苦難を任せる───危機の時代にあって Ⅰペテロ4章19節
2023年3月12日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
4:19 ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。
ὥστε καὶ οἱ πάσχοντες κατὰ τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ πιστῷ κτίστῃ παρατιθέσθωσαν τὰς ψυχὰς αὐτῶν ἐν ἀγαθοποιΐᾳ.
はじめに
義人でさえ、かろうじて救われるとペテロは言いました。苦難を経てクリスチャンは天に迎えられるということを言いたかったようです。迫害や苦難の中にあったクリスチャンは、試練とともに練り上げられて聖化されていくということを見てきました。今回は、『神に信頼する苦難の者たち』というテーマで語ります。特に、19節の後半『真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。』という言葉の意味についてギリシャ語からみこころを探っていきたいと思います。
義に生きて苦しんでいた人々
信仰に対する無理解により、迫害を受け続けたローマ時代の様子をペテロの書簡から浮かび上がってきます。救われたクリスチャンたちは、神の御心にしたがって生きることが大事であると思い妥協せずに信仰生活を貫いていきました。ところが、妥協しない生き方は、古代ローマ社会からの反発を招いてきました。キリストへの信仰は、社会のあり方と信仰のあり方が食い違うという現象が生じてきます。
皇帝アウグスト礼拝
その最たるものは、唯一なる神に対する信仰と多神教や皇帝礼拝に対するものでした。古代ローマ社会において、皇帝礼拝というものはもともとなかったものですが、エジプトの女王クレオパトラとも関係を持っていたことで影響を受けたカエサルが、君主礼拝を伴うヘレニズム的な王政のやり方を目指したことに端を発していると言われます。紀元前44 年 にカエサルが暗殺されますが、カエサルを神として崇めることを決議されます。
カエサルの死後、その養子オクタウィアヌス(皇帝アウグスト)が皇帝になります。彼は、神となったカエサルの息子であることを強調し、自らを「神の息子(divi filius)」と称して自らの権力を誇示しました。イエス・キリストがお生まれになった時、皇帝アウグストの勅令によって、ヨセフとマリヤがベツレヘムに行って住民登録をすることになりますが、当時「神の子」と言えば、それは「ローマ皇帝」を指す言葉でもあったのです。その後、当時のローマ帝国では、皇帝アウグストを神として崇拝する「皇帝礼拝」が強制されていました。このような状況下で、キリスト教徒たちは唯一神を崇拝し、他の神を拒否する信仰を持っていたため、彼らはしばしば迫害を受けることになります。皇帝礼拝というものは、アウグストが上から礼拝するようにと強要されたように思われるのですが、そうではなかったようです。
イタリア地方都市ではアウグスト礼拝というのは、地方都市側による「下から」の導入でした。地方都市の有力者たちは「皇帝礼拝」祭司職という名誉を保持することによって都市内の政治的社会的優位を誇示することがその意義であったということです。信仰というよりもむしろ、制度に近いものであったようです。ローマ帝国も、地方都市の支配者たちも「皇帝礼拝」という制度を利用することで、その地位を保ち特権を保持するための装置でした。
キリスト教に震撼するローマ
ローマ帝国の皇帝礼拝や多神教への傾倒は、社会の欲求を満たすものでした。ところが、キリスト教の普及にしたがって、奴隷も自由人もないというキリスト教の教理は、古代ローマ社会に震撼を与えたに違いありません。既得権益にしがみつく支配層たちにとって、その基盤が揺らぐということになることは想像につきます。いずれは、クリスチャンたちが増えたら、自分たちの経済や特権が奪われる、ひいては特権階級自体無くなるのではないかという恐怖があったと思われます。
利得の中心は、自分を守るということです。自分を守るために利得を追求し、利得を代表する皇帝や多神教の神々に向かっていくのは当然の成り行きです。こうした古代ローマ社会とキリスト教は真逆の価値観を持っていましたから、追放や迫害が起こるのは理解できます。
キリスト教の伝播と拡大が、奴隷による安い労働力の供給に依存した経済を壊す可能性を秘めた信仰に気づいた為政者たちは、自分たちの基盤を揺るがすということを肌で感じていたのではないでしょうか。
しかも、利得や経済のために戦争を行い、その支配を強めたローマ帝国。他方、キリストへの信仰のために死をもいとわないクリスチャンの存在にローマ帝国は恐れを抱いたに違いありません。
パウロの宣教に対する脅かしの例
こうしたことを彷彿とさせる記事が、使徒の働き19:23から41節まで記されていますが、それはトルコのエペソでのパウロの宣教についての記事です。
