2022年クリスマス礼拝 『家畜小屋という希望』
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2022年12月25日 礼拝
ルカによる福音書
2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
はじめに
クリスマスおめでとうございます。
とは言いましても、心からおめでとうとは言いがたい状態にあるクリスマスでもあります。遠くウクライナでは戦争の終結が見通せず、多くの人が戦乱を避け、海外で不安なクリスマスを迎えるという現実があります。
乏しさと苦しみにあえぐ人々を想像するときに神の御心はどこにあるのかと問わざるをえないものです。今日は、あらためてクリスマスがどういう時に始まったのかをお伝えしたいと思います。
神の子 イエス・キリストの誕生
今や、私たちからすれば「神の子」といえば、それはイエス・キリストを指します。同時に聖書は、一貫して神の子をイエス・キリストとしているわけですが、最初のクリスマスのとき、当時どれだけの人がイエス・キリストを神の子として礼拝したかといいますと、マリヤとヨセフ、羊飼い、東方の博士たちぐらいに限られていました。
出産を断られる
皇帝アウグストから出た勅令によってベツレヘムにやってきたものの、泊まる宿すらなく、また、ベツレヘムの人々は、妊婦のマリヤを見て産湯につかせる場所すら提供もされなかったのです。ようやく産む場所として、紹介されたのは家畜小屋でした。
家畜小屋を紹介されたとしても、普通の人でしたらどうですか。こんなひどい仕打ちはないのではないかと憤慨するはずです。
ヨセフとマリヤは何軒も宿を探す、あるいは家を訪ね歩いたに違いありません。彼らは、ひたすら玄関に立ち寄っては、頭を下げ、身重の妻のために軒先でもいいから貸してくれませんかと彷徨ったと思うのです。
しかし、誰も宿を提供してくれる人がいなかったのです。日本人の感覚からするとかなり非情に映るものですが、これは、当時のユダヤ教の宗教観を理解しなければ、その謎を解くことができません。旧約聖書に次のような一節があります。
おそらく、ベツレヘムの人々は、出産に伴う汚れを忌避したということが考えられます。出産はめでたいことと、私たちは祝福をもってとらえるところ、当時のユダヤ人たちは、レビ記からの教えを額面通り受け取って、玄関先に立ち寄った二人を見て、すぐに帰れとばかり、戸を閉じたのではないでしょうか。
なぜ、マリヤの出産を拒まれたのでしょうか。
ユダヤ教では、汚れた人は、聖所からも(レビ7:20‐21)、イスラエルの民の交わりからも断たれてしまうのです。なぜ、そうした交わりから、断たれてしまうのかといえば、「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」とレビ記11章45節にあるとおり、神が聖であるから、身を聖めることが至上命令として重んじられていました。
こうして、人は、汚れから遠ざかることによって、神聖な奉仕へと聖別され、神の人として主に対し聖なる者とされたという背景がありました。
そうした宗教観からすると、家畜小屋ならばいいよと譲ってくれた人は、私たちの感覚からすれば、なんと不衛生で不潔な場所でとクレームを言いたいところですが、そうした宗教観からすれば、たとえ、家畜小屋であっても雨露をしのげる場所を提供してくれた人がいただけでも幸いであると、ヨセフとマリヤは感謝したことだと思うのです。
家畜小屋を提供した人は、そうしたユダヤ教の汚れという観念を乗り越えて、ヨセフとマリヤの窮状を知り、最大限努力した人であるとみなすことができるでしょう。
ここに、善きサマリア人のアガペーの愛の原型を家畜小屋に見ることができます。
禁忌(タブー)の中に生まれたイエス
こうした、ユダヤ教からすれば、ある意味、他所で出産をするということはタブーであったと想像されます。おそらく、ローマ皇帝の勅令下、猶予期間も設けられず、神の子の命令は絶対だという力による支配のもとにあって、マリヤのように臨月を迎え、旅の途中で子供を産み落とさなければならない運命に置かれた人も何人もいたことでしょう。
当時のエジプトや古代の文献を見ますと、なんと新生児の死亡率は90パーセントにも達していたようです。考古学の発掘調査で発見される多くの幼児の墓から見てもこの事情が理解されます。男子の初子の「贖いの儀式」は出産後30日がたつまでは執行されなかったということは、重要な意味を持っています。出産後1か月間を生き延びたなら、それから成長して成人になる可能性が大きかったそうです。
それは、家や助産婦がいた状態での数値ですから、イエス・キリストのように旅の途中で出産するとなると、自ずと人里離れた場所での出産となるでしょうから、子供はもとより母親も客死するということが予想されます。
マリヤとヨセフに限ってみれば、なんとか家畜小屋を見つることができたことは、幸運でありました。主の守りと言わざるをえない家畜小屋での出産でした。
