棘と土の器 Ⅱコリント人への手紙4:7-15
2024年2月11日 礼拝
Ⅱコリント人への手紙4:7-15
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
4:13 「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
タイトル画像:Engin AkyurtによるPixabayからの画像
はじめに
『なくて七癖、あって四十八癖』とは、人は多かれ少なかれ、癖を持っているということ。単に『なくて七癖』とも言いますが、一見して癖がなさそうな人でも七つ、癖の多そうに見える人には四十八もあるという意味だそうです。人間には癖が多いものだが、とかく他人の癖は目につきやすく、自分の癖には存外自分で気づかない。だから、自分自身には他人以上の癖があると心得なければいけないという諺ですが、こうした諺以上に、私たちは、神が喜ばれないものをたくさん抱えています。今回は、パウロがどうしても取り去りたかった『とげ』という存在について見ていくとともに、その意味を考えていきたいと思います。
証しにならない使徒
Ⅱコリントの前回の部分では、パウロは使徒職の栄光を話しました。
ところが、そういう栄光に満ちた働きの一方で、実際のパウロの姿は、弱さと苦難に満ちていました。パウロの弱さとは、どういうものであったのかといえば、それを『とげ』と呼び、常に苦しんでいました。
私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです
Ⅱコリント12:7
パウロの『とげ』とは一体何であるのかということについては諸説あり、それが一体何であるかは、想像の域を出ませんが、おそらくは、人々が見て奇異に思われる病気であったのではないかと想像できます。
彼が持っている特異な体質あるいは病気が、福音の伝道をするときに嘲弄される原因にならないかと、ひどく心配していたことは事実でした。
「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました」 ガラテヤ人への手紙4:13-14
パウロは、その『とげ』を伝道のマイナスと捉えていたのでしょう。彼は主イエスに祈ります。
『とげ』とはなにか
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。Ⅱコリント12:7-8
彼は、「肉体のとげを取り除いてくださるようにと3度も願いました。」とありますが、そこでは、単に願ったのではなく
8節 ὑπὲρ τούτου τρὶς τὸν κύριον παρεκάλεσα ἵνα ἀποστῇ ἀπ' ἐμοῦ·
(ヒュペル トゥトゥ トリス トン キュリオン パラカレサ ヒナ アポステー アプ エモー)
こうして、パウロは、『三度も主に願った』と12章8節で語りますが、おそらく、三度きりではなかったことでしょう。新約聖書では、『3』が意味することは三位一体の神の存在とのかかわりです。こうした数を『聖数』と呼び、特別な意味をもち、よく知られた数として『7』という数字がありますが、『3』も聖なるものを象徴的に表わすために用いられた数として知られています。ですから、単にパウロは、『3度も』と言いますが、そこには、父子聖霊の三位一体の神に対して、特別に祈っていた課題であったのでしょう。
さらに『願った』と訳された ”παρεκάλεσα” パラカレサは「強く熱心に懇願した」という意味ですから、パウロは自分の持っていた『とげ』というものに強いコンプレックスを持ち、相当に問題意識を持っていたことがうかがえます。
こうした単語を分析していきますと、パウロは自分が抱えていた問題が、それも ───── 有り体に言えば、証しにならない。つまり、周囲の人が「この人、本当にキリストの栄光を帯びた人物なのか。」「クリスチャンなのか」と思わずにはいられないものを抱えていたと考えられます。
こうしたものを抱えたままでは、パウロは伝道に支障をきたすと考えていたに違いありません。
完全な人間像から逸脱する『とげ』
事実、パウロが表現する『とげ』の姿を見た人々のうち、パウロの使徒として相応しくないと感じていた人々もいたようです。ですから、コリント教会の人たちは、パウロに対する疑念というものを抱かせる原因ともなり、偽教師たちが付け入るきっかけともなっていたようです。
当時の古代ローマ時代は、文化的に古代ギリシャの文化が基礎にあります。
古代ギリシャでは、完全な人間像が求められ、当然のことながら、人間の上に立つ者は完全に近い人物でなければならないことが求められたわけです。
そうした文化にあったコリント教会において、完全な人物こそが教会の指導者として相応しい。むろん、使徒であればなおさらであるべきであるという暗黙の了解があったと思われます。
見えるものを求める人々
