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祈りに誤解はないか『願い続けた友人のたとえ』

イエスのたとえ話シリーズ No.13「願い続けた友人のたとえ」

2024年9月22日

ルカによる福音書11:5-10

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:PexelsによるPixabayからの画像


はじめに


人生には、しばしば予期せぬ試練や危急の状況が訪れます。そんな時、私たちはどこに助けを求めるべきでしょうか。古代の知恵は、現代の私たちにも見通す糸口を与えてくれます。ルカによる福音書11章5節から10節は、まさにこの普遍的な人間の経験に光を当てる興味深い一節です。

イエス・キリストが語ったこの教えは、一見単純な日常の風景から始まります。真夜中に友人の家を訪ねてパンを借りる、という設定です。現代では考えにくい状況のたとえですが、当時の人々には身近に感じる状況であったようです。そうした日常の一コマの中に、祈りの本質と神の応答についての深い真理が隠されています。

この聖書箇所は、単に宗教的な教えにとどまらず、人間関係や社会の相互扶助の精神、そして究極的には宇宙を司る力との関わり方について、私たちに考えさせる材料を提供しています。

今から、この数節に込められた多面的な意味を紐解いていきましょう。そこには、2000年以上の時を超えて、現代の私たちの生活にも直接響く知恵が詰まっているのです。困難に直面した時、どのように助けを求めるべきか、そしてその助けはどのように与えられるのか。これらの問いに対する答えの一端が、この古代の教えの中に見出せるかもしれません。

物 語


イエスは祈りについて教えるために、一つのたとえ話を語ります。

ある人が真夜中に友人の家を訪ね、旅人である別の友人をもてなすためのパンを三つ貸してほしいと頼みます。しかし、家の中の友人は既に戸締まりをし、家族全員が就寝しているため、起きて要求に応えることを躊躇います。

イエスは、たとえその人が友情のためだけでは起きないとしても、執拗に頼み続けるならば、最終的には起き上がって必要なものを与えるだろうと説明します。

この例えを通じて、イエスは祈りの重要性と方法について教えます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と語り、祈りにおける粘り強さと信仰の必要性を強調します。

最後に、イエスは誰であっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には門が開かれると約束します。これは、神が信仰を持って祈る者の祈りに必ず応えてくださることを教えるたとえになります。

背景にあるもの

信仰の基礎と実践で最も大切なものの一つである祈りについて、11章5節以下のたとえが語られました。このたとえは、イエスが祈りについて教えている大きな文脈の中に位置しています。この11章の冒頭では、弟子たちがイエスに祈り方を教えてほしいと頼んでいます。イエスはまず「主の祈り」として知られる模範的な祈りを教え、その後、5節以降で祈りの本質と態度について更に詳しく説明しています。

イエスの生涯は、祈りの生涯でした。一方弟子たちにとって祈りは「どうしても必要な、わずかなこと」(ルカ10:42)の一つであり、弟子の一人は、イエスが真剣に祈られる姿に感銘を受けていたのでしょう。祈りの重要性に気が付き、イエスに祈り方の模範を求めていたことの回答でした。

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」ルカによる福音書11章1節

当時のパレスチナ社会では、共同体の絆と相互扶助の精神が非常に重要でした。真夜中に友人を訪ねるという状況は、現代の私たちには奇妙に感じられるかもしれませんが、当時の文化においては、どんな状況であっても困っている友人を助けることは社会的な義務と考えられていたので、相手のことを顧みず、自分の要求を求めるのは当然と考えられていたようです。

また、パンは当時の主食であり、客をもてなす際に欠かせないものでした。客人をもてなせないことは、恥ずかしいこととされていました。したがって、イエスがこの例えを用いたのは、聴衆の日常生活に即した、理解しやすい状況を提示するためでした。

旧約時代からの変化

旧約聖書時代の人々の神との関係は、複雑で多面的なものでした。確かに、多くの人々が神を遠い存在、あるいは近づきがたい存在と感じていた面はありましたが、同時に親密さを求める気持ちも持ち合わせていました。この複雑な感情は、当時の人々が抱えていた神との関係についての疑問や不安の背景となっていたと考えられます。

ユダヤ教の伝統において、旧約聖書の時代、庶民の個人的な祈りに厳しい制限は設けられていませんでした。日常生活の中で、人々は神に対して自由に祈ることができ、この点では信仰の表現に大きな柔軟性がありました。しかし、公的な宗教活動や特定の聖なる場所での祈りに関しては、いくつかの重要な制限が存在していました。

