あなたの何が基準ですか
マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」ヨハネ11章24節
λέγει αὐτῷ ἡ Μάρθα, Οἶδα ὅτι ἀναστήσεται ἐν τῇ ἀναστάσει ἐν τῇ ἐσχάτῃ ἡμέρᾳ.
引用箇所:ヨハネによる福音書11章から
■ はじめに
今年のイースター(復活祭)は4月17日です。イースターに向けて、今回から受難と十字架について取り上げていきます。今回は、ヨハネの福音書11章からイエス・キリストの十字架刑の直接的な原因であるラザロの復活を見ていきたいと思います。そこで浮かび上がるのは、私たちの生きる基準です。何に価値観を置き、何に依存しているのか。ラザロの復活を通して、私たちの信仰を見つめ直して生きたいと思います。
■ マルタとマリヤその兄弟ラザロ
ところで、11章には、マリヤ、その姉妹マルタ、そしてその兄弟ラザロという三人の兄弟姉妹が登場します。
マリヤという人物ですが、マリヤはイエスの母もおなじマリヤであるので、わかりやすくご紹介しますと、ベタニヤのマリヤとして紹介されている女性です。このマリヤはエルサレム近郊、オリーヴ山の南東麓に位置していた村です。その村の名前を冠して、ベタニヤのマリアと呼ばれています。このマリヤとマルタの姉妹は、しばしば教会のメッセージに取り上げられ、よく知られた信徒たちですが、このヨハネの福音書11、12章とルカによる福音書10章に取り上げられるのみです。知られているようで、実はあまり聖書に取り上げられていないのですが、5節を見ますと、この主イエスは彼らを深く愛していたことがわかります。
彼らと主イエスとの出会いは、主イエスがユダヤ伝道の折りにこの村を訪れたのがきっかけと思われます。しばしば、主イエスは、エルサレム神殿に礼拝に訪れる時の宿として泊まらせてもらっていたようです。
彼らのエピソードのなかで最も有名な箇所として、ルカの福音書の10章のエピソードがあります。その内容とは、食卓を囲むなかで、御言葉を語りますが、マリヤはイエスの足もとに座り、主のみことばに聞き入るのですが、忙しなく姉のマルタは、イエスと使徒たちを迎えるために給仕をするために働いていました。マルタとしては自分は働いているのに、妹マリヤは何もしないで主イエスの話ばかり聞いている。姉の苦労も知らずにと不満を主イエスにぶちまけます。
ところが、イエスは、マリヤのみことばを聞く態度は最も大事なことであるとして、マルタを諭す場面があります。こうしてみますと、彼らとは表面的な付き合いではなく、彼らとの交流が深く刻み込まれていることが伺えます。
■ ラザロの死に際して
こうした深い関係性をもったマルタとマリヤ、ラザロの家族でしたが、突如として問題が起こります。ヨハネによる福音書11章3節を見ますと次のように記されています。
ラザロが病気になったという知らせがマルタとマリヤの家の使いがイエスのもとに伝えられます。ところが、イエスはその伝令を聞いたときに、ラザロの死を暗示する言葉を語ります。
使いの伝令を聞いたときには、すでにラザロは死んでいたと思われます。
マルタとマリヤは、主イエスが病を癒やしてくださるに違いないと思い、ラザロの病が治癒するようにと使いを遣わしたのですが、遅れでありました。
ところで、ここで奇妙なことがあります。師といえども通常ならば、重要な弟子であったマルタとマリヤの使いの知らせを聞いたときに即座に向かうというのが筋かと思います。すでにラザロが死んだことを知っていたにしても、すぐに行動を起こすというのが師の態度であると普通考えるところですが、イエスはそうしなかったのです。
死による腐敗
イエスが、マルタとマリヤのもとを訪れたのは、ラザロの葬儀も終わり、墓に納められてから4日も経過した時でありました。ちょうど過ぎ越しの祭りの前ですから、時期的には、現在の3月頃でしょう。気温的にも東京と変わらない温度を示すことから、死んでからまだそれほど腐敗も進んでいなかったと思うところですが、そうではないようです。
死体が腐敗し始めるのは、割と早い段階だそうで、
■ 死んだら生き返らないと普通は考える
確実に言えることは、墓に納められて4日経過したということは、生前の姿が失われ、顔には浮腫が浮かび、細胞は腐敗し、生き返るという可能性
