ベツレヘムへの旅
聖書箇所 ルカによる福音書 2章1節-7節
2021年12月19日 礼拝
はじめに
アドベントの最終週を迎えることになりました。今週末はクリスマスということになります。今年もクリスマスは、コロナ禍の不安の中、キリストのご降誕を祝います。心からおめでとうと言うのがはばかれるような時代ではあります。じつは、イエス・キリストのご降誕も人類の歴史上、きわめて異例であり、とてもおめでとうと心から祝えるような時ではなかったのです。今回は、ヨセフとマリヤが皇帝アウグストゥスの勅令に従ってベツレヘムへの住民登録に関わる姿を見ていきたいと思います。
イエス・キリストの誕生の前夜
神のひとり子であるイエス・キリストの誕生は、世界を揺り動かす歴史的な出来事の一つでした。現在世界20億人の人々が信仰しているというキリスト教の創始者であり、教祖でもある彼は、世界を変えた一人として世界史に深く刻み込まれています。キリストの誕生は、新型コロナウイルスが蔓延すること以上の事件であると言っても過言ではないかとおもいます。ところが、その誕生を知る者は少なく、30人程度の人にしか知られていなかったようです。紀元前と紀元後を分けることとなった世界史を変える事件の割には、そのベツレヘムという寒村での誕生は静かで誰の目にも留められることはなかったのです。
人々は、そんなことよりも、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令に従うことが精一杯であったわけです。その勅令とは、先祖の出身地に戻り、住民登録をするというものでした。日本で言うならば、さしずめ本籍地に戻り、その本籍の役所に出向き、戸籍を登録するということになるかと思います。
そもそも、ヨセフとマリヤは、シリヤとの国境に近いナザレの地の住民でした。ベツレヘムへは、距離にして、140キロあります。しかも、その登録までには、山道を経由しなければなりません。イスラエルという国は、標高はそれほどではないのですが、山の頂に街があり、稜線上に街道が走るという国情があります。イスラエルの首都エルサレムは、標高800メートルの山の頂にある街ですから、おおよそ想像ができるのではないでしょうか。
ところで、ナザレの町は標高400メートル 。一方、ベツレヘム は、パレスチナ中央山脈の標高775メートルの頂きの上にある町でした。ヨセフと臨月のマリヤは、いわばトレッキングをしながらベツレヘムに向かったということです。トレッキングを経験した人ならわかると思いますが、臨月を迎えた人が行うものではありません。もちろん、ヨセフは考えて、ロバに乗せて旅をしたものと思いますが、道中の登山にも近い旅は想像以上に過酷ではなかったかと思います。しかも、ベツレヘムに到着しましても、すでに各地から集った住民登録をしようとする人々で宿は埋まっておりました。さらには、宿には出産を控えた女性は泊まらせないという規則であったようなので、ヨセフの宿探しは困難を極めました。
余儀ない出産
ようやく探し求めて提供された宿先は、家畜小屋でありました。小屋とは書いてありますが、私たちが想像するような家畜小屋ではなく、横穴を掘っただけのものであったと言われております。つまり、洞穴に家畜が逃げられないように正面が檻となっているようなものであったようです。内部は、湿気はもとより、家畜の糞や悪臭に満ちていました。どんなに清潔にしてあったとしても、鼻を覆わなければならないような臭いと、出産するためにこれ以上無いほどの劣悪な衛生環境に二人は戸惑ったものと思いますが、産気づいたマリヤにとってこの場所以外に出産できる場はなかったのです。
神の選びという言葉がありますが、神は、我が子イエス・キリストの誕生にあたって、最悪の環境で生まれてくることを決めておられたということに違和感を持たざるを得ません。我が子であれば、最高の環境のもとで安全に健やかに育ってほしいとの願いを込めて、最善の環境を親は選択すると思うのです。しかしながら、父なる神はそうしなかったというところに疑問を持ちます。
追い込まれていく一方のヨセフとマリヤ
なぜ、そのような環境に父なる神は我が子を追い込んだのでしょうか。マリヤにとっても、ヨセフにとってもキリストの懐妊から誕生にいたるまで、状況は刻一刻と悪化の一途をたどるわけです。婚前交渉の疑い、姦淫の疑い、周囲の疑問、嘲けり、噂等々あったかもしれません。そうした周囲の疑いに耐え、二人はこうした逆境に対して手を携え、イエス・キリストの誕生を待ちました。当然、ナザレの地でイエスを産む予定であったかと思います。しかし、突如としてローマ皇帝の勅令があり、臨月を迎えたマリヤはベツレヘムへの移動を余儀なくされました。つまり、二人にとって寝耳に水の出来事であったわけです。ローマ皇帝の命令ですから、たとえ、どんな事情があろうとも従わなければならない。もし、仮に従わないとなれば、ローマの兵隊に殺されてしまうという恐れすらあったわけですから、なんとしてもベツレヘムに向かわなければならなかったのです。こうした政治的な情勢に振り回されているかのような二人、逆境に次ぐ逆境に二人は翻弄されて行くわけですが、その背景には神のみこころが隠されていました。
人には計り知ることのできない神の御心
神の御心は、こうでした。我が子イエス・キリストをこの世に遣わすためには、人間の視点からすれば、ありえない、最低の誕生であったわけですが、それは、神がすでに決定していたことでありました。神は、その御心を変えないとありますが、人間的に不都合、状況が整っていないとしても、神は御心の実現を達成するお方だということです。
御心のためならば
前にも紹介したとおり、ヨセフにしても、マリヤにしてもイエス・キリストの懐妊は決して喜ぶことができない状況にあったということでした。むしろ、二人にとっては禍いでありました。ところが、二人は禍いを拒むことすらできる猶予があったのにも関わらず、御心として受け止めていきました。そうした観点から見ていきますと、翻弄されているように思える二人の困難は、二人の選択の結果というべきことでもあります。