例えば、エルサレムの神殿における祭儀や特定の儀式は、祭司たちが中心となって執り行われました。一般の人々が神殿の最も聖なる場所である至聖所に立ち入ることは厳しく禁じられていました。また、贖罪の儀式や特定の犠牲(いけにえ)の奉献は、祭司によって執り行われ、庶民がこれらの儀式に直接参加することはできませんでした。

さらに、神殿や会堂では、しばしば男性と女性の祈りの場所が分けられており、性別による空間の区分が存在しました。非ユダヤ人(異邦人)に対しては、神殿の特定の区域への立ち入りが制限されるなど、民族的な区分も設けられていました。

ユダヤ人であっても、律法で「不浄」とされる状態(例えば、特定の病気にかかっている場合や死体に触れた場合など)にある人は、一時的に宗教的な場での祈りや儀式への参加が制限されることがありました。これらの規定は、神の聖性を保護し、礼拝の秩序を維持するためのものでした。

このようなユダヤ教の祈りの体系を見ていくと、確かに神と人との間に明確な区分が存在していたことがわかります。人間が祈るという行為には、創造主と被造物という関係性が根底にあり、ある種の上下関係が存在していたと言えるでしょう。しかし、これは単なる階級的な上下関係というよりも、神の超越性と人間の有限性を認識した上での、適切な関係でもあったとされています。

この神と人間の関係において、祭司や大祭司は重要な役割を果たしていました。彼らは神と人間の間を取り持つ存在として機能し、特に公的な礼拝や儀式において中心的な役割を担っていました。

ルカによる福音書11章5節から10節の教えは、神と信徒との関係についての新しい理解を提示しており、これはユダヤ教の伝統的な見方とは異なる視点を示しています。イエスは、この箇所で神と人間の関係を友人の関係として描写しています。

また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
ルカによる福音書11章5-7節 新改訳聖書

さらに10節以降、踏み込んで父と子の関係に例えています。

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

ルカによる福音書11章11‐13節

このイエスのたとえは、ユダヤ教が長年維持してきた神と被造物という関係性の概念を大きく拡張するものです。ユダヤ教の伝統では、神は確かに慈悲深く、人間の祈りに耳を傾ける存在として理解されてきましたが、同時に超越的で、人間とは明確に区別される存在でもありました。
神殿制度や祭司の仲介的役割は、この神と人間の間の距離を具体的かつ象徴的に表現するものでした。

イエスの革新的な教え

イエスは、この伝統的な理解を大きく変革しました。神との関係を、友人関係や父子関係になぞらえて描写したのです。これにより、イエスは以下の点を強調しました。

  1. 神との親密で直接的な関係性

  2. 形式にとらわれない、自由で自発的な祈り

  3. いつでもどこでも可能な祈りの実践

イエスの教えは、こうした神と被造物の距離を大幅に縮めるものです。神を「友」として描いていることです。

5節において、『真夜中』に『君。パンを3つ貸してくれ。』と言うのです。真夜中ですよ。それも、その友人は7節でみんな寝ているし、すでに戸締まりもしているから、申し訳ないと言っているのです。

 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』ルカによる福音書11章7節

そもそも、真夜中にパンを所望するのは非常識もいいところです。しかし、あえてそれが許される友人関係がこのたとえの土台であります。

かつての旧約時代では、とても畏れ多くてこんな願いなど聞き入れてもらえるわけないよと依頼する方からやめておくというのが常識でありました。しかし、イエスは、神と人との関係は、無礼講が許されるまで近しい関係であることを強調しています。

しかも、イエスは信徒たちに、神との非常に親密で直接的な関係を持つことを奨励しています。しかも、この関係性は、単なる創造主と被造物の関係を超えて、愛情深い親子関係のように親密で個人的なものとして描かれています。

この見解の違いは、祈りの性質や方法にも大きな影響を与えます。ユダヤ教の伝統的な祈りは、しばしば定型化された形式や特定の時間、場所に結びついていましたが、イエスの教えは、より自由で自発的な、いつでもどこでも可能な祈りの形を示唆しています。これが、万人祭司として、聖霊を受ける身とされた私たちと神との関係性を象徴しているのです。

さらに、この新しい関係性の理解は、神の応答に対する期待にも変化をもたらします。イエスは、熱心に求め続ける人には必ず応答があるという、神の応答に対する強い確信を示しています。これは、神が人間の真摯な祈りに必ず応えるという、より積極的で直接的な関係性を示しています。

結論として、イエスの教えは、神と人間の関係性についての理解を深め、より親密で直接的なものとして再解釈しています。これは、ユダヤ教の伝統的な見方を完全に否定するというよりも、その中に存在していた親密性の要素をさらに発展させ、中心に据えたものと見ることができます。この新しい理解は、後のキリスト教の発展において中心的な役割を果たし、信仰生活や祈りの実践に大きな影響を与えることになりました。
イエスは、この例えを通じて、神が私たちの友人のように身近な存在であり、どんな時でも頼ることができる方だということを示そうとしたのです。