は完全にゼロでありました。
こうして、イエスは村を訪れます。マルタとマリヤ、その周囲の人々は、ラザロの死を悲しみ、喪に服しています。家族の者を亡くしたマルタとマリヤの悲しみは深かったと思います。イエスに会ったマルタとマリヤの二人とも、もっと早くイエスが来てくれれば死ななくて済んだに違いないと言います。
私たちの癒やしに対する気持ちは、マルタとマリヤが代弁しているとおりです。癒やしというのは、生きているときにしかないもの。死んでしまったら癒やされることはない、決して元にはもどらないという思いです。
信仰を持っていたにしても、私たちもマルタとマリヤのように、死に対する観念というものは変わらないのではないでしょうか。
イエスを前にして、マルタはこう言います。
彼女の答えは、一つの信仰告白です。しかしながら、表面上は立派な信仰の姿を示してはいても、本音においては死に対する失望を見て取れます。彼女の心は、死というものは不可逆的な事実だという考えに固く縛られていますが、主イエスを前にして、彼がかつて語っていた御言葉を思い出し、形式だけの告白を行っていますが、それは彼女が今抱いている気持ちを完全に満足させるものではありませんでした。
例えれば、試験問題に模範解答を書いたものの、その解答に釈然としない思いを抱くようなものです。
私たちもどうでしょうか。クリスチャンの人が亡くなった時、墓のそばに立って、彼女の失望や悲しみを感じることがあります。
このような信仰の知識は私たちの心の深い悲しみを取り除く力はありません。
■ 私たちの死への常識に憤るイエス
こうした、多くのクリスチャンが抱く死への思いに対して、主はどう考えておられるのでしょうか。
イエスは、こうした私たちの運命を諦める姿勢、死への諦念ということに関して、霊の憤りを覚えたとあるように、再三にわたって私たちに対して永遠のいのちを伝えたのにも関わらず、全く信じてもいない姿に憤りと動揺を掻き立てられたようです。
イエスは私たちの固定化された運命というものが、決して定まっているものではないことを、ラザロの復活によって示そうとしました。
イエスを信じる者は、死んでも生きる。
ということはお題目でもない、
これは事実であり、真実なのだということを証明するためにです。
そこで、イエスは、墓の入り口を塞ぐ石を取り除けるように伝えます。そうした指示に対してマルタは、墓を開いたところで意味がないのではないかと言うのです。
■ あえてラザロの復活を祈らなかった
イエスは、墓が開かれたのちに祈ります。その祈りは、ラザロが蘇るように祈ったのではありません。42節を見ますと、
ここで、大切なこととして覚えていただきたいのは、ラザロがよみがえること以上に、主の栄光が顕されることを祈ったということです。
人々が死で終わるものではなく、肉体の復活が事実であることを信じるためにラザロを用いたのであるということでした。
こうして、ラザロはよみがえり墓から出てきました。この奇蹟を見た人々はイエスを信じたとありますが、
繰り返しますが、最も大事なこととして、
イエスを信じる者は死んでも生きるということは事実であるということ
復活は思想や観念といった、小さな頭脳の枠の中でこしらえたことではないこと
以上のポイントをラザロを通してイエス・キリストは示してくれたのです。
■ 復活はだれもが喜ぶものではない
この奇蹟をある人たちは、当時のユダヤ人社会の思想的支配層であったパリサイ人たちに顛末を告げます。この情報は即座に祭司長たちにもたらされ議会が招集されます。それだけ、事が重大なことであったことを裏付ける証拠でしょう。
かつて、いままで、完全に死んだ人が息を吹き返すということはありませんでした。仮死状態にあった人が息を吹き返すという事例はあったでしょう。ところが、今回のケースは、腐敗した人間が息を吹き返すということです。
こうしたイエスの奇蹟を目の当たりにしたユダヤ教の支配層は、圧倒的な神の力を賛美するのでもなく、自分も復活の恵みにあずかりたいというのでもなかったのです。
彼らの思いは自分たちの国が存続すること、自分たちの権威や権力、地位、名誉、財産、生命が脅かされないことにありました。
自分たちの保身と恵まれた生活を維持するために、イエス・キリストの存在は邪魔だったのです。