デメテリオというアルテミス神殿の銀模型を作る職人の元締めと思われる人物が、パウロの宣教に対して反対し、デモ活動が行われたとあります。当時のエペソでは、守護神アルテミスの神殿礼拝が大きな経済活動を占めていました。クリスチャンが増え、神殿礼拝が行われなくなりますと、当然、模型を売って商売していた人たちの収益源が絶たれるということにつながります。今までアルテミス神殿への参詣が維持されていたため、細工人組合は大きな収益を得ていたわけですが、パウロが御心に沿って伝道し、信徒が増えることで壊滅的な被害を受けていたのではないでしょうか。ですから、デメテリオや細工人組合は猛烈に抗議したわけです。
経済的基盤が失われると人間の行動が顕著になる事例ですが、人は食物や富が奪われるとなると行動が過激になりますが、宣教が引き起こした騒動の一つとして、エペソにおけるパウロの活動はその中でも良く知られた事例であり、古代ローマ社会に投げかけた宣教の波紋を見ることができます。
現代の社会的対立
現在、私たちの日本社会にあって、目立って迫害がないということは、一つには、キリスト教自体が社会に対して危険視されていない、受容されているということもあるかと思います。同時に、社会に対する信仰のインパクトというものが少ないということがあるのかと思います。もし、仮に私たちに迫害が及んでくるとするならば、社会がクリスチャンによって、その社会の基盤が脅かされるという危機感を持った時とも言えましょう。
この現代においても保守的なキリスト教信仰は、社会に波紋を投げかけています。下記の記事を見ますとキリスト教信仰は攻撃されかねない問題をはらんでいることがわかります。
リベラリズムと保守層との対立が、キリスト教国と呼ばれているアメリカにおいて先鋭化しています。対岸の火事として私たち日本社会においてこうした問題には触れずにおこうとする教会も多いことでしょう。世に流される、世の問題に背を向けるということが、果たしてこの先許されることでしょうか。
殉教とみこころ
当時のクリスチャンたちは、社会に対する証しをその生き方において示してきました。それも妥協せずにです。いかなる困難が待ち受けていようと、神から受けた『神のみこころ』(τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ:ト セレマ トゥー セオー)の中に生きるということを目指しました。そのことによって、迫害が先鋭化していきましたが、同時に多くの殉教者を生み出しました。ところが、世は不思議なものです。多くの殉教者が生み出されるにしたがって、イエス・キリストを信じる人も増えていったという奇跡がおこりました。
殉教者の死というものは、その人にとっては悲劇のように思われるのですが、神はその死を用います。弟子のステパノの死や使徒たちの死を見るまでもなく、殉教者の死が多くの人の救いをもたらしました。それが、『神のみこころ』(τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ:ト セレマ トゥー セオー)というものです。
矛盾に思えるみこころ
神のなさることは、一見すると矛盾を抱えているように思われるものです。神のみこころに沿って生きているのに、なぜ、死ななければならないのか、なぜ、迫害の被害者にならなければいけないのだろうかという疑問がついて回ります。しかし、神は一人でも多くの人が救われるように望んでおられ、そのためにクリスチャン一人ひとりを招いておられるということです。
イエス・キリストはその十字架において、肉体と精神に大きなダメージを負いましたが、それは、イエスの死を通して救われる人が起こされるためでもありました。実は、私たちもそのイエスの十字架に招かれていることを覚えなければなりません。
善行について
聖書の中で、この19節しか現れない単語があります。ἀγαθοποιΐα,(アガソポイア)という単語です。英語ではアガソポイアをwell-doingと訳されてます。新改訳聖書では『善を行なう』と訳出されておりますが、さしずめ、善い行いをする『善行』という意味です。善行といっても、それは信仰に生きるという意味に置き換えられます。
当時、信仰に生きるということは何を指すのでしょうか。それは、私たちが善に生きるという意味以上のことであったでしょう。すなわち、危険を顧みずに迫害にあるクリスチャンが行う善行を意味していました。当然、行きつく先は殉教が待っていたことでしょう。
当時のクリスチャンは、アガソポイアとは、単に善行だけにとどまらないものとして考えていたと思います。直接的には『殉教』を語らなかったもののアガソポイアという言葉を通して殉教に生きることを教えたのではないでしょうか。
「アガソポイア」と「殉教」について考えたいと思いますが、これらの概念には、いくつかの関連があります。
まず、キリスト教において、善行(アガソポイア)を行うことは信仰生活の重要な部分であると考えられています。信仰の実践は、行動を通して示され、それが個人や社会全体の幸福につながります。また、同時に信仰を持つ者は、善行を行うことで自分自身や他者を助けることができます。
