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ダビデの嘆きの詩篇――重荷とは何か
2024年8月18日 礼拝
詩篇55章18-23節
指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール
55:18 主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。
55:19 神は聞き、彼らを悩まされる。昔から王座に着いている者をも。
セラ 彼らは改めず、彼らは神を恐れない。
55:20 彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。
55:21 彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。
55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
55:23 しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。血を流す者と欺く者どもは、おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
タイトル画像:TheoRivierenlaanによるPixabayからの画像
はじめに
私たちの人生には、時として予期せぬ困難や裏切りが訪れることがあります。友人だと思っていた人から背を向けられたり、懸命に築き上げてきたものが一瞬にして崩れ去ったりすることもあるでしょう。そんな時、私たちはどこに希望を見出せばよいのでしょうか。
今日、私たちが目を向けるのは、古代イスラエルの王ダビデの人生の一場面です。ダビデは、自分の息子アブシャロムによる反乱と、最も信頼していた側近アヒトフェルの裏切りによって、王宮から逃亡し、王位や生命も奪われかねない苦難に直面していました。しかし、そのような極限状態の中で、ダビデは驚くべき知恵と信仰を示しました。
詩篇55篇に記されたダビデの言葉は、3000年以上の時を超えて、今を生きる私たちに力強いメッセージを伝えています。特に、私たちが注目したいのは、22節の「あなたの重荷を主に委ねよ」という言葉です。この「重荷」という言葉には、実は深い意味が隠されているのです。
ダビデの経験と知恵から、私たちは人生の苦難をどう捉え、どう向き合えばよいのか、そして真の平安をどこに見出せるのか、学ぶことができます。今日は、この古代の知恵が、現代を生きる私たちにどのように適用できるのか、一緒に考えていきましょう。
どの口が言う
詩篇55:18の「主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。」というダビデの言葉を読むと、現代の読者の中には、ダビデの過去の行為に対して、どの口が言うかと手厳しい批判の目を向ける人もいるでしょう。確かに、ダビデの犯した罪は極めて重大で、取り返しのつかないものでした。
ダビデの行為を現代の倫理観や法律の観点から見ると、その深刻さがより明確になります。
不倫:既婚者であるバテ・シェバとの不適切な関係
権力の乱用:王としての地位を利用して、部下の妻を自分のものにした
殺人の教唆:バテ・シェバの夫ウリヤを戦場の最前線に送り、実質的に死を命じた
隠蔽工作:妊娠の事実を隠すために、ウリヤの死を利用した
これらの行為は、現代社会では重大な犯罪とみなされ、厳しい法的制裁の対象となるでしょう。政治的な観点からも、このような事実が明らかになれば、即座に辞任や刑事訴追につながる可能性が高いです。
実際、ダビデの側近であったアヒトフェルの行動は、現代的な視点からすれば理解できるものです。バテ・シェバの祖父であるアヒトフェルは、ダビデの行為の真相を知っており、それが単なる情事ではなく、計画的な殺人と隠蔽工作を含む重大な犯罪であったことを認識していたと考えられます。彼がアブシャロムの反乱に加担したのは、個人的な復讐心だけでなく、正義の実現を求めてのことだったかもしれません。
現代のメディアがこの事件を報道したら、おそらく大スキャンダルとして取り上げられ、ダビデの即時辞任を求める世論が形成されるでしょう。さらに、刑事訴追も避けられず、殺人教唆や権力乱用の罪で有罪判決を受け、長期の禁固刑に処される可能性も高いでしょう。
このような観点から見ると、アブシャロムの反乱を単なる息子の反逆ではなく、不正を行った指導者に対する正当な抵抗運動として捉える人々もいるかもしれません。現代の感覚で言えば、ダビデの行為は「クズ」と呼ばれても仕方のないほど非道徳的で違法なものだったと言えるでしょう。
正義を何に求めるか
詩篇55:18 「主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。私と争う者が多いから。」というダビデの言葉は、彼の過去の過ちにもかかわらず、聖書に残されています。神がこの言葉を抹消しなかったという事実は、深い意味を持っています。この箇所は、ダビデが神によって義とされ、一方でアブシャロムが不義とされたことを明確に示しています。
ここで私たちが認識すべき重要な点は、人間が考える正義と、神の正義との間には本質的な違いがあるということです。では、なぜダビデが選ばれ、アブシャロムが退けられたのでしょうか。その理由を以下に詳しく考察してみましょう。