イエス・キリストは本物の王であり、かつ救世主メシアでもあり、しかも神の子であることが、ラザロの復活によって事実であることが証明されたことで、
イスラエル神殿への礼拝を頂点とする、イスラエルという国家が偽りであり、その立役者であり、推進をしていた律法学者やパリサイ人たちは、神の権威を騙ったのに過ぎない、とんでもない詐欺師であったということが白日のもとにさらされる結果になるからでした。
こうしたことが、ユダヤ全土に拡がると、これは一種の革命状態にまで発展することは確実でした。体制の崩壊というのがイエスを前にして示されたわけですから、急遽議会が招集されるというのも理解できます。
イエスを十字架につけたのは誰か
ところで、みなさまにお尋ねしたいのですが、主イエスを十字架につけたのは、一体誰だったのでしょうか。祭司長、パリサイ人、律法学者という答えが浮かぶに違いありません。
テキストを読みますとそのとおりです。ところが、彼らが何を基準に生きていたのかを考えるならば、異なった見方になります。
イエスを十字架につけた祭司長、律法学者、パリサイ人たちというのは、この世(コミュニティ・国家)での常識と知識のなかに生きていた人たちでした。彼らは、ユダヤ教という信仰を持っていましたが、その信仰はこの世の知識と知恵(アイデンティティ)に裏付けられたものであり、その目的は、神の栄光や賛美が目的ではなく、
ユダヤ教というアイデンティティの枠のなかでの、正しさや幸せ、自己追求が目的であったのです。
こういう見方をするならば、決して祭司長や律法学者らの活動や生き方がおかしかったのではなく、ユダヤ教社会のなかで真面目に仕事に取り組み、国を支えていた人たちであり、私たちと何らかわることはないわけです。自己追求という枠組みのなかで彼らを評価するならば、私たちと同等、いや、それ以上の生真面目さで取り組んでいたと思うのです。
ところで、自己追求というものは、人間には終わりがあるという時間的な制約が前提になります。極論をいえば、生きている間に幸せになろう、生きている間に満足しよう、生きている間に楽しもうということです。それのどこが悪いという意見もあるかと思いますが、そのこの世での幸福を追求する生き方が、神を見えなくさせる原因であり、神の御業を見失うことの要因だから問題なのです。
これでもし、救われて復活の希望を見出しているならば、時間的な制約があるなかでの自己追及というものは必要はありません。
復活するということが事実であると確信しているならば、この地上のことよりも、自分の限られた人生での喜びよりも、からだの復活、永遠のいのち、天の御国という基準のほうが、言葉に言い尽くせないほどの素晴らしいものかを知るはずです。
私たちが現世という物差しでしか見ていないとすると、仮にイエスの十字架の場面にいたとしたら、おそらくイエスを十字架につけたに違いありません。
現世での欲望の追求、幸せの追求、自分の正しさの追求のためには、イエスは邪魔な存在になるからです。教会のためにあえて献金はしたくないし、日曜日に教会に行く必要もない。つまらないメッセージを聞きに教会にわざわざでかけることもしたくない。それよりも家にいてゆっくり過ごす、屋外に出て遊びに行くほうが自分をより健康的であり楽しい。自分の出世と経済の祝福のために日曜日の出勤は必要と考えます。
こうした考えが私たちの中心にあったらどうでしょうか。イエスは必要ないのです。
イエスは、こうした世の基準に染まった私たちを救うため、意識の変革こそが、ラザロの復活よりも重要であると考えていました。ラザロが復活すること以上に、私たちの常識からの解放こそが、神の栄光であるとラザロの復活の時のイエスの祈りに中にあると感じます。
さて、みなさまいかがでしょうか。
私たちの人生が短いこと、また、死後について私たちが深く考えるならば、主イエスを礼拝することが最も大事なことであり、
イエス以外に私たちの人生は考えられないはずです。
イエスは、そうした私たちの現世しか見ていない、考えていないライフスタイルに対してどう思われているのかを、しっかりと受難のときに考える必要があるでしょう。
わたしたちの基準は死からの復活にあることを覚えなければなりません。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。