聖書の山シリーズ12 救いの石碑 エバル山
タイトル画像:ウィキメディア・コモンズ Mount ebal near nablus
2022年10月9日 礼拝
聖書箇所 ヨシュア記8章 申命記27章
申命記27:4 あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。
ヨシュア記
8:30 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。
8:31 それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。
8:32 その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。
8:33 全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
8:34 それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。
8:35 モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。
はじめに
聖書に登場する山々をテーマとしたシリーズ、その第12回目に私たちは「エバル山」という興味深い山に目を向けます。
エバル山 - この名前を聞いて、どのようなイメージが浮かびますか? 聖書の中で重要な役割を果たしながらも、あまり注目されることの少ないこの山には、実は深い意味と劇的な物語が隠されています。
古代イスラエルの地で、兄弟のように並び立つゲリジム山とエバル山。その対照的な性質は、祝福と呪いという聖書の重要なテーマを象徴しています。エバル山は特に、モーセの最後の指示と、ヨシュアによる壮大な儀式の舞台となった場所として知られています。
今回の旅では、このエバル山の歴史的、宗教的意義を掘り下げていきます。なぜこの山が選ばれたのか、そこで行われた儀式の詳細、そしてその出来事が現代の私たちにどのような意味を持つのか - これらの問いに迫りながら、聖書の世界をより深く理解する扉を開いていきましょう。
エバル山の物語を通じて、私たちは信仰、選択、そして神との契約について、新たな洞察を得ることができるかもしれません。さあ、この荒々しくも神聖な山の探索に、共に出発しましょう。
エバル山 古代イスラエルの契約と選択の象徴
エバル山は、聖書の地理において重要な位置を占める山です。この山は、現代のパレスチナ自治区にあるナブルス(Nablus)の町を挟んで、ゲリジム山と向かい合っています。エバル山はナブルスの北側に位置し、海抜938メートルに達します。一方、ゲリジム山はナブルスの南側に位置し、そのふもとにはサマリア博物館(Samaritan Museum)があります。これらの現代の地理的要素は、古代の聖なる場所が現代の都市景観とどのように融合しているかを示す興味深い例となっています。
シェケムの谷からエバル山の頂上までは427メートルの高さがあり、その存在感は今も昔も変わらず、周囲の景観に大きな影響を与えています。古代においては、エバル山とゲリジム山の間を東西に走る道路があり、その東の入り口に当たる場所に古代都市シェケムが位置していました。現在のナブルスは、このシェケムの場所にほぼ重なっており、歴史の連続性を感じさせます。
モーセは、イスラエルの民にカナンの地への入植を指示する際、この2つの山を象徴的に用いました。彼の指示は、イスラエルの民の未来と神との契約を具体化するものでした。モーセは、ゲリジム山に祝福を、エバル山にのろいを置くよう命じました(申命記11章29節)。これは、神の律法に従うことの重要性と、その選択がもたらす結果を視覚的に示すものでした。
さらに、モーセはエバル山に特別な役割を与えました。彼は、エバル山に石灰を塗った石を立て、その上に主の教えの言葉を記すよう指示しました(申命記27章1-8節)。これは、神の契約を物理的に記録し、後世に伝えるための重要な行為でした。
モーセの指示はさらに続き、イスラエルの12部族を二分し、祝福のためにゲリジム山に、のろいのためにエバル山に立たせるよう命じました(申命記27章11-13節)。この儀式は、神の律法に従うか否かの選択と、その結果を劇的に示すものでした。
これらの指示は、ヨシュアの時代に実行に移されました。アイの町を攻略した後、ヨシュアはモーセの命じた通りにこれらの儀式を執り行いました。この出来事は、イスラエルの民が約束の地に入ったことを象徴的に示すとともに、神との契約を更新する重要な瞬間となりました。
エバル山は単なる地理的特徴ではなく、イスラエルの歴史と信仰の中で深い意味を持つ場所となりました。それは、神の律法、選択の重要性、そして契約の更新という聖書の中心的なテーマを具現化する舞台となったのです。今日でも、エバル山はこれらの出来事の記憶を留め、信仰者たちに神との関係の重要性を思い起こさせる場所として存在し続けています。現代のナブルスの町を訪れる人々は、エバル山とゲリジム山の間に立ち、古代の信仰と現代の生活が交差する独特の景観を体験することができるのです。