一方で、信仰を守るために死を選ぶことも、キリスト教において重要な概念です。信仰を守るために死を選ぶことが殉教とされ、非常に高い価値が置かれています。つまり、善行を行うことや信仰を守ることは、キリスト教において重要な価値観であり、密接に関連しています。これらの価値観を実践することで、個人や社会全体の幸福が追求されると同時に、信仰を守るために死を選ぶことが必要になる場合もあるとペテロは教えているということです。
たましいを任せる
殉教というテーマで絞っていきますと、『自分のたましいをお任せしなさい。』(παρατιθέσθωσαν τὰς ψυχὰς αὐτῶν ἐν ἀγαθοποιΐᾳ.)という言葉が明瞭になってきます。
『自分のたましいをお任せしなさい。』と表現されるπαρατιθέσθωσαν パラティセッソーサン(原型:パラティセーミ)という動詞は、「銀行に預金する」という意味です。
詳しくは、貴重なものを信頼して誰かに預けることを意味することばです。文字通りの意味ではルカ12:48や、 2テモテ1:12に記されております。また、愛する人を預けること(使徒14:23、使徒20:32)に使われています。
おそらく、ペテロがこの言葉を書き記したとき、強烈な印象を持って記したのではないかと思います。それは、十字架上の主イエスの言葉を思い出していたと想像します。
ルカによる福音書23章46節には、『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』とあります。
ギリシャ語本文にはその部分の単語を見ていきますと、下記のように記されています。
この主の十字架上の言葉に、今回読んでいる18節で『自分のたましいをお任せしなさい。』と訳されたのと同じ単語、パラティセーミという言葉が用いられているのがわかります。
イエス・キリストの十字架というものは、言葉を言い換えれば、信徒の殉教に等しいものです。ステパノの殉教から始まるクリスチャンたちの迫害の死のうちに、ペテロは十字架のイエスを重ね合わせて見ていたことでしょう。
こうした、イエスの十字架と復活の目撃を通してペテロは、迫害の意味を苦難から復活のいのちという意味に更新した考えられるのです。
聖書は、『自分のいのち』に関して一貫した主張があります。その思想とは、自分のいのちを得ようとする者は失い、神のためにいのちを捧げることによっていのちを得るという思想です。
ペテロも言葉にも、そうした聖書の一貫した思想の中にあります。
殉教という試練は非常に重くつらい出来事であるかと思います。しかし、罪深い人を襲う恐怖に比べれば、殉教の苦しみというものは軽いものであることを示します。たとえ私たちが最悪の事態に陥り、殉教者として死ななければならないとしても、それはあなたのための神の計画の実行に過ぎないものだと語ります。一見するとなんてドライな言葉なのかと映るものですが、それには確かな理由があります。
ペテロは、パラティセーミという言葉のうちに、『真実であられる創造者』である神が、自分の人生を神に対する預金と見なし、自信をもって神の手に預けることができると確信を込めて語っていることです。保証も元本割れも決してない『真実であられる創造者』の担保があるから安心して私たちはいのちを預けられるのだということです。
たとえ、神のためにいのちを失ったにせよ、私たちはいのちを創造した神を信じています。時が来れば、天国での栄化という形で返金してもらえるということをペテロはここでも明確に示しているのです。
私たちは、善人であろうとなかろうといずれ死んでいきます。いのちを御手に預ける日がやってくるのです。クリスチャンはキリストに死んだものです。すなわち、キリストにいのちを預けた存在として選ばれているのです。今や、私たちのいのちは主イエス・キリストにいのちを委ねた者として変えられているという認識を再確認しなければなりません。
自分を捨てて、キリストに生きるということは、たしかに、言うは易く行うは難しではあります。クリスチャンに危機が迫ってきた時に、あなたはどうするでしょうか。それはできないかもしれない。いや難しいと弱音を吐いてしまうこともあるかもしれません。そう思われる方々に一つの秘訣を教えましょう。それは、その苦しみの一切合財を自分で抱え込まないことです。
主に任せましょう。主に委ねましょう。私たちは抱え込まない秘訣を会得した存在として召されています。あなたが苦しみにある時、一人の男を思い出してほしいのです。それは、ステパノです。ステパノは石打ちの刑にあるとき、その死の水際で、こう祈りました。
たとえ弱い自分であったとしても、私たちは、自分のいのちを自分で握るような真似をせず、すべてをキリストに委ねる者としていくものとして、このいのちを大胆に主に捧げていこうではありませんか。そこにクリスチャンとしての真価があることを覚えたいと思うのです。アーメン。