ペテロ第一の手紙 2章16節 自由な人々として生きるとは
Ⅰペテロへの手紙 2:16
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。
自由人として エリューセロイ
ペテロは、クリスチャンを自由な人として行動するように伝えております。自由な人、自由人とは、私たちがなかなか想像しにくいものですが、直截的には、/ eleutheros( "free、解放された")は、ローマ市民となることに使用されました。
その反対がδοῦλος / doo'-los 正しくは、別の人に属する人。独自の所有権のない債券奴隷です。つまり、クリスチャンとなることは、当時の奴隷制経済の下にあったローマ帝国にあって、奴隷解放の教えとしてとらえられていたふしがあります。
ところで、聖書が語る自由とは、奴隷制の奴隷から自由人になるということではなく、罪からの解放を意味する言葉だということです。ここで、ペテロの語る自由 eleutheríaとは、神の愛の力を通して、信仰によって神が生まれる信念を生き抜く自由です。ここで私たちは神の力と喜びを知る最高の人生を実現するということです。
聖書では、自由であるということは、単に私たちが望むことをすることができるということではなく、私たちが神の御心をなすべきこと(神が私たちに望んでいること)を行う神の力を体験することです。神は信仰を与えることによって神の御心に心から従おうとする信者に心から促し、彼らが「彼の愛を通して」行動することができるようにします。これが、従うということ従順です。(ガラ5:1-6を参照)。
したがって、聖書は真の自由と信仰を結びつけています。
キリストにあって自由であることは、人生の困難な時に神の喜びを体験することを可能にします。どうしてそのようなことが可能となるのでしょうか。それは、クリスチャンがもはや世のものでなく天のものとされているため、地上の結果に縛られる必要がないからです。
真に自由な人とは、状況に関係なく、人生のあらゆる場面で等しく永遠や天の御国の意味を経験している人です。従順な信者は、自由に生きることによって、つまり信仰を通して、人生の様々な局面で等しく永遠や天の御国を経験します(Ⅱペテロ1:1,2参照)。
悪の口実 エピカリュンマ エコンテス テース カキアス
こうして、クリスチャンは、真の自由を得たのですが、御言葉を聞いて、ある奴隷であったクリスチャンは、自由の意味を履き違えたようです。奴隷制の中にあって、奴隷から解放されると思った奴隷の信徒も多かったようです。実際、奴隷の主人が信仰に入り、そこで使用されていた奴隷が信仰に入るということも起こってきました。教会は身分や役職の優劣はありません。すべてのクリスチャンは兄弟姉妹ですから、社会において、主人と奴隷という身分差はあったとしても、教会の内部では兄弟姉妹ということになります。私たちは、世から分離されているから、ローマ帝国社会での制度に対して従う必要がないと考えるクリスチャンもいたのです。こうした、考えをペテロは、ἐπικάλυμμα ἔχοντες τῆς κακίας エピカリュンマ エコンテス テース カキアスと語りました。新改訳では、『悪の口実』と訳していますが、私は、『悪意の覆い』と訳したほうがふさわしいかと思います。なぜ、そう考えるのかと言いますと、信仰者は、世の法律や制度よりも御言葉を優先させたいと思うでしょう。ところが、世の法律や制度が信仰生活にふさわしくないとするならば、御言葉を優先して生きるべきだと考えるのは当然のことかと思います。しかし、ここで問題になるのは、先に挙げた、主人と奴隷がクリスチャンになった場合、奴隷制が無効になるのかという問題です。現代の私たちからすれば、奴隷制はナンセンスですが、当時の制度や法からすれば問題ないことでした。ところが、御言葉の原則が当時の制度や法を上回る場合が生じたとき、どうクリスチャンは対応したらよいかという一定の線引を行ったと思われます。