神の御心に従う決断をした二人は、二人に平安をもたらすどころか、ベツレヘムに向かう険しい山道は二人の行く先を暗示しているかのようでした。まさに、困難な人生をもたらす結果を招いたというのが、ベツレヘムへの旅でした。しかし、この二人の決断がなければ、世界の人々の救い主イエス・キリストの誕生はなかったのです。二人が御心に従うという困難な道を選択したことで、世界史を変える出来事が始まったのです。二人がもし、御使いの要求を拒んだとしたら、クリスマスは成立しなかったでしょう。神の御心を受け入れていく、こうした決断に二人の信仰の強さを見ることができます。
一人として滅びることがないように
二人にとってのクリスマスは、普通の人が受けるような出産の幸福な環境からはかけ離れてはいました。むしろ、虐待に近い環境でした。父なる神も自分の御子イエスが、家畜の糞尿、よだれにまみれた飼い葉桶に寝かされることを喜んだかというと、そうは思えません。親の経験がある方ならきっとそのように思うはずです。イエス・キリストがユダヤ人の王なら、王宮のベッドで寝かされてほしいと願うはずです。しかし、父なる神はそうしなかった。ユダヤ人の王としてお生まれになる方は、家畜小屋で生まれることがミカ書に記されている通り、『永遠の昔からの定め』であったという理由です。それは、すべての人を救うために人間の頂点として君臨するのではなく、すべての人の最底辺から立ってくださったということです。すなわち、あらゆる人に仕えるために、神自らがこの地上に降りてくださったことを受肉と言いますが、
仕え尽くしたイエス
世界が創造される初めから父なる神とともにおられた子なるイエス・キリストが受肉されたことは、驚くべきことです。しかも、君臨ではなく、仕える者の姿をとられたということがもっと驚くべきことです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)とバプテスマのヨハネがイエス・キリストを目撃したときに感嘆して指さしましたが、バプテスマのヨハネ以外、イエス・キリストを見ても誰も神の子として気が付きませんでした。そのことに気がついたバプテスマのヨハネの眼力の鋭さに驚きを持ちますが、それ以上に、神でありながら、人の姿を取り、誕生の時から人に仕える姿を取られたこと自体が驚異的なことです。
いかなる人も救われるために
キリストのこうした人間としての最低の誕生があったのかといいますと、それは、クリスチャンへの模範・手本として、徹底的な謙卑の姿を示すことで、キリストに倣う姿を示す必要があったこと、また、いかなる人間であろうともイエス・キリストよりもひどい誕生はほとんど無いわけですから、どの人も救われる可能性があることを神は具体的に示しているということです。
私たちへの最高の贈り物
イエス・キリストは、神が人類に与えた最高のプレゼントです。しかも、そのプレゼントは、誰もが無償で、拒まなければ誰もが受けることができる贈り物です。その方を受け入れることができるように、大所高所から神は救いを提供したのではない、最底辺からしんがりとなって私たちに分け与えてくださっているものです。
本来ならば、私たちは、創造主にあたるイエス・キリストをひれ伏して礼拝しなければならない存在です。しかし、神自らがへりくだって、私たちにプレゼントを用意してくださっているのです。それが救いです。それは、神の子とされること、永遠のいのちが与えられること、罪が赦されるということに要約できますが、こうしたプレゼントをイエス・キリストのいのちと引き換えに私たちにもたらされているのです。
恵みに感謝する
神は、私たちが願うような、自己実現の達成や、欲や願望の実現を目指したのではありません。礼拝されるべきお方であるのにも関わらず、自分を差し出し、私たちを陰から支えてくださる裏方に徹してくださった。その出来事がクリスマスです。イエス・キリストは私たちに君臨する方ではありません。自分を本当に正しく治め、導き、守り、支えてくださるお方です。つまり、謙遜をもって私たちのそばにいてくださるお方です。そのお方の前に膝をかがめることが真の人生の目的です。つまり礼拝です。この礼拝が私たちの人生に本当の喜びを与えるのです。自分が王となって君臨することではなく、私たちが喜んで人生を歩み、暗闇の中でも光を見つめて生きていくことができる力は、私たちを救ってくださるお方を礼拝する喜びからこそ来るのです。
飼い葉桶への道
ヨセフとマリヤは、困難が続く旅を続けていったと思います。しかし、彼らは、不安や困難よりも恵みに感謝し、神を礼拝を絶やさなかったことが困難を乗り越える力でした。人間は、ひれ伏して拝むべき方のもとへと導かれる時、私たちは本当の喜びに生きることができるのです。 二千年前、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストは、私たちのために、苦しみを引き受け、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださった方です。神が、命がけで私たちを愛し、導いてくださる、その恵みがイエス・キリストにおいて示されています。このユダヤ人の王は、その恵みによって私たちを治めるためにこの世に来てくださったのです。神の光に導かれ、神を求める思い、キリストを求める思い、天からのものを慕い求める思いをもって、ヨセフやマリヤのように単純で純粋な心をもってベツレヘムに向かおうではありませんか。
ベツレヘムに向かう道は、困難があります。物理的にでもありますし、もっとも困難なことは、私たちの心にあります。神が処女マリヤを通して受肉したということへの理解が信仰への大きな壁になります。単純に信じることなんかできない。それが普通の人の考えです。
しかし、イエス・キリストは私たちを救うためにお生まれになったと単純に信じることが、神のプレゼントを受け止める秘訣です。
ぜひ、ベツレヘムの飼い葉桶に行きましょう。そこで礼拝するのです。飼い葉桶の中には、本当の喜びへの答えがあります。その喜びを私たちも味わいつつ、新しい年へと歩み入だしていきましょう。