危機の時代にあって──どこまでも祝福 Ⅰペテロ4章14節
Title photo by Lucie via Pixabay
2023年2月5日 礼拝
Ⅰペテロの手紙4:14
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
εἰ ὀνειδίζεσθε ἐν ὀνόματι Χριστοῦ, μακάριοι, ὅτι τὸ τῆς δόξης καὶ τὸ τοῦ θεοῦ πνεῦμα ἐφ' ὑμᾶς ἀναπαύεται.
はじめに
『危機の時代にあって』というテーマで語ってきましたが、混迷を深め、不安と狂気が渦巻く時代に必要なことは、クリスチャンとして当たり前のことを誠実に行うということが求められているということを知りました。
突如として、危機の時代が訪れるわけではありません。終末の時代もそうです。現代の私たちの時代にこそ、ペテロが語ることばの意味が必要とされていますが、今回は、試練の時への心構えについて見ていきたいと思います。
幸いな人
14節を見ますと、そこには、『あなた方は幸いです。』とあります。
ところで、幸いな人とはどんな人であるか────
ということですが、それは、『キリストの名のために非難を受ける』人物であるとペテロは語ります。
ここで、『あなた方は幸いです。』と訳されたギリシャ語本文を紹介しますと、μακάριοι(マカリオイ)と一言で表現されます。このマカリオイという言葉の原型はマカリオス。
ウェーマス新約聖書では、マカリオスを「単なる人間の幸福よりも無限に高く、優れた祝福」と説明し、
H. クレマーは、
「マカリオスは宗教的に修飾された概念であり、神の恩恵と救いを経験する人間の人生の喜びと満足、すなわち外的条件とは全く別のところにある祝福を表現している。. . . マカリオスは常に、神の恩恵の何らかの経験によって生み出される幸福を意味し、恵みの啓示によって特別に条件づけられたものである。」
つまり、キリスト教で言う『幸い』とは、神からいただく恵みであり、それは、この世界が与える富や物質的なものではないものであることです。
クレマーは、『神の恩恵と救いを経験する人間の人生の喜びと満足』と具体的にいいますが、詳しく見ますと、マカリオスとは、主が「ご自身を差し出された」ことにより、神がご自身を差し出されること────(神の恩恵、「祝福」)の状態に人を置くことを意味します。
つまり、何を言いたいのかということですが、
キリストが私たちの罪のために、十字架に身代わりになって死なれた(神にとって、キリストの死は恩恵であり祝福)状態に自分を置くということが、マカリオス(幸いな人)の意味だということです。
マカリオイとは、山上の説教において、マタイの5章11節と密接な関係があると言われます。
ここでも、マカリオイということばが出てくるのと、オネイディゾーという言葉が共通しています。このオネイディゾーの語源は「歯を見せるように、非難する」ことであり、
正しくは、辱める、非難する;あざける(呪う);侮辱する、非難されて恥をかくという意味であり、事実であろうとなかろうと、誰か(何か)が有罪で、それゆえ罰を受けなければならない資格があると見なすことであるということです。
ペテロの活躍していた時代には、アジア(トルコ)やユダヤにおいて、クリスチャンたちはすでに迫害されていましたから、殉教ということも見聞していたと思われます。ペテロの手紙が書かれた62-64年頃ですから、すでに使徒ヤコブが12使徒中最初の殉教しています(使徒12:2)。ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが、ユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、西暦44年頃に殉教したといいます。
伝承では他の使徒たちもその大半が殉教の死を遂げます。新約聖書中、最初の殉教者はステパノですが西暦34年に殉教しています(使徒7:60,使徒22:20)。彼の殉教の後、西暦62年に、主の兄弟ヤコブを含む多くの主の証人が殉教していきます(ヘブル11:37,黙示録20:4)。
ですから、ペテロの手紙が著されていた頃には、様々な地域で教会に対する迫害が起こり、犠牲者も出ていました。ところが、この箇所を読みますと、マカリオイとは、主の十字架にあずかるという意味としてとらえられ、生きながらえることよりも、主と同じになれるという(祝福)と考え積極的に苦しみに関わっていったことがわかります。
彼らにとって、肉体の痛み、心の痛みは過ぎ去るものであり、それは一時的なものとして受け止め、殉教こそが、主の祝福にあずかるものとして理解していたようです。
前回は、その苦しみの目的は、キリストの再臨の時に大きな喜びが与えられることにあると言うことでした。苦難を耐え忍ぶことは、再臨の時に与えられる栄光を喜ぶためでもありました。ペテロは、ここで、さらに重要なことを教えてくれます。
栄光の御霊
とどまる栄光の御霊
殉教の苦難の後に、喜びおどる者となるためであると前の13節で言われますが、ペテロは、私たちに、栄光の御霊である神の御霊がとどまると教えます。
『栄光 』は 『非難 』と対照的です。そして、その栄光は、 『すなわち神の 』と付け加えています。
『栄光』は神のものであり、したがって『栄光の御霊』は『神の霊』以外に考えられません。そして、この御霊は迫害されたキリスト者の上に『とどまる』と語ります。
