輝く存在として───危機の時代にあって Ⅰペテロ4章18節
2023年3月5日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
4:18 義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。
καὶ εἰ ὁ δίκαιος μόλις σῴζεται, ὁ ἀσεβὴς καὶ ἁμαρτωλὸς ποῦ φανεῖται;
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はじめに
前回、ペテロが言うように、クリスチャンたちは迫害や災難があっても、それが後の世に来るさばきに比べると容易なものであると考えているということをお伝えしました。
なぜなら、この世での迫害や災難は、限られた時の範囲内で発生するものであり、この世での苦しみや悲しみは、神の永遠の救いの計画に比べれば、非常に短いものであると教えます。
今回は18節を通して、義人とは、また神を敬わない者や罪人とはどういう存在であるのかということについて見ていくことにします。
義人ということば
『義人』と言いますと、正義を守る人であるとか、正しい人という意味でとらえると思います。日本語というくくりで見るならばそういう意味で間違いないのですが、聖書の言う『義人』というのは、 ギリシャ語本文でδίκαιος(ディカイオス)という言葉になります。
この言葉は、単に「正しい」という意味だけではなく、神の法律に従い正しく生きることを意味します。聖書の中では、おもに神を敬い、他人を愛することによって自分自身の義を得ることが強調されています。
ちなみに今回紹介する18節の御言葉は、箴言11篇31節からの引用と言われております。
ペテロは、今回語った聖句も旧約聖書の下地があってなされたことが理解できます。
御言葉の成就としてのクリスチャン
前回の御言葉では、『神の家』をイスラエルとした旧約的な歴史観ではなく、『神の家』を新約の教会と位置づけたことにペテロの教会理解があるということに触れました。クリスチャン、教会というものは旧約聖書の一つの成就でもあります。
イザヤ書53章は、旧約聖書において、将来のメシアの到来やその受難についての預言が書かれています。クリスチャンは、この預言がイエス・キリストに対して成就したと信じていますが、同時に、この預言にはクリスチャンや教会の迫害についての預言も含まれていると考えることができます。
クリスチャンという存在は、ユダヤ人の中にあって、『若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育っていきます。』
しかし、『見とれるような姿もなく、輝きもなかった。』とありますが、事実、世界宣教の発信基地としてその名を教会史に轟かせたアンテオケ教会は、とても教会堂と呼べるものではありませんでした。実のところ、アンテオケ教会は、イエス・キリストのお生まれになった家畜小屋と同じようにほら穴でした。(著者注:家畜小屋はほら穴であったという説があります。)
しかも、クリスチャンという言葉は、クリスティアノスというギリシャ語ですが、これは、キリスト教徒を罵る言葉でもありました。当時のキリスト教徒は、恥ずかしくて口にも出せないような言葉であったようです。前にも紹介しましたが、パウロは一切自分たちのことをクリスチャンとは聖書に書いていないのです。当時の教会やクリスチャン像というのは私たちの想像を超えて、その実態というのは人々から蔑まれ、隠れて信仰を持たねばならなかったような社会的弱者であり、マイノリティーでありました。
しかも、ユダヤ教から迫害を受け、しかも、ローマ国民からも酷い迫害を受けるという状態を見て、ペテロは、『神の家』としての教会やクリスチャンの姿に主イエス・キリストの誕生と受難を重ね合わせて見ていたのです。
当時の教会やクリスチャン像が社会的弱者であり、マイノリティーであったことも事実です。しかしながら、ペテロは、迫害を受ける側、少数者であるクリスチャンに『義人』のすがたを見ていたのです。このように、クリスチャンは社会的に迫害を受けた弱者であったにも関わらず、その信仰によって強く立ち上がり、人々に希望を与える存在となっていきました。
義人とは
旧約聖書ではどうとらえているか
旧約聖書において、義人とは神の律法に従って生きる人を指します。彼らは神の命令を守り、神に対して忠実であり、信仰深く生きることが求められます。旧約聖書には多くの義人たちが登場しますが、彼らの中でも最も有名なのは、アブラハム、モーセ、ダニエル、ヨブなどです。彼らは神の御心に従って生きることができ、神によって祝福を受けました。旧約聖書において、義とは神の法律に従って正しく生きることを指します。律法の守り手であるユダヤ人たちは、神の律法に従い行動することが義であると考えていました。義は自己の行いによって獲得されるものであり、罪を犯さないことや神の律法を厳密に守ることが求められます。義人とは、神の律法に従い生きる人のことを指します。旧約聖書において、義人たちは神の祝福を受け、悪人たちは神の罰を受けると考えられていました。
