香りと匂い Ⅱコリント2:14-17
2023年11月19日 礼拝
Ⅱコリントへの手紙2:14-17
しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。2:17 私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。
14 Τῷ δὲ θεῷ χάρις τῷ πάντοτε θριαμβεύοντι ἡμᾶς ἐν τῷ Χριστῷ καὶ τὴν ὀσμὴν τῆς γνώσεως αὐτοῦ φανεροῦντι δι' ἡμῶν ἐν παντὶ τόπῳ·
15 ὅτι Χριστοῦ εὐωδία ἐσμὲν τῷ θεῷ ἐν τοῖς σῳζομένοις καὶ ἐν τοῖς ἀπολλυμένοις,
16 οἷς μὲν ὀσμὴ ἐκ θανάτου εἰς θάνατον, οἷς δὲ ὀσμὴ ἐκ ζωῆς εἰς ζωήν. καὶ πρὸς ταῦτα τίς ἱκανός;
17 οὐ γάρ ἐσμεν ὡς οἱ πολλοὶ καπηλεύοντες τὸν λόγον τοῦ θεοῦ, ἀλλ' ὡς ἐξ εἰλικρινείας, ἀλλ' ὡς ἐκ θεοῦ κατέναντι θεοῦ ἐν Χριστῷ λαλοῦμεν.
タイトル画像:MonikaによるPixabayからの画像
はじめに
前回は、パウロが、テトスを待ちきれずに、トロアスからマケドニアに向かった話を中心に語りました。信仰に篤いパウロであっても右往左往することがあるのかと思いましたが、今回は、テトスからの勝利の報告を受けて、「かおり」という言葉を読者に示しますが、その「かおり」とは一体何であるのかを中心に語っていきます。
前回のまとめ
前回、パウロがコリント教会を正常化させたい一心で「涙の手紙」をテトスに託したものの、そこで、信徒たちがどう反応したのかを知りたくて居ても立っても居られなくなったため、トロアスに向かい、さらに報せを早く知りたいということでマケドニアにまで足を伸ばしたというパウロの述懐を取り上げました。
ところが、14節に入りますと、突然『しかし、神に感謝します。』と唐突に感謝のことばが挿入されていることに驚かされます。それは、パウロ自身が著述したのではなく、テモテが口述筆記を行ったためであると考えられておりますが、いずれにしましても、テトスとの再会は勝利の知らせを携えてきた使者のようでした。コリント教会の戒規の執行は、朗報が飛び込んできたようなものでした。
凱旋パレード
『私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え』とありますが、この『勝利の行列』という言葉はθριαμβεύοντι(スリアンベウオー)です。
「勝利を公然と展示すること、勝利者を公に称揚すること」を意味します。
古代ローマにおいて 『勝利の行列 』(スリアンベウオー)は、勝利の証拠として捕虜を展示したそうです。 これにより、軍隊の凱旋行進を先導する者は高揚したといいます。
パウロは、古代の凱旋式になぞらえて、信仰による勝利というものがどういうものであるかを示しています。ここで、パウロ自身が、自分を神の軍隊の将軍として語っているのではありません。パウロは、自分自身も神の捕虜の一人という自覚を持っていました。
ですから、コリント教会の戒規執行は、パウロに反旗を翻した人たちが断罪されて教会から切り離されるということをもって勝利下ということではありません。パウロが凱旋式になぞらえたのは、コリント教会の総員が、神に立ち返り悔い改めたことが、神が勝利されたことであり、その結果、神に栄光を帰すことを高らかに賛美しているということです。
パウロにとって、クリスチャン全ては、あくまでも神の奴隷であって、キリストにおいて顕された神が勝利され、使徒も悔い改めた人の違いもなく、パウロに忠実な者であっても反抗的な者であっても、同じように神の勝利のパレードに加えられていることを言っているのです。
この箇所において伏線になっていることは、コリント教会が戒規執行です。教会内で人を裁くということは、痛く悲しいものであります。触れたくないことでありますし、できるなら裁きたくないというものであります。
しかし、コリント教会の人々は、「涙の手紙」を読み、パウロの真意を理解した上で、戒規の執行を行いました。パウロにとっても、コリント教会にとっても、また、公然とパウロを非難する人々にとってもつらいものでありました。しかし、その戒規の断行によって、キリストのからだである教会が損なわれることなく、一致をもって回復できたということは、どれだけパウロにとって喜びであったに違いありません。
普通ならば、こうしたことが行われると、教会が分裂し組織がくずれる、果てはパウロの責任問題となるということが通例ですが、そうならなかった。却って、コリントの教会がキリストにつながる者にふさわしい教会に生まれ変わったという結果になったのです。つまり、神の勝利でした。
二種類のかおり
