150円とみごとな石 マルコによる福音書12-13章
マルコによる福音書13章1節
イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
マルコによる福音書12章44節
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
| はじめに
今年のイースターは4月22日です。いよいよ来週から受難週に入ります。その受難週に先がけて、今回は、受難週の第3日目の出来事を取り上げていきたいと思います。
さて、今回の表題に違和感を持たれたら幸いです。
といいますのも、期待できない内容であると思うからです。
なぜ、期待できないのか。
ぜひとも価値のないものと思う前に目を通していただきたいと思います。
今回は、聖火曜日と呼ばれる受難週に起こったできごとについて取り上げていきますが、主イエスが、ユダヤ教指導者たちとの激しい論争のあとの、2レプタを捧げたやもめの記事と、神殿からの帰路につくときのエピソードを中心に神の前に価値のあるものについて見ていきたいと思います。
| エルサレム神殿に感嘆する
今回取り上げる、マルコ13章は「小黙示録」と呼ばれます。ヨハネによる黙示録に先がけて、イエス・キリストは、この世の終わりに起る様々な苦難と、この世の終わりのことを弟子たちに語りました。
世の終わりのことを神学的には、終末といいますが、この13章では、どのようなきっかけでイエス・キリストが語られたのかが1-2節に紹介されています。
聖火曜日に主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、 人々に教えを語りました。その後律法学者たちと激しく論争を繰り広げ、ついには律法学者たちは、『それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。』(マルコ12:34)とあるように精神的にもハードな一日であったようです。そうした慌ただしくも過酷な一日が終わり、夕刻になり、神殿を後にするときです。弟子の一人が
と主イエスに話しました。
たしかに、この弟子が話した内容は、それは率直な感想でした。ヘロデ大王が建立したユダヤ神殿の建設は、紀元前1世紀の大きな建設事業の1つでした。ヘロデ大王はこの建設を通じて彼の名を永遠のものにすることが、彼の目的であったと言われています。彼は公共事業、とりわけ建物の建設において優れ、各地に荘厳な宮殿を建設する、非ユダヤ系住民の神のための神殿を建設するという事業を行いました。ところが、その公共事業の資金はイスラエルのユダヤ人に重税を課すことで賄われたということです。
とりわけ、彼の事業の最高傑作はエルサレムの神殿でした。ユダの総督ゼルバベルによって建設された古い神殿は、壮麗なヘロデの神殿に取り換えられました。ヘロデの神殿の壁面の石材は、彫刻された大理石でした。神殿の柱、部屋、玄関などには、凝った彫刻が施されていたようです。
これら神殿を飾るものは、ユダヤ教信者の奉納品で飾られていました。総工費は数兆円にものぼると聞いたことがあります。莫大な国家予算と税金を投入したのは、ヘロデがユダヤ人の歓心を買うためであり、歓心を向けたのは、すべて自分のためであったのです。
夕日に映える大理石で覆われた神殿を見た弟子の一人は、感嘆のまなざしで、ヘロデの神殿の壮麗さに目を奪われました。エルサレムを、いや、この当時の世界を代表する建物であったエルサレム神殿は、現代の私たちの感覚からすれば、新宿の超高層ビル群や東京スカイツリーなどを見る以上の眼差しで見つめたのではないでしょうか。その視点は、価値の基準が、神への信仰にあることへの訓練を受けたにもかかわらず、彼らはまだ量と大きさで物事を判断していたのです。
| たった150円の価値
13章1節で、 弟子のひとりがイエスに「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」と言う直前のエピソードについてご紹介します。そこには、一人の寡婦(やもめ)が登場してきます。聖書では、そのやもめは貧しいとあります。やもめとは、夫を失った女性。未亡人を指します。女性の社会進出が可能な現代と異なる古代では、夫を失うということは、経済力を喪失するということに直結します。社会制度や保険制度のないこの時代にやもめが生きる手段というのは限りなく難しい現実がありました。
ここに記されている貧しいやもめは2レプタを献金したとあります。2レプタとは、現代のお金に換算しますと、約150円程度ということです。彼女の所持金はたったの150円。レプタ2枚は私たちからすれば、子供のお小遣い程度の微々たるものです。私たちにとっては、食パン一袋かカップラーメンが一つ購入できるかどうかの金額でしかありません。
しかし、この女性にしてみれば、明日、いや、この先手に入るかわからない貴重な全財産でありました。今日ささげなかったとしても、明日生活が破綻するかもしれないという、切羽詰まっていた中でもすべてを投げ売ったことを聖書は記しています。
ところが、主イエスは捧げる金額よりも、ささげる人の心を見られたということです。それを見た主イエスは、このやもめを称賛しましたが、先ほどやもめの献金のことを弟子たちは忘れ、ヘロデ大王が自分の見栄と、自分の誇示するために建設したヘロデ神殿の石と建物を賞賛したのです。