イエス・キリストによる看破
ところが、主イエス・キリストの誕生は、表面的に正しくありつつも、その心においては、罪にまみれたユダヤ人たちの心をあからさまにしました。
つまり、イエス・キリストにあっては、ユダヤ人たちの善い行いというものはすべて裸にされ、その中身が汚れたものであることが見破られてしまいました。これは、ユダヤ人たちだけではありません。
私たちもそうです。世間の目を気にして、内面を見ずに、容姿や人にどう思われるかどうかで物事を判断し、生きている。しばしば、あの人はいい人だという評価をしますが、本当にそうなのでしょうか。私たちは、その人の内面を見ずに、単に言葉遣いや姿や行いを見ての評価です。世の中の基準にあてはまるような生き方のみを追求することであるとか、人から見てよく思われることを意識するだけの生き方は、律法を守って生きるユダヤ人の心と何ら変わりません。
新約聖書の義人
義人とはいかなるものであるのかというものを、この人類に示したのはイエス・キリストでした。神の義とはいかなるものであるのかということをそのお生まれから、十字架の死に向かうまでのイエスの生涯は義人のモデルです。自分の意図を曲げず、人に見られるということよりも、神がどう見られるかということを優先し、律法に従い続けた人物は、世界史上イエス・キリストしかいません。
イエス・キリストが来られたのは神の義を完全に成就するためでありました。(マタイ5:17)
人間は、事実上義に生きることは無理ですが、ペテロの言う『義人』とは、人間がなし得なかった、律法を完全に全うされたイエス・キリストを信仰によって義を得る者であるということです。私たちが神の前に義とされるには、行いではなく、行いを全うしたイエス・キリストを信じる信仰しか救われる道はありません。
かろうじて救われることとは
本質的には旧約聖書も新約聖書も、『信仰によって救われる』のですが、ユダヤ人たちは、その意味を取り違えてしまいました。4:18で『義人がかろうじて救われる』とありますが、ギリシャ語本文で『かろうじて』ということばはモリスということばになりますが、「非常に困難であること、ほとんど起こらない」という意味です。すなわち、義人になるには、非常に困難であり、また、ほとんど起こらないといったように訳せます。
当時のキリスト教徒を見ますと、その『かろうじて』という意味がわかります。圧倒的に少数者であり、きわめて弱者であったわけですから、現代のように世界の三分の一がクリスチャンという時代からすれば、想像がつきにくいのですが、救われる人はほとんどいなかったということを考えるとペテロのことばの意味が伝わってきます。
そうした逆境に次ぐ逆境という神の試練は彼らを鍛え上げました。迫害の中で生き残るというしたたかさと、純化される信仰が義人としての資質を磨き上げていったのです。つまり、聖化というものです。
私たちが聖化されていく過程において、試練はつきものです。悩み苦しみ、悶絶することもあるでしょう。しかし、そうした痛みは、イエス・キリストの十字架の痛みを追体験することです。その痛みに耐え、苦しみの意図を神から教えられていくところに、ご利益宗教ではない本物の信仰の姿があります。
しかし、そうした困難があっても、神は彼らを保持し、守ってきました。弾圧され、虐げられ、聖書が焚書されようとも、信仰は守られ今に息づいています。それは、信仰を堅く保った人たちの功績でしょうか。いいえ、違います。神はその信仰を支え続けました。それは、私たちから出たことではなく、神から出たことです。
この日本においても、素晴らしい事例があります。長崎の隠れキリシタンの事例です。明治維新に向けて日本は開国しましたが、長崎に居住した外国人のために「大浦天主堂」が建てられます。そこへある日、15人の日本人が訪れ、自分たちが本当はキリスト教徒であることを告げたのです。日本のキリスト教徒は、迫害を受け司祭もいない状況でありながら、鎖国してから250年の長きにわたり潜伏して信仰を守り続けていたクリスチャンたちが存在したのです。この「大浦天主堂」でのニュースは「信徒発見」と呼ばれ、宗教史上の奇跡のひとつとして語り継がれています。
確かに、現代社会では伝道が難しく、教会運営が厳しい状況に置かれることがあります。しかし、私たちは神の恵みと祝福を受けていることを忘れてはなりません。信仰は私たちが持つ最も貴重な宝であり、神の憐れみによって守られています。私たちは決して諦めず、神の恵みに感謝しながら、信仰を守り、伝えていくことが大切です。また、神は私たちに働きかけてくださいますので、その恵みにも期待しましょう。
義人と悪人の違いについて
ここで、義人と悪者との対比が記されていますが、その大きな違いは一体何であると思いますか?