第一に、悔い改めの姿勢の違いが挙げられます。ダビデは自らの罪を深く認識し、心からの悔い改めを示しました。詩篇51篇に記された彼の祈りは、真摯な悔恨の情と神への懺悔を表しています。ダビデは自身の行いを厳しく省み、神の赦しを切に求めました。対照的に、アブシャロムは自らの行動の不当性を認識せず、悔い改めの姿勢を見せることはありませんでした。
次に、神の主権に対する認識の違いがあります。ダビデは、自分の罪がもたらした苦難を神の正当な裁きとして受け入れました。彼は神の主権を認め、その裁きに従順な態度を示しました。一方、アブシャロムは自らの力で権力を奪取しようとし、神の計画や時を待つという姿勢を持ちませんでした。彼には神の主権に対する認識が欠如していたと言えるでしょう。
さらに、神の恵みに対する理解の深さも大きな違いでした。ダビデは全能なる神の主権を認識していたからこそ、神の赦しと恵みを深く理解し、それに全幅の信頼を置きました。彼は自分の義ではなく、神の憐れみに頼りました。これに対し、アブシャロムとその支持者たちは、自分たちの行動の正当性のみに焦点を当て、神の恵みの必要性自体を考慮に入れていませんでした。
最後に、神の選びと約束という観点から見ると、神はダビデを王として選び、彼の家系から救い主が来ることを約束されていました。ダビデの功績や罪にかかわらず、神はこの契約を守られました。これは人間の功績によるものではなく、神の一方的な選びと契約の誠実さを示すものです。
このように、ダビデとアブシャロムの違いは、単なる行動の正しさではなく、神との関係性の深さ、悔い改めの真摯さ、そして神の主権と恵みに対する理解の違いにあったと言えるでしょう。この事例は、私たちに神の正義と恵みの深さを教えるとともに、自己の内面を誠実に見つめ、謙虚に神の前に立つことの重要性を示していることです。
一面的な正義の罠を避ける
ダビデの行動の根底には、揺るぎない神への信頼がありました。対照的に、アブシャロムの行動は個人的な野心や復讐心に動機づけられていました。この対比は、私たちに深い洞察を提供します。
人々が陥りやすい誤りの一つは、アブシャロムが体現するような一面的な正義を絶対視することです。この見方は表面的には正当に映りますが、実際にはより複雑な現実を見落とす危険性をはらんでいます。
アブシャロムの主張は、確かに当時の人々の共感を得たかもしれません。彼は父ダビデの罪を指摘し、それを自らの行動の正当化に利用しました。現代社会においても、このような「正義の旗」を掲げて行動する人々への支持が見られることがあります。
しかし、ここで重要なのは、神の視点がはるかに広くで深いものだということです。神はダビデの罪を見ておられましたが、同時にアブシャロム自身の内面も見通しておられました。アブシャロムは自身を被害者として位置づけましたが、その心の奥底にある動機や感情—例えば、権力欲、復讐心、あるいは自己正当化の欲求—もまた、神の目には明らかだったのです。
さらに、多くの人々は自分自身の罪や欠点を省みることなく、他者の過ちを批判する傾向があります。これは、イエス・キリストが「自分の目にある梁を見ないで、兄弟の目にあるちりを取ろうとする」と警告した態度に通じるものです(マタイ7:3-5)。
真の正義は、単に他者の罪を指摘することではなく、自己の内面を正直に見つめ、神の前に謙虚に立つことから始まります。
ダビデは確かに重大な罪を犯しましたが、彼の偉大さは、その罪を認め、心から悔い改め、神の憐れみに身を委ねた点にあります。
一方、アブシャロムは自身の行動の正当性にのみ焦点を当て、自己の内面を省みることをしませんでした。彼の「正義」は、実際には個人的な野心や怒りに根ざしたものだったと考えられます。
この物語は、私たちに重要な教訓を与えてくれます。それは、表面的な正義や世論、現代的に言えばSNSなどの一時的な評価に惑わされることなく、自己の内面を誠実に見つめ、神の視点から物事を考えることの重要性です。
また、他者を裁く前に、まず自分自身の罪と向き合い、神の憐れみと赦しを求めることの大切さを教えてくれます。
真の義は、人間的な基準や一時的な世論、SNSなどの評価によってではなく、最終的には神の恵みと、それに対する私たちの謙虚な応答によって定められるのです。このことを理解することで、私たちは他者に対してより思いやりのある態度を持ち、同時に自己の霊的成長にも努めることができるでしょう。
この教訓は、現代社会において特に重要です。情報が瞬時に広がり、表面的な判断が容易になる中で、私たちは深い内省と神への信頼を忘れてはなりません。ダビデとアブシャロムの物語は、私たちに真の正義と謙虚さの道を示し、より深い信仰と理解へと導いてくれるのです。
長期的な視点に立つこと
神は人類の短期的な視野を超えた永遠の計画に基づいて行動され、その御心が確実に実現されるよう導かれます。ダビデは、この神の計画の本質を深く理解していた稀有な人物でした。
彼の人生は、サウル王の下で忠実に仕え、輝かしい功績を挙げながらも、やがて王の嫉妬を買い、生命の危機に直面するという劇的な展開を見せました。しかし、このような逆境の中にあっても、ダビデは神の守りと支えを実体験し、神が約束を忠実に守られる方であることを身をもって学びました。
