表現しています。
この負債を完済するためには、イエス・キリストのいのち、つまり彼の犠牲が必要となります。イエス・キリストは罪を犯したことのない神の独り子であり、その罪のない命、つまり負債のない命が私たちの負債の返済のための原資となるのです。イエス・キリストが私たちの代わりに支払いを行わなければ、私たちの負債は永遠に帳消しにはならないのです。
加害者としての意識の欠如
私たちは神への加害者であるという、神の視点は、私たちの信仰生活において非常に重要な要素です。私たちは、問題行動を起こさず、他人に迷惑をかけないように生き、社会に貢献していると自認していても、自分がどれほど罪深い存在であるかという事実に目を向ける必要があります。
特に、私たち日本人は、罪の概念を他者との関係性の中に位置づけがちです。つまり、周囲の空気を読み、そのバランスを乱さないように行動し、現状の秩序を保つことが、罪を犯さないという意識を形成しています。
しかし、この視点を補足すると、私たちが罪を犯さないと考えるその基準自体が、神の視点から見れば完全さや公正さに欠けている可能性があります。
私たちが人間社会の中で形成した秩序や規範は、神の完全なる愛や公正さとは必ずしも一致しないからです。したがって、天文学的な負債を負っているという認識は、私たちが罪深い存在であるという自覚を生み出します。
さらにいえば、キリストの十字架は、神の完全さと自己の不完全さとの間の隔たりを認識するために、最もわかりやすく私たちに提示された神のメッセージでもあることです。
かわいそうに思う
ところで、神は無限の負債を持った私たちに対して、無限に裁き、永遠に処罰しようとしたでしょうか。
いいえ、違います。このたとえ話の中でもそうですが、私たちがどれほど罪深くても、主なる神が私たちを深く憐れんでおられ、赦そうとしておられることを聖書は再三にわたって記しています。
私たちが借金をした場合、返済を求められ、全額返すまで追い詰められることが多いです。しかし、神は全く違います。神は私たちの全ての借金、つまり罪を免除してくださいます。
その動機は何かと言えば、『かわいそう』σπλαγχνισθεὶς:スプラグニセイスという深い思いからです。これは、はらわたからほとばしるような感情を表しています。神は私たちの置かれた状況をただ見るだけでなく、自分事として深く感じ、何とか救い出したいという強い感情を抱いておられます。ギリシャ語本文を見ますとそのスプラグニセイスは文頭に置かれていることを見ても強い感情が見て取れます。
σπλαγχνισθεὶς δὲ ὁ κύριος τοῦ δούλου ἐκείνου ἀπέλυσεν αὐτόν, καὶ τὸ δάνειον ἀφῆκεν αὐτῷ.
そして、その神の強い思いは、私たち一人ひとりにも向けられています。私たちがどれほど罪深くても、神は私たちを愛し、赦し、救い出してくださいます。それは、神の無尽蔵なる愛とあわれみの表れです。
この神の愛とあわれみを思い起こすとき、私たちは深い共感と感謝の念に包まれます。私たちは罪深い存在でありながら、神に愛され、赦され、救われるという奇跡にあずかっています。そのことを知る心から感謝できます。それは、私たちが信仰を通じて経験する最も深い感動の一つです。そして、それは私たちが神の愛をより深く理解し、その愛を他人にも分かち合う力を与えてくれます。
手放すことを求める神
今も赦せない思いが私たちのうちに強くあるかもしれません。しかし、神は、私たちを張り裂けそうな思いで赦しを与えてくださったことを思い出すことを始めてください。
赦すことは、大変に難しい課題です。しかし、神は赦すことの手がかりとして、神の私たちへの思いを知ることの大切さを知りました。そして、35節にある『赦す』という言葉からも、赦す秘訣について神の明確な教えを知ることができます。
35節の『赦す』ἀφῆτε:アフェーテ(原型アポセーミ)という言葉は、「許す」と訳されることが多いのですが、その本質の意味は「追い払う」という意味であり、罰したり、復讐することや懲罰を加えるという欲望を解放するという意味です。
ですから、赦しとは、悪意などを追い払うという神の命令に従う選択であり、罰したいという個人的な欲求を手放すことです。 これはまた、私たちが恨まれることや報復されないようにすることでもあるということです。
赦さないことの問題点
ところで「赦さない」ことの問題はどこにあるのでしょうか。赦さないことは、二つの点で偶像礼拝の罪を犯すことになるからです。
1.赦されないことは、神を「王座から締め出す」ことであること
赦さないということは、赦されない人を心の玉座に置くことになるからです。 赦さないことは、加害者に執着し、神の座を奪うことになります。 神ではなく、常に加害者に焦点が当てられると、赦せない人は神の恵みから切り離され、空虚で苦い人生を送ることになります。
2.復讐する権利を持っているのは神のみであること
赦すことは、神の力と自由を解き放ち、新たな霊的な挑戦へと私たちを導く道です。アポセーミとは、罰したいという自己中心的な願望を取り除き、同時に「手放し、神に任せる」ことを意味します。人を恨み、責める心は、私たちを悲しみに沈めるだけでなく、怒りを引き起こし、赦しの道を閉ざします。赦せない人は恨みを抱き続け、解決から逃げ続けます。それは、その人がまだ赦せない心(恨み)に捕らわれている証拠です。
そのような人は、自分が常に被害者であるという「被害者意識」に囚われ、自分の罪を他人のせいにし続け、自己変革という復活の道から逸れてしまいます。それこそ、サタンの道です。
しかし、私たちはいつまでこのような状態を続けるべきなのでしょうか。一生この思いを抱えて生き続けることが神の望むことでしょうか。答えは「否」です。私たちは、こうした束縛から解放され、心の中心に神を置く存在であり、喜びと賛美が溢れる存在に変わるべきです。
再び、主イエスの十字架と復活を思い起こしましょう。苦しみの中で死んだお方、そのお方を私たちは直視すべきです。そのお方こそが、私たちの問題の解決策を持っています。再び主イエスを見つめ、信じることで、心の玉座に主イエスを据える道を進みましょう。それこそが、私たちが直面するチャレンジを乗り越え、真の解放を得る道です。ハレルヤ!
マタイによる福音書6:14
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
適 用
自分を省みよう
私たちは神との対話の中で、自分自身の行動や思考を深く見つめ直し、自分が他人に対してどのような影響を与えているかを省みることが大事です。同時に自分が他人からどのような影響を受けているかを理解することも同様に重要です。これにより、自分の行動を改めることができます。赦すことを求めよう
私たちは他人を赦すことを積極的に実践することが求められます。これは、他人の過ちを許し、自分自身の心に平和をもたらすだけでなく、他人との関係を修復し、和解と平和を促進することにもつながります。赦せないことを祈りの中で、神に伝えることが大事です。神に信頼しよう
神は、私たちが神に信頼を深めることを求めています。神は深い愛をもって私たちが神に立ち返ることを望んでおられます。これにより、私たちは神の愛と赦しを他人にも分かち合うことができ、自分自身と他人との間に真の和解と平和をもたらすことができます。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。