やみの中から輝き出よ Ⅱコリント4:1-6
2024年1月28日 礼拝
Ⅱコリント
4:1 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
4:2 恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
4:3 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。
4:4 その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
4:5 私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
タイトル画像:PexelsによるPixabayからの画像
はじめに
前回は、Ⅱコリント3:12-18を取り上げました。パウロがモーセの顔覆い(ベール)に関する聖書の箇所(出34:33-35)を解釈し、その中で新しい契約に仕える使徒の宣教の態度、ユダヤ教律法主義の限界、主キリストを仰ぐ者の恵みについて論じたことを語りました。
モーセが顔を覆ったのは律法が一時的なものであったことと比較して、キリストの福音がもたらした新しい契約は、永遠に続く永続的なものであるために自信を持ち、大胆に語ることができるとパウロは語ります。
さて今回は、混迷と多様性が交錯する今日の社会において、『やみ』が進み、キリスト教信仰もその影響を受けています。そうした時代にあって私たちがなすべきこととは何であるのかを探っていきましょう。
使徒としての務めに対する姿勢(1-2節)
1-2節では、パウロが使徒としての務めに対する自らの姿勢を語ります。彼は失望することなくこの務めに果敢に取り組み、その理由として、自らの務めが永続する栄光を帯びており、新しい契約が人を栄光から栄光へと変えるものであると説明しています。また、迫害者から神のあわれみにより使徒に任じられたことも述べられています。
パウロは、福音を伝える務めを果す自らの姿勢について語りますが、その理由として、それはなんであったのでしょうか。それは、自分の富や名声を得るためであったのでしょうか。いいえ、そうではありません。
あわれみを受けることの意味
パウロは『あわれみを受けて』と語っていますが、この『あわれみ』という言葉の原型ἐλεέω(エレオー)は、信者にとって、神が働かれる信仰を実行することを意味する言葉です。
日本語での『哀れみ』は人の苦しみや悲しみに、深く同情することを言いますが、もちろん、そういう意味として、エレオーを解釈するのは決して誤りとは言い切れないのですが、聖書が語る『あわれみ』(エレオー)という言葉には、神が私たちを召し出し、その召しに積極的に応じる姿勢を言うのです。
使徒の心には、使徒自身が福音を伝えることに全くふさわしくないという思いと、当然のことながら宣教に伴う困難や試練がある状況のもとで成し遂げなければならないという相当な苦労があります。しかし、そのような働きに召されたという事実そのものが、神の特別な恩寵であって、力の源なのであるという認識こそが、『あわれみ』の本質になります。
ですから、人知れぬ苦労や試練があろうとも、パウロは福音宣教という特別な恵みに召し出されたという恵みを遂行するために、弱気になったり、臆病になったりすることはできないという認識を抱いていました。
そのために、彼は使徒にふさわしい振舞いと福音の宣教を通して、自らをすべての人の良心に推薦すると2節で言います。
ここで、『推薦する』というとわかりにくいのですが、NASBを直訳したほうがわかりやすいので紹介しますと
『すべての人の良心に推薦する』と新改訳で訳された部分は、「すべての人の良心に自らをさらしているのです。」というように解釈するほうがいいと思います。
つまり、パウロが自らの良心に従って、彼の振舞いと彼の示す福音を人々が見るなら、彼が使徒であることを認めるはずだと言います。しかし、パウロは他人の判断に自らがゆだねることにしませんでした。パウロを正しく評価し、肯定するお方は神であるということを強調していることです。
恥ずべき隠された事、悪巧み
この2節で注意したいことは、『恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず』という部分でしょう。ここでの意味は、私たちがぱっと思い浮かべるような、性的な罪、不誠実といったような一般的な罪ではなく、むしろ、狡猾さや卑怯な行為の源にある悪意について述べているのです。
コリント教会のパウロに反対する人々は、パウロの計画の変更は、信用に値しない気まぐれさを示しているか、そうでないとすれば、もっと信用に値しない何かがあるとして、ひどくパウロへの悪評を立ててきたわけです。
そうしたユダヤ教的教師たちを代表する反パウロ派の悪意に基づく悪評に対して、言外に私は悪意をもって自分を攻撃してくる彼らとは異なり、神の御前において公明正大であることを強調していることを忘れてはなりません。
使徒性を認めない人々について語る(3-4節)
パウロの福音宣教は、福音の真理を明らかにする中で、誤解や拒絶といった困難に直面してきました。通常ならば、非キリスト者からの理解が難しいこともあるかもしれませんが、興味深いことに、この手紙では同じ教会に所属する人々からの誤解や権威の否定、パウロへの悪評といった問題も発生していました。
3節を読みますと、『おおいが掛かっている』と訳されたκεκαλυμμένον ケカルメノン(原型カリプトー;覆われている、秘密にされている、の意)ですが、ここでの分詞は完了形であり、ギリシャ語では完了した動作の不変の意味を現在にまで拡大するので、『 そして今もなお覆われ続けている。』と訳せます。つまり、現在もキリストの福音は覆いがかけられたままになっているということが示されています。
