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ペテロ第一の手紙 2章16節     自由な人々として生きるとは



Ⅰペテロへの手紙 2:16
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。

はじめに

私たちは「自由」という言葉に、どれほど魅了されてきたでしょうか。束縛からの解放、制限のない生活、思い通りに生きること―多くの人がそんな自由を夢見、追い求めてきました。しかし、キリスト教信仰が語る「自由」は、私たちの一般的な理解をはるかに超えた、より深い意味を持っています。

古代ローマ社会において「自由人」(エレウテロス)と呼ばれた市民たちと、「奴隷」(ドゥーロス)として生きた人々。この歴史的な文脈の中で、初代教会は驚くべき逆説を示しました。それは「キリストの奴隷となることによって得られる真の自由」という教えでした。

今日の私たちが抱える様々な束縛―仕事、人間関係、社会的責任、あるいは内なる不安や恐れ―の中で、この「真の自由」という概念は、新鮮な光を投げかけてくれるのではないでしょうか。

使徒ペテロとパウロが語った自由の本質を探りながら、現代を生きる私たちにとっての「真の解放」とは何かを、共に考えていきたいと思います。

キリストにある真の自由 ――eleutheria(エレウテリア)の霊的意味――

キリスト教における「自由」という概念について、深く考察してみましょう。

使徒ペテロは、クリスチャンに対して自由な人として行動するように勧めています。この「自由な人」(eleutheros)という言葉は、古代ローマ社会においては、主にローマ市民権を持つ者を指す言葉として使用されていました。その対極には「奴隷」(doulos)という存在があり、これは他者に所有される者、自らの権利を持たない債務奴隷を意味していました。

この歴史的背景から、初期のキリスト教は当時のローマ帝国において、ある種の解放の教えとして受け止められていた可能性があります。しかし、重要なのは、聖書が語る「自由」が単なる社会的な奴隷制からの解放を意味するものではないということです。それは、より根源的な「罪からの解放」を指し示しているのです。

ペテロが語る自由(eleutheria)とは、神の愛の力を通して、信仰によって生きる自由を意味します。この自由において、私たちは神の力と喜びを知る最高の人生を実現することができます。注目すべきは、この自由が単に「望むことを行える」という放縦な自由ではなく、神の御心を行う力を体験することだという点です。神は信仰を与えることによって、御心に従おうとする信者を導き、その愛を通して行動する力を与えてくださいます。

この真理は、ガラテヤ人への手紙5章1-6節で明確に示されています。パウロは「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」と述べ、律法主義に陥ることへの警告と共に、信仰による自由の本質を説いています。ここでパウロは、形式的な儀式や規則ではなく、「愛によって働く信仰」こそが重要であることを強調しています。

このように、聖書は真の自由と信仰を密接に結びつけています。キリストにある自由は、人生の困難な時にあっても神の喜びを体験することを可能にします。なぜなら、クリスチャンはもはや世のものではなく天のものとされており、地上の結果に縛られる必要がないからです。

真に自由な人とは、どのような状況にあっても、人生のあらゆる場面で永遠や天の御国の意味を等しく経験できる人です。従順な信者は、この自由な生き方を通して、様々な局面で永遠の価値を見出すことができます。

第二ペテロ1章1-2節が示すように、この自由は神とイエス・キリストを知ることによって与えられ、その知識によって恵みと平安が豊かにされていくのです。これこそが、キリスト教が説く本質的な自由の意味なのです。

自由の誤用と真理 ――「エピカリュンマ」が問いかけるもの――

初期教会において、キリストによる真の自由を誤って解釈してしまう事例が見られました。特に、奴隷制度の中で生きていた信徒たちの間で、この誤解が顕著でした。彼らの中には、キリスト教の信仰によって社会的な奴隷制からも解放されると考える者たちがいたのです。

この状況は、奴隷の主人とその奴隷の両方がキリスト教信仰に入る事例が増えてきたことで、より複雑になりました。教会内では全ての信徒が兄弟姉妹として平等であり、身分や地位による差別はないとされていましたが、これが社会制度との間に緊張関係を生むこともありました。

使徒ペテロは、この問題に対して「ἐπικάλυμμα ἔχοντες τῆς κακίας」(エピカリュンマ エコンテス テース カキアス)という言葉を用いて警告を与えています。これは一般に「悪の口実」と訳されますが、「悪意の覆い」という訳出も、その本質的な意味をより良く表現しているかもしれません。

なぜこの解釈が重要かというと、信仰者は往々にして御言葉を世の法律や制度よりも優先させたいと考えるからです。確かに、世の制度が信仰生活と相反する場合、御言葉に従って生きることを選択するのは自然な反応でしょう。しかし、ここで注意しなければならないのは、この原則を自分の立場や権利を主張するための口実として用いてはならないということです。