他者のために祈ること

ルカ
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。

イエスは弟子たちに向かって、身近な状況を例に挙げて説明を始めます。真夜中に友人の家を訪ねて、パンを三つ貸してほしいと頼む場面を描写します。この時間帯は、通常であれば誰もが安らかに休んでいる時間であり、他人に何かを頼むには最も不適切な時間帯です。

しかし、イエスはこの状況を通して深い教訓を伝えようとしています。訪ねてきた人は、自分のために一つ、思いがけず訪れた客のために一つ、そして予備として一つ、計三つのパンを求めています。この要求は、友情の絆が単に二者間だけでなく、他者にも及ぶことを示唆しています。

イエスはこの例え話を通して、祈りの本質について教えています。私たちが神に祈る時、自分のためだけでなく、他者のためにも祈るべきだということです。そして、真夜中という不適切な時間に頼みごとをする友人のように、私たちも躊躇せずに神に近づくべきだと教えています。

恥知らずな祈りの奨励

ルカ
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

イエスは、ギリシャ語で「アナイデイア」(恥知らず)という珍しい言葉を用いて、理想的な祈りの姿勢を描写しました。これは単なる粘り強さを超えた、ある種の大胆さを示唆しています。イエスが奨励したのは

  • 社会的な礼儀作法に縛られない率直さ

  • 神の応答を確信する信仰からくる大胆さ

  • 応答があるまで継続する持続性

「恥知らず」という言葉の選択は非常に意図的で意味深いものです。これは単なる粘り強さや執念深さを超えた、ある種の厚かましさや遠慮のなさを示唆しています。注釈では、この言葉が「抑制を知らない執拗さ」を正確に表現していると解説しています。

この解釈は、イエスが教えようとしていた祈りの態度に関して重要な示唆を与えています。つまり、神に対する祈りは、社会的な礼儀作法や遠慮に縛られるべきではないということです。むしろ、真の祈りは、切迫した必要性から生まれる率直さと、神の応答を確信する信仰から来る大胆さを持つべきだと教えているのです。

この例え話の中で、夜中に友人を起こして助けを求める人は、社会的な体面や友人への配慮よりも、自分の差し迫った必要を優先しています。

イエスはこの態度を肯定的に描いており、これが神との関係においても適用されるべきだと示しています。

さらに、この解釈は祈りの持続性についても語っています。「抑制を知らない」という表現は、祈りが一時的なものではなく、応答があるまで継続されるべきものであることを示しています。

この注釈は、イエスの教えが当時の社会規範に挑戦するような革新的なものであったことを浮き彫りにしています。社会的な礼儀や遠慮よりも、神との直接的で率直な関係を優先することを教えているのです。

このように、一見単純な例え話の中に、祈りの本質や神との関係性について深い教えが込められています。それは形式的な宗教性を超えて、生きた信仰の実践へと人々を導く教えなのです。

例え話の本質

ルカ
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』

真夜中に友人の家を訪ねてパンを借りようとする人に対する、家の中にいる人の反応を描いています。

ここでは、この例え話の解釈について重要な点を指摘しています。まず、この例え話の細部を厳密に解釈しようとすべきではないと述べています。むしろ、これは「まして〜ならば」という論法(à fortiori argument)を示するために意図的に構成されているとしています。

つまり、人間でさえこのように応答するかもしれないが、神はそうではないという対比を示しているのです。

この例え話は、祈りの力を強調しています。もし祈りが人間の無関心や焦りを乗り越えることができるならば、私たちが求める前から私たちの必要を知っておられる神に祈る時、まして効果があるはずだという論理です。

神の応答の確実性

また7節で注目すべきところは、この例え話が描く情景は、貧しい家庭の様子だということを示唆しています。両親と子どもたちが同じ部屋で寝ており、小さな子どもたち(ギリシャ語では指小辞が使われています)は同じベッドで眠っているという状況です。

興味深いのは、ここで使われている「ベッド」を意味する言葉についての説明です。この言葉は、他の福音書(マタイやマルコ)で「ベッド」と訳されている言葉とは異なっています。これがおそらくユダヤやその他の東方の家屋でよく見られる「ディワン」または高床式の寝台を指しているのではないかと推測しています。

「ディワン」(「ディバン」や「デワン」とも表記される)という言葉には複数の意味がありますが、ユダヤ人や中東の家庭では、通常、ある種の座席配置や家具を指します。ディワンは、背もたれや肘掛のないクッション付きの長椅子で、通常は壁に接して置かれます。家庭内で多目的に使える家具で、次のような用途があります。