しかし、当時の分娩においては、助産婦がつきそい出産を手伝ってくれたことが普通でしたが、彼らには助産婦を頼むことができなかったようです。イエスの母マリヤは、イエス出産の時そばに夫ヨセフがいたが、実は一人でイエスを分娩したと思われます(ルカ2:6‐7)。
喜ばれることのなかったイエスの誕生
ユダヤ教のもとにあって、イエスのお生まれはユダヤ人たちに喜ばれたことではありませんでした。
厳密に言いますと、それは、嫌われたのではありません。彼らの信仰上の理由から、人々から忌避されてしまったわけです。イエス・キリストは神の子であると御使いは言いますが、だれもそんな知らせを知る由もありません。ヨセフが住んでいたナザレでは、二人の間に婚前交渉の噂がたち、不貞なカップルとして、汚れた者たちとして蔑視されていたことでしょう。
おそらくは、ユダヤ教のコミュニティから断たれた状態でベツレヘムにやってきますが、そこでもユダヤ教の厚い壁に阻まれ、宿が提供されないという危機が訪れるわけです。
脱出の道を備えた神
孤立無援の二人に
いうなれば、イエス・キリストの誕生は、ありえないことの連続でした。しかも、コミュニティから切り離され、常に孤立無援でした。ヨセフとマリヤの両親の記事は聖書のどこにも見られないことから、積極的に彼らの支援に関わったようには思われません。
親族からも切り離され、常に絶体絶命の危機に等しい状況の中に置かれた出産であることを知ります。
二人の愛と絆
あるのは、ローマ皇帝の無慈悲な勅令だけでした。そういう中でも、ヨセフとマリヤは愛し合い、深い絆で結ばれていたことはイエスの誕生においてとても重要なことでした。二人の仲が切り離される危機もありましたが、御使いの介入によって二人の絆は守られました。そうした二人の愛の中で旅が始められていくのです。
十字架の道を歩む二人
ところで、ダビデの家系であったヨセフは、ある意味、受胎告知から出産にいたるまで、タブーと偏見のなかに追いやられた人を代表する人物です。しかし、彼は、ローマの情け容赦のない勅令に歯向かうこともせず、虐げられた中に置かれながらも、粛々と生きてきました。イエス・キリストの降誕の時に、彼の言葉は全くありませんが、世間や政治に翻弄されつつも、マリヤとともに御心を信じて歩む姿に私たち信仰者の模範があります。
まさに、ヨセフとマリヤの二人の姿は、イエス・キリストの十字架の道に等しいものがあります。
シェルターとしての家畜小屋
たとえ、状況が最悪であって、逃れられない局面に追い込まれてしまっても、そこで終わることはないという神の御心を抱いて旅を続けていった。結果どうであったのでしょうか。二人の前に、『家畜小屋』という希望が灯ったのです。旧約聖書の律法に生きていたヨセフとマリヤは、その律法をよく知っていました。ベツレヘムで出産をするということはどういうことになるのかという結末も知っていただろうと思います。
「おそらくは、どの家も断られれるに違いない。」という思いに駆られたこともあったかもしれません。もちろん、野宿で出産ということも考えて、用意もしてきたことでしょう。
しかし、神は、そうした宿命やタブーを乗り越えて、二人に家畜小屋という希望を与えました。儚いいのちであった嬰児イエス・キリストを守るための神の熱心と、信仰に立って歩むヨセフとマリヤ夫妻の救い主を出産させる使命と熱意が『家畜小屋』というシェルターに結実したのです。
主イエスの産声に耳を傾けよう
その『家畜小屋』という希望は、あらゆる法律や、ルール、人間関係等々がんじがらめになって身動きの取れない私たちへの福音でもあります。
神は御心ならば、かならずや突破口を開いてくれるお方であるということを今日知っていただきたいと思うのです。
パウロは、コリント人への手紙の中で、試練からの脱出を私たちに残してくれましたが、最初のクリスマスというのは、二人の若いカップルにとって困難と試練の連続でした。神の言葉に支えられながらも、無事に分娩を乗り越えた背景には、「耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくれた」神の力が働いたのです。
そうした危機を乗り越え、イエス・キリストを出産したマリヤはどれだけ安堵したかと思います。
また、宿を探すのに奔走し、汚い家畜小屋の中での慣れない分娩を必死に取り組んだヨセフの苦労は、幼子イエスの産声の中に、神の御心と救いの確かさというものを、苦悶や痛みと苦しさのなかに燦然と輝く光として覚えたに違いありません。
私たちもこのクリスマスに、イエス・キリストの産声に耳を傾けましょう。その産声こそが、神の熱心と私たちへの限りない愛、私たちへの配慮の声です。その声に癒され、進むこともできない、戻ることもできない、退路をふさがれ追い込まれている私たちへの希望の道を開くのです。
かならずや、私たちの前に家畜小屋という避け所は約束されていることを覚えて、イエスの産声を目指して新年をむかえようではありませんか。アーメン。