『とどまる』とはἀναπαύεται アナパウエタイ とあり、原型はアナパウオーです。このアナパウオーは、「残る」「留まる」という以上の意味があります。殉教者の心を持つ者に栄光の御霊が宿り、完全に安らぎ、満足することを表しているのです。このアナパウオーが用いられている箇所は、
主が取られた静かな隠れ家を示す意味
主のもとに来る疲れた魂に与える穏やかな安らぎの場
人生の労苦が終わった後の祝福された死者の安息
それぞれ、アナパウオーが休息や安息に使われている言葉です。
殉教について
こうして危機の時代にあって、特に当時のクリスチャンたちは、信仰を持つだけでも命がけであり、殉教の危機というものを常にはらんではいましたが、彼らの信仰の中心は『この世』での安全安寧への希望ではなかったことは明らかです。
彼らは、殉教にあっては、神の霊がとどまるということを経験的に知っていました。イエス・キリストの死の様子や、聖人とされる人々の死に立ち会ったときの様子を見聞した時に、死は、そこで苦しみ、消え去ることではなく、神の栄光が死にゆく彼らを支え、人々に多くの感化を与えたことをペテロを始めクリスチャンは知っていました。
彼らが期待していたことは、移ろいやすく、一時的なこの世ではなく、常に『天の御国』に眼差しを向けていたというところにあります。
たとえ、ローマ皇帝のように、すべての力と権威と富があったとしても、度重なる政敵との争いがありました。政敵から追い落とされ失脚ともなれば、命がなかったものですから、非情かつ残忍な態度を取らざるを得ない状況にありました。常に心配と不安に苛まれるというのが、当時の神の子であるローマ皇帝の姿でした。皇帝自体がこの有様ですから、下々の民は推して知るべしです。
そうした、希望や自由がない世界にキリストの救いというものがもたらされた時、人々は、来世への希望に胸踊らせたに違いありません。
夢や希望のない人生、飲んで歌って、快楽を追求することが人生の目的としたローマ世界にあって、そうした価値観の虚しさに気づいた人は、キリストが示す『天の御国』の存在に救いを見出す以外にその虚しさを解決するすべはなかったことでしょう。
こうしたことは、現代においても同じではないかと思うのです。自己実現を果たしたところで、一体何が残るのでしょうか。自分の富、自分の称賛、自分の手柄……。自分がいくら褒め称えられようと、自分がどんなに偉くなろうと、好き勝手生きるにしてもそこには何の解決があるでしょうか。それらは、全てテンポラリーです。自分のテンポラリーファイルにそうしたものを詰め込んだとしても、いずれは消え去るのです。
人によっては、死んだ後も覚えられたいという欲求があるそうですが、そうした欲求も、死んだら忘れ去られ、偉業を残したとしても過去のものとして埋没してくだけです。しかし、自分にではなく、神に栄光を求めていったらどうでしょうか。その栄光は消えることは決してありません。私たちは消え去るのみですが、それに反比例するかのように神の栄光は燦然と輝きを増すのです。
殉教者たちは、自分を求めることの無意味さを知り、それ以上に、自分を救ってくれた方への希望と感謝をいだき、神の栄光を目指し殉教をしていきました。イエス・キリストが模範を示してくれた十字架を目指して彼らはいのちを捨てていきました。
キリストを知らない人々は、殉教を嘲りました。古代ローマの1世紀のローマ帝国の著述家で、古代最大の博物辞典である『博物誌』を著したプリニウスは手紙の中で、キリスト教そのものがどうであれ、殉教をいとわない頑迷さは罰せられるべきものであることは間違いないと述べました。
また、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは、ストア派の哲学的な優美さとは異なり、キリスト教徒が死刑にされることを単なる自己の意志であると侮蔑的に語りました。
ギボンはアフリカのティビウラの聖フェリックスがフェリクス( アフリカのティビウカの司教で、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの大迫害の際に殉教しました。フェリクスは彼の教会にあるキリスト教の経典を引き渡すよう命じたが、それに頑迷に抵抗し 斬首されたことを書いています。
こうした、殉教者たちに対して、歴史家は『頑迷』であるとしていますが、この世において、何をもっとも大切にするかによって、その評価は真逆のものを示します。神は、殉教の恵みと祝福を高く評価しているということです。私たちは、この信仰に死ぬという姿勢から逃げてはいけないのです。現代において、殉教について私たちは考えたこともないでしょうし、ありえないことと思う人もいると思います。
また、殉教者を身近に知らない者からすれば、遠い国や遠い時代の出来事であるとか、歴史としてとらえてしまうものです。
しかし、クリスチャンの皆さん。忘れてはなりません。殉教はいつ起こりうるかわかりません。いや、むしろそういう時代が近づいているのではないでしょうか。しかし、神は、殉教というある意味クリスチャンにとってもっとも深刻な危機にあって、神の霊は私たちにとどまってくださるとペテロは力強いメッセージを残しています。
ですから、私たちの艱難や苦難というものは、恐れるに足りません。神はあなたをどこまでも支え続ける。人からは評価されない、いや、罵られる、軽蔑される、相手にされないといったときにこそ、神の御霊はあなたの上に強く臨まれる、祝福されていることを忘れてはいけないのです。
あなたは、死ぬほど神に愛されています!