御言葉がこう言っているから、私は御言葉に従います。ということは信仰者としては立派なことであるかと思いますが、自分の立場を擁護するために、御言葉を用いて、原則はこうだと主張するのは問題だということです。クリスチャンは、声高に自分たちの権利を主張する者たちではありません。あくまでも、この世にあって、私たちは主の奴隷であることを覚えなければなりません。つまり、私たちは自分の権利を主張し、行使するために自由を得たのではないということです。自分の権利を主張し、行使することをペテロは、κακίας カキアスとしています。カキアスには、法律を破ることを恥じない邪悪という意味があります。つまり、クリスチャンは、たとえそれが悪法であったとしても、法律や制度を破ってはならないということです。
奴隷とは ドゥーロス
こうして見てくると、自由人というのは、決してこの世にあって、何でもかんでも自由にされているということではないことが理解されたかと思います。聖書の言うところの自由とは、自分のために用いるということではないのです。自分たちを縛る、束縛する法律や国家、主従関係、家族関係等々…しがらみに満ちたこの世界からの解放ではありません。また、自分の権利を声高に主張するというものでもありません。ペテロは、こうしたしがらみに満ちた世界を変革しようとして自由を使ったのでもありません。ペテロは、こうしたしがらみに満ちた人々を縛る制度や法の中に、神の御心を見ておりました。
制度や法の中に神の御心があり、神の保護がそうした法や制度の基盤にあるということを私たちは覚えなければなりません。そうした中にあって、私たちは、喜んで仕えることが求められているのです。それが、自由を得た奴隷としてのクリスチャンの生きる姿勢であり、クリスチャン倫理ということでしょう。奴隷と聞くと嫌だと思う人も多いかと思います。私も嫌でした。ところが、奴隷ということばドゥーロスは、キリストの血を犠牲にして彼の花嫁として彼に属し、彼の体の一部となった人です(1コリント12:13とエペソ5:25-32を参照)。および黙示録19:1-9)。この両者の愛の関係の親密さは、奴隷制という財力が基本の概念を超越しています。イエスご自身が、地上に滞在している間、神の子が受肉したことをもって、奴隷としての役割を果たしました(マタ20:27)。
しかも、十字架の苦しみがあったにせよ、キリストは喜んで引受けてくれたのです。最終的には、復活という死からの自由を私たちに示したのでありますが、そこに至るまでには、キリストの完璧な従順の姿があったことを忘れてはなりません。
自分の欲のため、自己主張の裏付けとして御言葉を使ってはなりません。
悪の口実 エピカリュンマ エコンテス テース カキアス
こうして、クリスチャンは、真の自由を得たのですが、御言葉を聞いて、ある奴隷であったクリスチャンは、自由の意味を履き違えたようです。奴隷制の中にあって、奴隷から解放されると思った奴隷の信徒も多かったようです。実際、奴隷の主人が信仰に入り、そこで使用されていた奴隷が信仰に入るということも起こってきました。教会は身分や役職の優劣はありません。すべてのクリスチャンは兄弟姉妹ですから、社会において、主人と奴隷という身分差はあったとしても、教会の内部では兄弟姉妹ということになります。私たちは、世から分離されているから、ローマ帝国社会での制度に対して従う必要がないと考えるクリスチャンもいたのです。こうした、考えをペテロは、ἐπικάλυμμα ἔχοντες τῆς κακίας エピカリュンマ エコンテス テース カキアスと語りました。新改訳では、『悪の口実』と訳していますが、私は、『悪意の覆い』と訳したほうがふさわしいかと思います。なぜ、そう考えるのかと言いますと、信仰者は、世の法律や制度よりも御言葉を優先させたいと思うでしょう。ところが、世の法律や制度が信仰生活にふさわしくないとするならば、御言葉を優先して生きるべきだと考えるのは当然のことかと思います。しかし、ここで問題になるのは、先に挙げた、主人と奴隷がクリスチャンになった場合、奴隷制が無効になるのかという問題です。現代の私たちからすれば、奴隷制はナンセンスですが、当時の制度や法からすれば問題ないことでした。ところが、御言葉の原則が当時の制度や法を上回る場合が生じたとき、どうクリスチャンは対応したらよいかという一定の線引を行ったと思われます。