エバル山の位置
エバル山の南、Nablusの町を挟んで、反対側のSamaritan Museumの辺りが、ゲリジム山になります。
エバル山 アイの征服とイスラエルの信仰の試練
エバル山の物語は、アイの町の征服と深く結びついています。この出来事は、イスラエルの民の信仰と従順さの重要性を劇的に示す歴史的な瞬間となりました。
アイは、ベテルの東に位置するカナン人の町で、ウィリアム・オルブライトが「ふたごの町」と呼んだように、ベテルと密接な関係にありました。両町は間にある山によってつながれ、一続きの地域を形成していたと考えられています。ヨシュア記によると、アイの人口は12,000人に達し、当時としては決して小さな町ではありませんでした。
ヨシュアによるカナン征服の過程で、アイはエリコに次ぐ重要な標的となりました。しかし、エリコでの圧倒的な勝利の後、イスラエルの民に生じた思い上がりが、最初のアイ攻略の失敗につながります。この失敗の背後には、アカンという人物の罪がありました。アカンは神の命令に反して、聖絶すべき戦利品の一部を自分のものとしたのです。
この罪の結果、神の怒りがイスラエルに向けられ、アイ攻略は失敗に終わりました。ヨシュアは深い失意の中で神に助けを求め、アカンの罪が明らかになると、神の命令に従ってアカンとその家族、所有物すべてをアコルの谷で処刑しました。この厳しい処置は、神が罪に対して妥協しないことを示す象徴的な出来事となりました。
アカンの罪を取り除いた後、イスラエルは再びアイ攻略に挑みます。今回、神は「戦う民全部」でアイに向かうよう命じました。これは前回の3,000人とは対照的で、イスラエルの軍全体(約20万人と推測される)の参加を意味しました。この出来事は、神の戦いには民全体の一致した参加が必要であることを教えています。
現代の文脈では、この「神の戦い」は福音宣教に置き換えることができます。アイの征服の教訓は、福音宣教が特定の人々だけの責任ではなく、信仰共同体全体の課題であることを示唆しています。救われた者すべてが、何らかの形で福音宣教に参加する責任があるというメッセージは、今日の教会にも適用できる重要な教えです。
アイの征服後、ヨシュアはエバル山で重要な儀式を行いました。この儀式は、モーセの指示に従って行われ、神の律法を石に刻み、祭壇を築いて全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げました。さらに、イスラエルの12部族を二分し、祝福のためにゲリジム山に、のろいのためにエバル山に立たせました。
この一連の出来事は、エバル山が単なる地理的な場所ではなく、イスラエルの信仰と歴史の重要な舞台であったことを示しています。アイの征服とそれに続くエバル山での儀式は、神との契約の更新、律法への従順、そして共同体全体の参加の重要性を強調しています。
エバル山の物語は、信仰の試練、悔い改め、そして神との関係の更新という普遍的なテーマを含んでいます。それは、古代イスラエルの歴史的な出来事でありながら、現代の信仰者にも深いインスピレーションを与え続けているのです。
エバル山 契約の更新と神の民としての出発点
モーセの最後の指示は、イスラエルの民がカナンの地に入る際の重要な儀式を定めたものでした。この指示は、エバル山を舞台とした象徴的かつ実践的な行為を通じて、イスラエルと神との契約を更新し、彼らの新しい始まりを印すものでした。
モーセは、ヨルダン川を渡った直後にエバル山で行うべき具体的な行動を詳細に指示しました。
石碑の建立
大きな石を立て、石灰を塗ること。これらの石には、神の教えのすべての言葉を明確に記すよう命じられました。この行為は、神の律法を物理的に保存し、後の世代に伝えるための重要な手段でした。祭壇の築造
自然のままの石で祭壇を築くこと。この祭壇は、人工的な加工を加えない石で作ることが強調されており、神との関係における純粋さと自然さを象徴しています。供え物の奉献
全焼のいけにえと和解のいけにえを捧げること。これらの儀式は、神への感謝と献身、そして神との和解を表現するものでした。喜びの共有
和解のいけにえを食べ、神の前で喜ぶこと。これは、神との契約関係における喜びと感謝を共同体全体で分かち合う機会となりました。律法の記録
石碑に神の教えのすべての言葉を明確に記すこと。これは、イスラエルの民が常に神の律法を目の前に置き、それに従って生きることの重要性を強調しています。
さらに、モーセは12部族を二つのグループに分け、祝福とのろいの宣言のために配置しました。
ゲリジム山(祝福)
シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンエバル山(のろい)
ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ
この配置は、神の律法に従うことの重要性と、それに伴う結果(祝福とのろい)を視覚的かつ劇的に示すものでした。
これらの指示は、イスラエルが約束の地に入る際の重要な通過儀礼として機能しました。エバル山での儀式は、以下の重要な意味を持っていました。