神殿の中で献金を募っていた彼らの前で、全財産を献金した貧しいやもめを称賛したイエスの姿を間近に見ながら、彼らは、イエスが称賛した意味を理解することはできませんでした。
確かに、当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が何十年もの歳月と膨大な税金を投入して、ヘロデの威信をかけて改築した壮麗なものでした。弟子たちが見た神殿は、このとき未完成の状態でした。完成はAD64年ということですから、完成にはあと30年ほどかかる未完成の状態であっても、ガリラヤというイスラエル辺境の田舎者の弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたといいますから、それはそれは素晴らしい建物には違いありません。とはいいましても、神のかたちとして創れているやもめが捧げた2レプタの献金よりも、ヘロデの見栄のために造られた石を称賛するという馬鹿げた話をするわけです。
正直、こうした弟子たちの会話は、私たちの雑談でよく話される話題かと思います。貧しい人を話題にするよりは、どこそこの美術館の収蔵品の価値や儲け話を話すことが、私たちの雑談の主題であったりするわけで、けっして弟子たちを愚か者あつかいにはできないでしょう。
話をもとに戻しますと、主イエスはこうした弟子たちの神殿を称賛する声に対して、こう言います。
と語りました。実際にこのことば通りに、紀元70年にローマ帝国によって徹底的に破壊され、神殿は今や岩のドームとなって異教徒の聖地となっていることは、皆の知るところです。
主イエスは、40年後に起るこの神殿の崩壊を預言したのですが、形あるものはみな崩れる、物に信頼を置くことは虚しいということばかりではありません。また、預言にのみ焦点を向けさせたのではないのです。
主は、私たちにここでなにを教えたかったのでしょうか。
| 神殿の目的
その第一は、主イエスはここで、神殿の持つ意味と目的を見ておられたということです。本来の神殿とは、神とご自分の民が出会う場所であり、神に直接礼拝することができるとされた場所でした。神とイスラエルの民を仲介する場所が神殿のあり方でした。ところがその目的が薄れ、礼拝する場所ではなくて、イスラエルの民の統合のシンボルと捉えるようになります。統合のシンボルですから当然、人が集う。人が集えば、富が集積する。こうして、神殿が商売の中心地となり、神よりも経済にとって変わっていったわけです。こうした状況を踏まえて、神殿を自分たちの支配の道具に変えてしまったのが当時の宗教界、経済界、王族、貴族といった人々でした。その代表が、ヘロデ大王、律法学者、パリサイ人たちということでした。
神に対する信仰ではなくて、自分の利得、権益、支配といった、本来は神に属するものを自分たちの手中に収めていくことが、神殿の目的となったのです。こうした愚行に対して、主イエスは怒り、前日の聖月曜日にヨハネによる福音書2章12-25節に記されている「宮きよめ」の行動に至らせたのです。
柔和であった主イエスが怒らなければならないほど、実に当時の神殿礼拝は、堕落していたのです。自分たちは正しく生贄を捧げている、律法に沿って怠りなく祭儀を遵守している。民を代表しているから、当然、信徒が捧げた献金を受けるのは当然というように考えていました。
つまり、心のない、血の通わない形式だけの形だけの形骸化した儀式に堕落していたということです。形骸化した儀式は礼拝でもなんでもありません。多くの人は、素晴らしい儀式や祭儀にばかり目を奪われますが、それは、壮麗な夕日に輝く神殿を目にして思わず発した弟子たちの姿となんら変わることはありません。私たちは、目を奪うもの、目を瞠るものに囚われ、本質を見抜くことができない状態になってはいないでしょうか。
そうした本質を見抜かない、表面的なことで右往左往する私たちの志向が、純粋に神を信じる貧しい者たちから献金を集め、精一杯を捧げた人々のお金を、神殿のため、礼拝のために用いると言いながら、自分たちの富のため、私腹のために使う動機になっていることを教えています。
私たちも、気をつけなければ、無価値だと思うことにこそ、神が価値を見出している可能性があるということに目を止めなければなりません。
イエスの前の献金箱に見すぼらしい女性が硬貨二枚をチャリン、チャリンと落としたとき、弟子たちは思ったでしょう。貧乏人の女か。たった二枚のレプタ銅貨しかだせないのだろうな。と思ったでしょう。一方、見た目も整い、金貨を献金した男性には、ペコペコしながら『献金ありがとうございます。』と手を揉んでお礼をしたかもしれません。
2レプタ、たった150円という微々たる金額であるがゆえに、誰からも注目されずに弟子たちの脳裏からもすぐに忘れ去られるようなやもめの信仰を主はご存知でした。
どの人よりも、自分を捧げることができる信仰を持っていると。そのことを主はけっして忘れません。
しかも、このやもめのしたことは全世界に語り継がれていき、今や教会のなくてはならない遺産として燦然と輝く行為として称賛されています。
ところが、何兆円もかけて建設された当時の世界の話題を席巻した壮麗な神殿は破壊され尽くされ、跡形もなくなることを伝えたイエスの言葉は、心からの信仰とはどういうことであるのかを今に伝えているのではないでしょうか。