御言葉がこう言っているから、私は御言葉に従います。ということは信仰者としては立派なことであるかと思いますが、自分の立場を擁護するために、御言葉を用いて、原則はこうだと主張するのは問題だということです。クリスチャンは、声高に自分たちの権利を主張する者たちではありません。あくまでも、この世にあって、私たちは主の奴隷であることを覚えなければなりません。つまり、私たちは自分の権利を主張し、行使するために自由を得たのではないということです。自分の権利を主張し、行使することをペテロは、κακίας カキアスとしています。カキアスには、法律を破ることを恥じない邪悪という意味があります。つまり、クリスチャンは、たとえそれが悪法であったとしても、法律や制度を破ってはならないということです。
奴隷とは ドゥーロス
こうして見てくると、自由人というのは、決してこの世にあって、何でもかんでも自由にされているということではないことが理解されたかと思います。聖書の言うところの自由とは、自分のために用いるということではないのです。自分たちを縛る、束縛する法律や国家、主従関係、家族関係等々…しがらみに満ちたこの世界からの解放ではありません。また、自分の権利を声高に主張するというものでもありません。ペテロは、こうしたしがらみに満ちた世界を変革しようとして自由を使ったのでもありません。ペテロは、こうしたしがらみに満ちた人々を縛る制度や法の中に、神の御心を見ておりました。
制度や法の中に神の御心があり、神の保護がそうした法や制度の基盤にあるということを私たちは覚えなければなりません。そうした中にあって、私たちは、喜んで仕えることが求められているのです。それが、自由を得た奴隷としてのクリスチャンの生きる姿勢であり、クリスチャン倫理ということでしょう。奴隷と聞くと嫌だと思う人も多いかと思います。私も嫌でした。ところが、奴隷ということばドゥーロスは、キリストの血を犠牲にして彼の花嫁として彼に属し、彼の体の一部となった人です(1コリント12:13とエペソ5:25-32を参照)。および黙示録19:1-9)。この両者の愛の関係の親密さは、奴隷制という財力が基本の概念を超越しています。イエスご自身が、地上に滞在している間、神の子が受肉したことをもって、奴隷としての役割を果たしました(マタ20:27)。
しかも、十字架の苦しみがあったにせよ、キリストは喜んで引受けてくれたのです。最終的には、復活という死からの自由を私たちに示したのでありますが、そこに至るまでには、キリストの完璧な従順の姿があったことを忘れてはなりません。
自分の欲のため、自己主張の裏付けとして御言葉を使ってはなりません。
適 用
自分の権利を履き違えないようにしよう
クリスチャンとして、私たちは自分の信仰を尊重しながらも、社会のルールや法律を守ることが求められます。例えば、あるクリスチャンが日曜日は休日とするべきだと信じているとします。しかし、彼の職場では日曜日にも仕事をすることが求められています。この場合、彼は自分の権利を主張し、日曜日に仕事をしないという行動をとることは、法律や制度を破る行為となり、クリスチャンの教えに反することになります。
しかし、一方で、信仰が著しく侵害されると感じる場合、私たちは主の教えを最優先にする必要があります。つまり、世に振り回されること以上に、自分と主との関わりを最優先にすることが求められます。これは、自由を得た奴隷としてのクリスチャンの生きる姿勢であり、クリスチャン倫理ということです。
したがって、クリスチャンは自分の信仰を持ちつつも、社会の中で生きるためのバランスを見つけることが求められます。それは、自分の信仰を尊重しつつ、社会のルールや法律を守ること、そして何よりも主との関わりを最優先にすることを意味します。
これが、上記の教えの一つの具体的な適用例となります。このように、クリスチャンは自分の信仰を大切にしながらも、社会の中でバランスよく生きることが求められます。これが、クリスチャンとしての生き方です。この教えを心に留め、日々の生活に生かしていきましょう。これが、私たちが求められているクリスチャンとしての生き方です。神の御心が私たちを導き、私たちの行動が神の御心に合致するように祈りましょう。それが、真の自由を得た奴隷としての生き方です。神の恵みと平安が、私たち一人一人に与えられますように。アーメン。
聖書対訳
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。Ⅰペテ 2:16
自由な人として行動し、あなたの自由を悪の覆いとして使うのではなく、それを神の奴隷として使いなさい。NASB Ⅰペテ 2:16
自由人として、自由を悪意の覆いとして用いるのではなく、神の僕として用いなさい。KJV Ⅰペテ 2:16