契約の更新
神とイスラエルとの契約関係を新たな土地で再確認すること。律法の中心性
神の教えを物理的に記録し、それを共同体の中心に置くこと。共同体の一体性
全部族が参加することで、イスラエルの一体性を強調すること。選択の重要性
祝福とのろいの対比を通じて、神の道に従う選択の重要性を示すこと。新しい始まり
約束の地での生活の開始を神への献身と共に印すこと。
エバル山でのこれらの行為は、イスラエルの民が神の民として、新しい土地での生活を始める上で極めて重要な出発点となりました。それは単なる地理的な移動ではなく、霊的、道徳的、そして社会的な新しい章の始まりを象徴していたのです。
この出来事は、信仰共同体における伝統の重要性、神との契約の更新、そして新しい始まりにおける決意と献身の必要性を現代の信仰者に思い起こさせます。エバル山の物語は、私たちに信仰の旅路における重要な転換点を認識し、神との関係を意識的に更新することの価値を教えているのです。
神の言葉と新しい契約の象徴
ヨシュアがイスラエルの民をヨルダン川の向こう側、約束の地へと導いた後の出来事は、単なる軍事的勝利の記念以上の深い意味を持っていました。エリコとアイという主要なカナンの町々を征服した後、ヨシュアは神の命令に従い、エバル山に石灰を塗った石碑を建立しました。この行為は、イスラエルの国家としてのアイデンティティと、神との関係の本質を象徴的に表現する重要な瞬間となりました。
この石碑は、単なる戦勝記念碑ではありませんでした。それは「御言葉に従う」ことへの強力な象徴でした。エバル山がイスラエルの地理的中心に位置していることは偶然ではありません。この立地は、神の言葉がイスラエルの生活と存在の中心であるべきことを物理的に表現しています。つまり、イスラエルという国の核心が主の御言葉にあることを示しているのです。
この行為は、イスラエルという国が血縁や民族的つながりではなく、「御言葉」によって成立していることを明確に示しています。イスラエルの一体性と存在意義は、共通の祖先や文化的背景ではなく、神の言葉への従順と信仰にあるのです。これは、国家形成の本質が何であるかを鮮明に物語っています。
さらに、エバル山での出来事は、旧約時代のイスラエルと新約時代のクリスチャンの生き方の違いを予表しています。旧約時代のイスラエル人は、石に刻まれた十戒に従うことを求められました。それに対して、新約時代に生きるクリスチャンは、心の板に神の言葉が刻まれている存在となります。
パウロが第二コリント書3章3節で述べているように、新約の信者は「生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれた」存在となります。これは、神との関係がより内面化され、個人的なものになったことを示しています。イエス・キリストの十字架と復活を経て、聖霊が信者に注がれるようになり、神の言葉が心に直接与えられるようになりました。
この変化は、信仰の実践がより自発的で、心からのものになったことを意味します。旧約時代のイスラエル人が外部の石碑を見て神の言葉を守ることを求められたのに対し、新約時代の信者は内面に刻まれた神の言葉に従って生きることができるようになりました。
エバル山での儀式は、また、神との契約を定期的に更新することの重要性を教えています。同様に、現代の信者も、自身の信仰と神との関係を常に新たにする必要があることを示しています。
結論として、エバル山での出来事は、イスラエルの国家としての本質を示すと同時に、神と人との関係の発展を予表するものでした。それは、外的な法から内面化された信仰への移行、そして聖霊による新しい生き方への道を指し示しています。現代の信者にとって、これは神の言葉を心に刻み、聖霊の導きに従って生きることの重要性を再確認する機会となります。
エバル山の物語は、信仰の本質が外的な儀式や規則ではなく、神との生きた関係にあることを私たちに思い起こさせます。それは、私たちの信仰生活の中心に神の言葉を置き、聖霊の導きに従って日々を歩むことの重要性を教えています。この古代の出来事は、現代の信仰者にとっても、神との関係を深め、信仰を日々新たにするための貴重な教訓となっているのです。
行うことではなく信仰によって生きる
エバル山の物語は、神との関係における重要な転換点を象徴しています。この変化は、旧約時代から新約時代への移行を反映し、信仰の本質と実践に深い影響を与えました。
旧約時代においては、信仰の実践は主に外的な規則の遵守に重点が置かれていました。イスラエルの民は、神の言葉を教えられ、それを規則として守ることが求められました。しかし、この方法には限界がありました。人々は時として、心に邪悪な思いを抱きながらも、表面的に善行を行うという矛盾した状態に陥ることがありました。イエス・キリストが「偽善者」と呼んだのは、まさにこのような外面的な正しさと内面的な現実の乖離を指していたのです。
ユダヤ教の伝統的な解釈では、外面的に規則を守ることが正しさの基準とされていました。しかし、これは心と行動の分裂を引き起こし、真の信仰の本質から離れる危険性をはらんでいました。