ペテロが「κακίας」(カキアス)という言葉で指摘しているのは、まさにこの点です。この言葉には、法律を破ることを恥じない邪悪さという意味が含まれています。つまり、たとえその法律が不完全なものであったとしても、クリスチャンは社会の法律や制度を軽んじてはならないということを教えているのです。

特筆すべきは、キリスト者が制度に従う際の姿勢です。それは「自由人として」従うことを求められています。これは単なる強制的な服従ではなく、神に仕える精神から生まれる、喜びを伴った自発的な服従を意味します。

このように、キリスト教的自由は、社会制度からの無秩序な解放を意味するものではありません。むしろ、私たちはこの世にあって主の僕として生きることを覚えるべきなのです。つまり、自由は自分の権利を主張し行使するために与えられたのではなく、神の御心に従って生きるために与えられたものなのです。

この教えは、現代のクリスチャンにとっても重要な指針となります。私たちは社会の中で、信仰と制度との適切なバランスを保ちながら、真の自由を実践していく必要があるのです。

キリストの奴隷としての自由 ――ドゥーロスの深い意味――

キリスト教における自由の本質を考察していくと、それが世俗的な意味での無制限の自由とは全く異なることが明らかになってきます。聖書が語る自由とは、決して自己中心的な欲求を満たすためのものではありません。また、この世界の様々な束縛―法律や国家、主従関係、家族関係などのしがらみ―からの単なる解放を意味するものでもありません。

使徒ペテロの教えによれば、これらの社会的な制約の中にこそ、神の御心を見出すことができます。G.アーチャーが述べたように、「私たちは同意しますが、神はすべての達成を行います。私たちはそうしますが、神は働きます。私たちは好みますが、神だけが本当に実行します!」という姿勢が重要なのです。

私たちは、社会の制度や法の基盤に神の保護が存在することを認識する必要があります。そして、自由を得た奴隷(ドゥーロス)として、これらの制度の中で喜んで仕えることが求められているのです。これこそが、クリスチャンとしての生き方であり、クリスチャン倫理の本質と言えるでしょう。

「奴隷」(ドゥーロス)という言葉は、一見すると否定的な印象を与えるかもしれません。しかし、この概念は単なる所有関係を超えた深い霊的意味を持っています。キリストの血によって贖われ、その花嫁として彼に属し、彼の体の一部となった者を指すのです(第一コリント12:13、エペソ5:25-32、黙示録19:1-9参照)。この関係性は、単なる経済的な奴隷制の概念をはるかに超えた、深い愛の絆を表現しています。

イエス・キリストご自身が、地上での生涯において奴隷としての役割を完全に体現されました。マタイによる福音書20章27節にある「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」という言葉は、このことを如実に表しています。さらに注目すべきは、キリストが十字架の苦しみさえも喜んで受け入れられたという事実です。確かに最終的には復活という死からの解放を示されましたが、そこに至るまでの完璧な従順の姿を私たちは決して忘れてはなりません。

このような理解に立つとき、私たちは御言葉を自分の欲望や自己主張の正当化のために用いるという誤りを避けることができます。真の自由とは、キリストへの従順を通して実現される、より高次の自由なのです。それは自己中心的な解放ではなく、神の御心に従う喜びの中に見出される真の解放なのです。

適 用

自分の権利を履き違えないようにしよう
クリスチャンとして、私たちは自分の信仰を尊重しながらも、社会のルールや法律を守ることが求められます。例えば、あるクリスチャンが日曜日は休日とするべきだと信じているとします。しかし、彼の職場では日曜日にも仕事をすることが求められています。この場合、彼は自分の権利を主張し、日曜日に仕事をしないという行動をとることは、法律や制度を破る行為となり、クリスチャンの教えに反することになります。

しかし、一方で、信仰が著しく侵害されると感じる場合、私たちは主の教えを最優先にする必要があります。つまり、世に振り回されること以上に、自分と主との関わりを最優先にすることが求められます。これは、自由を得た奴隷としてのクリスチャンの生きる姿勢であり、クリスチャン倫理ということです。

したがって、クリスチャンは自分の信仰を持ちつつも、社会の中で生きるためのバランスを見つけることが求められます。それは、自分の信仰を尊重しつつ、社会のルールや法律を守ること、そして何よりも主との関わりを最優先にすることを意味します。

このように、クリスチャンは自分の信仰を大切にしながらも、社会の中でバランスよく生きることが求められます。これが、クリスチャンとしての生き方です。この教えを心に留め、日々の生活に生かしていきましょう。これが、私たちが求められているクリスチャンとしての生き方です。神の御心が私たちを導き、私たちの行動が神の御心に合致するように祈りましょう。それが、真の自由を得た奴隷としての生き方です。神の恵みと平安が、私たち一人一人に与えられますように。アーメン。

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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。