聖書は、ダビデの生涯を通じて彼を「神の心にかなう人」として描いています。その理由は、彼が狭義の正義や一時的な成功、他者の評価にとらわれることなく、常に神の壮大な計画と契約に焦点を当て続けたことにあります。どれほどの逆境に見舞われ、行き詰まりを感じる状況に置かれても、ダビデは決して神を見失うことはありませんでした。
多くの人々は、一面的な正義感や自身の失敗、他者からの評価に囚われがちです。そのため、予期せぬ逆境に直面すると混乱し、自らの罪が取り返しのつかない結果を招いたと考え、絶望して諦めてしまうことがあります。
しかし、ダビデは異なる姿勢を貫きました。彼は数々の戦いと神との親密な対話を通じて、いかなる状況下にあっても「神の契約」は不変であるという深遠な真理を学び取りました。
確かに、バテ・シェバとの不倫やウリヤの謀殺という重大な過ちを犯したダビデにとって、自害という選択肢も考えられたかもしれません。しかし、彼はそのような短絡的な責任の取り方を選びませんでした。
多くの人であれば、自らの罪の重大さに圧倒され、死をもって償おうとしたり、絶え間ない批判から逃れるために自ら命を絶つことを選んだりするかもしれません。しかし、ダビデは完全に行き詰まった状況の中でも、神の契約を守り続けるという崇高な姿勢を貫きました。
どれほど苦しい状況に置かれても、ダビデは決して死を選ぶことはありませんでした。神から授かった生命を大切に守り抜くこと、それこそが彼の神への深い信頼と応答の表れでした。この姿勢は、神の契約を忍耐強く待ち望むダビデの揺るぎない信仰を象徴し、真に「神に委ねる」ことの意味を体現していたのです。
重荷を委ねること
詩篇55:22
あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
この聖句は、非常に有名な聖句としてクリスチャンであれば、よく知っていることばでしょう。ここで、「重荷」という言葉があります。重荷というと、自分の課題であるとか、自分が取り組まなければならないことというように思う人もいるかも知れません。
ヘブル語の原文に基づくと、ここでの「重荷」という言葉には、単なる困難や問題以上の意味が含まれています。この言葉は、より正確には「与えられたもの」や「割り当てられたもの」と理解することができます。
この解釈に基づくと、「重荷」と訳されたיְהָב(イェハブ)は、私たちが人生で経験する困難や試練を、バラバラな出来事ではなく、神によって慎重に割り当てられたものとして捉えることを示しています。
それは、単なる重荷ではなく、私たちの成長や信仰の深化のために与えられた人生の課題として理解することができます。
また、私たちが直面する困難には意味や目的があることを示しています。それは単に耐え忍ぶべきものではなく、そこから学び、成長する機会、目的を持った経験として捉えることができます。
与えられたものを委ねるという行為は、神への深い信頼を示すものです。これは、私たちの信仰が試され、強められる機会となります。人生のあらゆる側面、それは自分にとって良いことも悪いこと、すべてが神の主権下にあることを認識させます。
こうして、私たちに与えられた人生に対する責任と、それを神に委ねる必要性の両方を示しています。
このように、「重荷」を「与えられたもの」として理解することで、私たちは人生の困難や試練を新しい視点で見ることができます。それは単なる苦しみではなく、神の計画の一部として捉え直すことができるのです。
ダビデの信仰の深さは、アブシャロムの反乱という危機的状況下においても顕著に表れました。彼は、この極めて深刻な事態に直面しながらも、神の視点から状況を捉える能力を培っていました。この姿勢は、現代のクリスチャンにとっても模範となる重要な霊的訓練です。
深刻な苦難や悲劇的な出来事に遭遇した際、長期的な視点を持ち、それらを「神から与えられたもの」として受け止める態度は、単なる受動的な受容ではありません。むしろ、ダビデのこの姿勢は、後の時代にイエス・キリストが体現することになる受肉の神秘を、預言的に経験していたと解釈できるでしょう。
私たちクリスチャンにとって、試練は単なる苦難ではなく、イエス・キリストの十字架の真理を体験する機会となり得ます。しかし、ここで重要なのは、この体験が激しい苦しみと死で終わるものではないという点です。
イエス・キリストは確かに十字架上で壮絶な最期を遂げましたが、3日目に死からよみがえり、復活の栄光を示されました。この出来事は、キリスト教信仰の核心を成すものです。つまり、悲劇は喜びへと変容し、一見した終わりは新たな始まりとなる復活へと導かれるのです。
ダビデは、このキリスト教の根幹を成す信仰の真髄を、「יְהָב」(イェハブ)という「重荷」を意味するヘブル語で表現しています。この言葉の選択は、試練や苦難が単なる重荷ではなく、神の計画の中で重要な意味を持つものであることを示しています。
このようなダビデの信仰姿勢は、現代のクリスチャンに対して、苦難や試練を神の視点から捉え直す重要性を教えています。それは、目の前の困難に圧倒されるのではなく、その中に神の計画と恵みを見出し、最終的には復活と新生につながる希望を持ち続けることの大切さを示しているのです。
ルカによる福音書 9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
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