新約時代に入り、イエス・キリストの到来と聖霊の付与によって、この状況は大きく変化しました。新約の信仰者は、聖霊の働きによって内面から変えられ、自発的に善い行いをするようになります。これは、外的な規則の強制ではなく、内なる変革による行動の変化を意味します。
この変化は、信仰の実践における根本的な転換を示しています。心ならずも善い行いをするという不自然なあり方から、心から湧き出る自発的な善行へと変わったのです。これこそが、新約時代と旧約時代の最も顕著な違いの一つと言えるでしょう。
しかし、この変化の中にあっても、神との関係の本質は変わっていません。それは依然として、神の言葉に基づいているのです。神との関係は、漠然とした感覚や個人的な経験、あるいは人間の知識だけに基づくものではありません。むしろ、神が語られたことを信頼し、そのみことばに従って歩むことによって成り立つのです。
箴言7章1-3節は、この真理を美しく表現しています。「わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」この言葉は、神のみことばを内面化し、日常生活の中で実践することの重要性を強調しています。
エバル山での石碑建立は、この真理の物理的な表現でした。それは、神の言葉が共同体の中心にあるべきことを示していました。新約時代において、この石碑は象徴的に私たちの心に移され、聖霊の力によって内面から私たちを導くものとなりました。
結論として、エバル山の物語は、神との関係における継続性と変化の両方を示しています。神のみことばへの従順という本質は変わらないまま、その実践の方法が外的な規則の遵守から内面的な変革へと進化したのです。現代の信仰者にとって、これは神の言葉を心に刻み、聖霊の導きに従って生きることの重要性を再確認する機会となります。私たちは、形式的な宗教的行為ではなく、神との生きた関係の中で、心から湧き出る信仰と行動を追求するよう召されているのです。
救いの予表としてのエバル山
「ヨルダン川を渡る」ということの霊的意味
ヨルダン川を渡ることは、単なる地理的な移動以上の意味を持ちます。それは、罪の状態からイエス・キリストにある信仰へと移行する霊的な旅を象徴しています。この移行は、私たちの内なる「石」、つまり私たち自身の本質が変容する瞬間を表しています。かつては価値のない単なる石であった私たちが、イエス・キリストへの信仰によって、神の言葉が刻まれる貴重な存在へと変えられるのです。
エバル山に立てられる石の意味
「これらの石をエバル山に立てる」という行為は、私たち信者の霊的な立ち上がりを象徴しています。かつては地に転がっていた私たちが、神の言葉によって立ち上がり、永遠のいのちを持つ者となります。石灰で白く塗るという行為は、私たちが聖められ、清められる過程を表しています。これは救いの過程そのものを表現しているのです。
自然のままの石による礼拝
神は私たちに、「自然のままの石」で祭壇を築くよう命じています。これは、私たちの礼拝が純粋で、飾り気のないものであるべきことを示唆しています。人工的で作為的な礼拝ではなく、心からの素直な態度で神に向き合うことが求められています。「鉄の道具を当てる」ことなく、つまり人間的な技巧や見せかけを排除し、聖霊の導きに従う素直な心で礼拝することが大切なのです。
礼拝における喜び
「主の前で喜びなさい」という命令は、礼拝の本質を表しています。この喜びは、単なる感情的な高揚ではありません。それは、救いの恵みに対する深い感謝と、神との関係回復に基づく喜びです。私たちは、自らの力ではなく、聖霊の働きによってこの喜びを経験します。礼拝は、私たちが救われた経緯を思い起こし、神の恵みを再確認する場となるのです。
現代のクリスチャンへの適用
救いの旅路の再認識
私たちは日々、「ヨルダン川を渡る」経験をしています。罪の性質から離れ、キリストにある新しい生き方へと移行する継続的なプロセスを意識しましょう。神の言葉の内面化
私たちの心は、神の言葉が刻まれるべき「石」です。日々の聖書読解と黙想を通じて、神の言葉を心に刻む習慣を養いましょう。純粋な礼拝の実践
礼拝において、形式や外見にとらわれず、心からの素直な態度で神に向き合うことを心がけましょう。喜びの源泉を理解する
礼拝における喜びは、自己満足ではなく、神の恵みへの感謝から生まれることを認識しましょう。聖霊の導きに従う
日常生活において、聖霊の導きに敏感になり、その声に従うことで、真の喜びと平安を経験しましょう。自己の変容を振り返る
定期的に自己の霊的成長を振り返り、神の恵みによってどのように変えられてきたかを確認しましょう。
エバル山の物語は、私たちに信仰生活の本質を思い起こさせます。それは、神の言葉に立ち、聖霊に導かれ、純粋な心で神を礼拝することの重要性を教えています。この古代の儀式の意味を現代に適用することで、私たちはより深い信仰生活を送ることができるのです。アーメン。
参考文献
新聖書辞典 いのちのことば社
新キリスト教 いのちのことば社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)