ここでは、悪者を『神を敬わない者や罪人たち』と表現してますが、これは異邦人の特徴を示していると言います。
『神を敬わない者 』ἀσεβὴς(アセベス)(英語のAtheism:無神論の語源)とは、神に対する敬意(敬虔さ)の完全な欠如を示し、神聖なものに対するあからさまな無視や、神と神の礼拝に属するすべてのものを侮蔑する、無宗教を意味することばです。
『罪人』 ἁμαρτωλὸς(ハマルトーロス)は、より道徳的な性質で、特に肉体の罪を指す言葉です。それは、神の意志に反対する人、つまり、自分の罪を誇示しながら公然と罪を犯している人を表します。 罪(ハマルティア)よりも、神への反抗の激しさが特に伝わる言葉だそうです。
例をあげますと、ルカ7:37「罪人」は「異邦人」とほぼ同義語になります。
ここで言及されている義人と悪者との大きな違いは、神が彼らを選ぶか否かということです。義人は、神が選んだ者であり、神の恵みによって正しい生き方をすることができます。一方、悪者は、神を敬わず、罪を犯す者であり、神の選びに反抗しています。
この対比は、聖書の教えにおいて重要なテーマの一つであり、人々が神とのつながりを保ち、神の意志に従うことが求められています。義人は神の恵みによって正しく生きることができ、神とのつながりを維持することができます。一方、悪者は神に背いて生きることによって、神とのつながりを壊し、罪に陥ってしまいます。
クリスチャンの信仰においては、来世における永遠の命と神との共に在することが最終的な目的とされています。そのため、現世での利益や快楽を追求することよりも、神の御心に従い、来世において永遠の幸福を追求することが求められます。
一方、当時のローマ世界の異邦人たちは、来世に対する希望を持っていませんでした。彼らは、神々を信じることによって現世での利益や快楽を追求することが人生の目的であると考えていました。そのため、彼らは、現世での成功や名声、富、地位を追求することが多かったとされています。
このように、クリスチャンの信仰とローマ世界の異邦人たちの信仰とでは、来世に対する希望を持つか否かが決定的に異なっています。クリスチャンの信仰においては、来世に対する希望が人生の最も重要な要素の一つであり、現世での成功や名声、富、地位よりも、来世における神との共に在することが求められます。
輝くクリスチャン
この文章では、ギリシャ語の言葉「ποῦ φανεῖται;」について説明されています。この言葉は、「輝く・現れる・思われる」という意味を持ち、「where appear」と英語に訳すことができます。
また、前の節で言及されている「τέλος/テロス」という言葉は、「完成する結果、終結」という意味を持ち、1ペテロ1:9で、信者の来るべき栄華(救いの最終目標)について使用されていることが述べられています。
この文章からは、ギリシャ語の言葉には、直訳すると異なるニュアンスが含まれていることが示唆されています。また、聖書の文脈や言葉の意味を理解することが、正確な解釈をする上で重要であることが示されています。
つまり、ファネイタイとテロスはどちらも、救いによって輝く、あるいは救いの栄華という隠れた意味があるわけです。
クリスチャンは、この世にあっては、不遇や収奪、貧困、差別といった強者からの支配に屈するようなことがあったとしても、この世を去った後には輝く存在として、栄光の座につく者として贖われているとペテロはファネイタイとテロスに込めていると考えます。
εἰ /エイという条件接続詞の存在
文章の中では、ギリシャ語の言葉「εἰ /エイ」が注目されます。この言葉は、条件接続詞であり、英語の"if"に相当しますが、仮定の場合でも事実として見られる状態を表すことができます。
ですから、
つまり、神を敬わない者や罪人たちは、輝けないということです。それは、栄化することすらしない、したがって滅びに至るという意味を暗示してます。
同時に、それは逆にとらえると、クリスチャンたちは最後の裁きの時に輝く存在として栄化されることが語られています。このことは、曖昧なものではなく、ギリシャ語の「εἰ /エイ」によって事実として紹介されているとされています。
この文章からは、ギリシャ語で聖書を読むことが、聖書の確かさを理解するために重要であることが示唆されています。また、クリスチャンたちは永遠のいのちの存在を形而上で信じているのではなく、事実として受け止めていたことが述べられています。
こうして、原語で聖句を見ていくと聖書の確かさというものが浮かび上がってきます。私たちは曖昧模糊とした「白紙も信心次第」というような信仰ではないということです。事実に基づいた御言葉を信じて生きるものだということです。ギリシャ語で理解していたクリスチャンたちは、永遠のいのちの存在というものを事実として受け止めていました。ですから、滅びゆくたましいに向けて、福音を伝える努力を惜しみませんでした。私たちもこの聖書の言葉を事実として受け取り、一人でも多くの人が天に迎えられるよう働いていこうではありませんか。