日中は、家族やゲストがくつろぐための快適なスペースとして機能します。夜には、特にゲスト用やスペースが限られた小規模な家屋では、ベッドとして使用できます。中東やユダヤ人の家庭では、ディワンはメインのリビングエリアの中心的な存在であり、家族や友人たちが集まって会話や食事、くつろぎのひとときを楽しむ場所となっています。

現代では、特に西洋において、「デイベッド」という用語がディワンに似た家具を指すために使用されることがあります。しかし、伝統的なディワンは、家具としての機能的な用途を超えて文化的・社会的意義を持つことが多く、中東やユダヤ人の家庭では、おもてなしや共同生活の象徴として用いられてきました。
これらの寝台は、しばしば部屋の半分近くを占めるほど大きなものだったそうです。

イエスが語ったたとえ話は、日常生活の中で起こりうる状況を巧みに描写しています。この話の舞台は、真夜中の小さな家です。家族全員、特に小さな子どもたちが熟睡している中、突然の訪問者が現れるという設定です。この状況は、要求に応えることが極めて困難な状態を表しています。家主は友人の願いを聞き入れたい気持ちはありますが、寝ている子どもたちを起こすことへの躊躇いがあります。つまり、このたとえ話は、他のことに関わる余裕が全くない状態を象徴しているのです。

このたとえ話は、単なる人間関係の描写を超えて、神と人間との関係性について重要な教訓を提供しています。たとえ話の家主のように、神も様々な人々の祈りを聞き、絶え間なく働き続けています。しかし、人間とは異なり、神は「忙しさ」という概念に縛られません。神は、どんなに多くの要求があっても、決して手を休めることなく、常に私たちの声に耳を傾けています。さらに、神は単に聞くだけでなく、私たちに解決をもたらそうとする強い意志を持っています。

このたとえ話を通じて、イエスは私たちに知恵を与えています。人間でさえ困難な状況下で応答するのであれば、まして全能の神はより確実に応答するでしょう。このことは、私たちが祈りにおいて大胆であることを促しています。どんな状況下でも、躊躇うことなく神に近づくことができるのです。また、このたとえ話は、神の無限の能力を強調しています。神は人間のような制限や「忙しさ」に縛られることはありません。常に私たちの必要に耳を傾け、解決をもたらそうとする神の愛と配慮が、このたとえ話の中心にあるのです。

結果として、このたとえ話は神との関係における信頼と大胆さを促し、私たちの祈りの生活に新たな視点をもたらしてくれます。それは、形式的な宗教性を超えて、生きた信仰の実践へと私たちを導くものなのです。神は、私たちが想像する以上に、私たちの祈りに耳を傾け、応答する準備ができているということを、このたとえ話は力強く教えているのです。

No Limitな祈り

神との関係性において、私たちは往々にして自らを制限してしまいがちです。「この祈りは相応しくないのではないか」「どうせ聞き入れられないだろう」と、祈ることすら躊躇してしまう。しかし、イエスの教えはそれとは全く異なります。

イエスが私たちに求めているのは、率直で正直な気持ちで、恥じることなく何でも祈ることです。なぜなら、神は私たちにとって友であり、同時に父なのです。厳格で近寄りがたい存在ではなく、私たちの願いに耳を傾け、どんな状況でも助けようとしてくださる方なのです。

日本のクリスチャンの多くは、旧約聖書時代の信徒のように、神と一定の距離を置き、謙虚に全てを受け入れる姿勢を美徳としがちです。一見正しいように思えるこの態度も、実は神との真の関係を築く妨げになっているかもしれません。

神は私たちに対して、そのような畏まった関係を望んでいるわけではありません。むしろ、私たちのためにイエス・キリストを捧げ、聖霊を与えてくださったほどの深い愛を持っておられるのです。しかし、私たちはこの豊かな恵みに対し、「もうこれ以上は求めるまい」と遠慮してしまう人も少なくないでしょう。

しかし、神は私たちがさらに求めることを望んでおられるのです。私たちをより一層祝福したいという神の願いこそが、祈りの本質なのです。

だからこそ、私たちはもっと大胆に、自分の願いを神の前に注ぎ出すべきです。「これは無理だ」と自ら決めつけて隠してきた思いも、神の前に素直にさらけ出しましょう。それこそが、神が望む私たちとの真の交わりなのです。

このように、私たちの信仰生活において、神との関係をより深め、親密なものにしていくことが大切です。神は私たちの全てを受け入れ、理解し、そして導いてくださる存在なのです。この真理を心に刻み、日々の祈りと生活の中で実践していくことで、私たちの信仰はより豊かに、そして力強いものとなっていくでしょう。アーメン。