4節には、その福音に対する覆いがかけられている理由についてパウロは述べておりますが、『この世の神が不信者の思いをくらませて』とあるように、『この世の神』であるサタンによって心の目に覆いがかけられているため、福音が語られても、キリストが放つ栄光の光が届かないようにされているということです。
不信者はだれか
ところで、4節のなかで、『不信者』ἀπίστων(アピストーン)という言葉があります。原型はアピストスという言葉ですが、New American Standard Exhaustive Concordance of the Bibleによれば、必ずしも改宗していない人を指すとは限らず、神の真理を説得されることを拒む信者を指すこともあるということです。
一見すると、4節の『不信者』という言葉は、ノンクリスチャンというように直感してしまうものですが、どうもそうではないようです。直接的にはパウロは、コリント教会の反パウロ派を念頭において手紙を書いているわけですから、直接の対象は反パウロ派や扇動したユダヤ教的律法主義を教えた教師たちであり、そうした教会の人物をも指すと考えられることです。
ですから、クリスチャンであっても、悪意にとらわれてしまうと、私たちはサタンの思う壺に陥ることになります。その瞬間にキリストの信仰に覆いがかけられ、神の御心が見えなくなる可能性が生じます。
そうして、キリストが放つ栄光の光が届かないようにされてしまうばかりか、私たち自身が放つ聖霊の栄光の光を放つことすらできなくなってしまうのです。
福音がキリストの栄光の光を放つ(5-6節)
5‐6節は、コリント教会の偽教師たちが語る福音ではなく、パウロの宣べ伝える福音こそがキリストの栄光の光を放つとパウロは力説します。それは、パウロの学識や実力によるのではないと言います。
天地創造の時、暗闇の中に光を照らし出させた神はユダヤ教律法主義という闇の中にいた改心前のパウロに対して、眩いばかりの天の光で包みました。
彼はユダヤ教の律法主義を守るために激しい忠誠を誓い、神の栄光のためにと、クリスチャンたちを捕縛しようとして、ダマスコへの追跡の途中で復活のキリストと出会いました。そこで眩いばかりの神の光に照らされて、自分が忠誠を尽くした信仰が暗闇であることを知り、キリストの栄光によって心の暗闇の中に光が差し込み、キリストを知る知識の輝きを与えられたのです。
このような体験を通して、栄光の光を受けたパウロは、福音がキリストの栄光の光を放つことを理解しました。この理解は、パウロが自ら手に入れたものでも、自分で知覚したものでもありません。したがって、パウロは何も誇ることはありません。彼は偉大な存在ではなく、自らが使徒であることを他者に認めさせようとすることもありませんでした。
彼は単に、人々の救いを望むキリストのために奉仕し、人々に仕えてキリストを宣べ伝えることが彼の使命であると認識していました。そのため、5節で「あなたがたに仕えるしもべなのです」と述べ、パウロの自己紹介は高慢さや誇りからは程遠いものでした。
6節を見ると、闇の中から光を放つように命じられた神が、私たちの心を照らしてくれるとあります。この節全体は、さきほど紹介した4節とに対する明白なアンチテーゼになります。この世の神(サタン)は神から目を背けさせ、目をくらませる業を行いましたが、真の神は創世記1:3の天地創造のときと同じように、私たちを霊的な暗闇から光を呼び出し救い出します。
そのきっかけとなったことが、キリストの十字架による救いです。私たちがキリストの十字架を仰ぎ見るとき、私たちの心の覆いは取り除かれます。
「やみ」とはなにか
『光が、やみの中から輝き出よ』と6節にあります。『やみ』と訳されたσκότους(スコトス)の語源は、 "隠された、すなわち明白でない "という意味になります。
聖書における『やみ』は、光の不在以上の意味を持ちます。 それは、信仰を働かせることによってのみ克服される霊的な力をも意味します。
『やみ』は、私たちの人生における神の存在を覆い隠し、破滅(無知、痛み)をもたらす、罪の働きを指す言葉でもあり、神の恵み(いのち)から人々を引き離す道徳的(霊的)環境をいうとNew American Standard Exhaustive Concor-dance of the Bibleにありました。
悲しいことに、多くの人が『やみ』(スコトス)を愛し、それゆえに『やみ』を選んでいます。
こうして、『やみ』は、心がかたくなり、恩知らず、混乱などの結果をもたらすことになりました。
キリストの御顔を仰ぎ見ることにすべての解決がある
現代はまさに混迷の時代にあたり、かつての絶対的な価値観が崩れ去り、多様性が広がる中で、『やみ』が私たちを包み込んでいるように感じられます。しかし、この暗闇に怯えるだけでなく、むしろそこにキリストの御顔が輝いていることを見逃してはいけません。
眩いばかりに輝くキリストの御顔に目を向け、その光が混迷極まる暗闇に一筋の希望を灯していることに気づくべきです。私たちはその光を無視せず、またベールで覆い隠すのではなく、心の覆いを取り払い、輝くキリストの御顔を堂々と仰ぎ見るべきです。そこで初めて、私たちの心に光が差し込み、大きな変革が始まるのです。
この輝く光は、私たちが抱える恐れや不安を和らげ、新たな可能性を示してくれます。心の底からその光を受け入れ、私たちは自らを変え、そして周りの世界にも変革をもたらすことができるでしょう。まさに、天地創造の御業が私たちの中で始まるのです。アーメン。