このコリント教会の正常化は、ローマ帝国の凱旋パレードを意識してパウロが紹介してます。これは、明らかにローマ皇帝や将軍の荘厳な凱旋パレードです。パウロ自身は、ローマにはまだ行ったことがなく、凱旋パレードに遭遇したことがなかったものの、その荘厳さというものは、当時の帝国内の人々は知っていたことでしょう。勝利した軍隊が戦車に乗って通りを凱旋し、軍隊や捕虜、捕虜となった王族、戦利品を従えて行進する様子や、祭壇から立ち上り、燃えさかる香の煙を聞いていたことでしょう。
14節には『知識のかおり』とありますが、この『かおりὀσμή』とは、凱旋パレードで焚かれる香のことであって、凱旋パレードに欠かせないものでした。パウロはそこに、自分の働きとの類似点を見出したのです。
パウロは、勝利者のパレードの中で、言ってみれば香をたく人であるといいます。祈りであれ、賛美であれ、感謝であれ、説教であれ、それはパレードに焚かれる香のようなもので、勝利者(キリスト)が来たという知らせを、空中に漂わせながら周囲に伝えるものでしかないという認識でした。
オスメというかおり
パウロは14節で『キリストを知る知識のかおり』と新改訳では訳していますが、直訳では「キリストについての知識のかおり」ですから、私たちは、キリストの香りを放っているということになります。
ここでの『かおりὀσμή(オスメ)』は、Thayer's Greek Lexiconによれば
単に、「かおり」というものではなく、キリストの知識というものは、聞く人にとっては、「死が放つような臭い、すなわち、致命的な、害虫が放つような臭い」であるようです。
ですから、「かおり」と聞くと良いもののように聞こえてしまいますが、クリスチャンでない人にとって、キリストの福音、聖書の言葉は死をもたらす悪臭であるようです。
ユーオーディアというかおり
15節を見ていきますと、さきほど紹介したかおり(オスメ)とは違った単語が登場します。こちらのかおりはユーオーディアと書かれています。
ユーオーディア「かおり」という言葉の意味ですが、直訳すれば「良い香り」という意味です。英語ではフレグランス(芳香、甘い香り)という意味です。ですから、同じ『香り』と訳されたオスメとユーオーディアとは意味が異なってきます。オスメは臭気、ユーオーディアは芳香、甘い香りというように違いがあります。詳しく見ていきますと、オスメは人間から出てくる匂い、ユーオーディアは、キリストが発する香りというように考えられます。
芳香であるにも関わらず
パウロの心は、凱旋パレードの華々しさとともに、負けた側の痛みについても目を向けています。勝てば官軍、負ければ賊軍ということばもある通り、戦争に負ければ、敵地で恥をさらされるばかりか、そこで処刑ということにもなる場面でした。そこで焚かれる香は、一方では勝利の香りであるとともに、他方負けた者とっては弔いの香でもありました。
クリスチャンにとっては、キリストの香りというものは、ユーオーディア(芳香・フレグランス)でありますが、一方このユーオーディアというものは、滅ぶ人にとっては、弔いの香でもあります。
パウロは、凱旋式に焚かれる香の2つの意味を捉えていました。キリストの義と憐れみを信じる者は、救いの芳香(ユーオーディア)にあずかれますが、信じない者にとっては、弔いの香であり、凱旋式では、救われる者と滅びるものが明確になるという点で、ローマの凱旋式は、この世の終わりの時のさばきにもなぞらえています。
その香りは、福音への応答によって、救われる者には命を、滅びる者には死をもたらします。
使徒職、伝道者とは重い務めを担っています。この重い任務にふさわしい者は誰であるかとパウロは16節で信徒に問いていますが、自分たちこそがその務めにふさわしい者であることを示しています。
パウロは、自分の利益や名声のために神の言葉に混ぜ物をして提供する悪い働き人と異なり、彼は誠心誠意、神の言葉通り、キリストの代理として神の御前で語っているのです。つまり、神のさばきが厳粛である以上、神の民同士の問題であっても厳粛でなければならないという主張がここで込められていることです。
教会運営が人に忖度して、神が高められることよりも、教会の人数や献金の額にしばられ、罪に甘くしたならば『神のことばに混ぜ物をして売るようなこと』(17節)になります。
私たちの罪ゆえに、罪のない神の子イエス・キリストが十字架に架けられ死なれたという事実に向き合わなければ、罪に甘くなってしまいます。特に教会は厳粛さをもって、問題に取り組む必要があるということです。
真摯に問題に向かい合った結果どうであったか。それは、教会の悔い改めにつながり、ひいてはコリント教会の祝福に繋がっていきました。その時から教会がユーオーディアに包まれていくという奇跡が生まれたのです。
さいごに
使徒、伝道者として、すべての人の魂をキリストの裁きに委ねることに満足する道を選ぶならば、それは自分に甘くあってはならないことを知ります。自分の弱さに厳しくならなけばなりません。反省を込めて語るものですが、私自身もその重責に向かい合わなければならないと教えられます。パウロだけでなく、私たちは香を運ぶ者としての務めを果たし、『神の知識のかおり』を、自分に与えられた言葉を通して漂わせていかなければなりません。そのすべては主の栄光のためであり、主の義が教会に満ち溢れる場として機能するためでもあります。そのために、何が必要かといえば、聖霊が生きて働かれる、主に明け渡すことの重要さが問われているということです。