古代ギリシャ・ローマ文化の人々だけでなく、一般的に多くの人は、外見や外面的な姿に注力しています。人々はしばしば自己の外見を改善し、他人からの評価や承認を得ようと努力します。外見の美しさや魅力は、社会的な評価や成功に影響を与えると信じられているため、多くの人がそのような努力を行います。
しかし、外見だけでなく、内面的な美徳や価値観も重要であることを示唆しています。外見のみを重視することは、内面的な成長や精神的な豊かさを見落とす可能性があります。したがって、自己啓発や成長に取り組む際には、外見だけでなく内面的な側面にも注目することが重要です。
ギリシャ・ローマ文化に育まれたコリント教会の人々にとって、肉体的な領域だけでなく、精神世界の完全を目指す偽使徒たちの姿は非常に魅力的に映りました。知力・体力・風格に優れている人間を目指したいと願う人々にとって、そのような姿は理想的に映ったのでしょう。同時に、パウロが抱えていた『肉体のとげ』というものは、ギリシャ・ローマ文化の理想像とは異なり、イエス・キリストを信じる信仰による義を伝えていたことから、一部の信仰の浅い人々には理解しがたいものでした。
パウロは、こうしたギリシャ・ローマ世界の思想を熟知しており、自分の肉体の「とげ」さえ解決すれば、すべての問題がなくなるだろうと考えたことでしょう。
『とげ』が取られなかった理由
土の器という認識
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
Ⅱコリント4:7-8
神が『とげ』を取り去らなかった理由は、パウロがその『とげ』を象徴する弱さと貧しさを通じて、福音の栄光を示す最適な背景であることを示していたからです。パウロは、その肉体的な障害を受け入れつつ、自分が完全ではなく、価値のない存在であるという事実を認識し、「土の器」であることを受け入れました。彼は自らの肉体的な欠陥を否定せず、それによって生じる誤解や苦難、福音の無理解に直面しつつ、自身が持つ福音の宝を発見しました。
パウロは、自らの脆弱さや不完全さを持ちながらも、神の力に支えられて苦難と迫害に立ち向かいました。その証言は、神の力が人間の弱さの中で完全に現れることを示し、神の栄光が個々の弱点や欠点の中に輝いていることを示唆しています。この中で浮かび上がるのは、キリストと結びついた使徒の姿です。彼らは、自己を磨き上げ、完全な人間像に向かって努力する英雄ではなく、むしろ隠し通すことのできない欠陥を抱えた姿を持ちながら、キリストの死と復活に根ざした宣教を行うのです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。Ⅱコリント4:10-11
10節から11節に注目すると、そこではイエス・キリストの復活が死を打ち破る力として顕現し、同様に苦難をも打ち破る力として現れることが示されています。この文脈において、パウロはイエス・キリストの福音を伝えることが、当時の人々が外面的な人間性を重視していた社会において、神の栄光を宣べ伝えることを意味し、その使命は命を賭けるほどの重要性があったと説明しています。当時のローマ皇帝は神の子とされており、そのため宣教活動はローマ皇帝を神とする宗教観に対抗し、戦いを挑むことに等しい意味を持っていました。
信仰が輝く
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
Ⅱコリント4:12-13
こうした、パウロの孤独な戦いは、パウロ個人のためではありませんでした。これは信仰者のためでありました。パウロの苦難(死)はキリストの復活のいのちを証しし、信仰者にいのちをもたらしたのです。この自分の欠陥と、環境における苦難の中で勇気を失わずに宣教できる原動力は、信仰です。
13節のカギ括弧は詩篇116:10の70人訳聖書の引用がもとになっていますが、
詩 116:10 「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。
パウロは、70人訳では10節で「私は信じた。それ故に語った。そして私は非常に卑しめられた」と述べ、たとえ苦難があっても語り続けることを宣言しています。
彼は、引用した詩篇の著者と同じく、死を招きかねない苦難を受け入れても、信じることを余儀なくされました。しかし、それは神によって選ばれ、神によって召し出された結果であり、その中心には復活の信仰があります。パウロは、今、苦難の中で生かされているイエスのいのちの恵みが、やがて完成し、終末の時代に神によって完全な者として与えられることを信じています。そのために彼は、勇気を失わずに宣教を続けることができるのです。
神の力が土の器によって明らかになる
4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。
パウロは、自らが土の器として神の力を明らかにする苦難を経験しました。彼はその苦難を『とげ』として理解し、それがすべて信者のためであり、最終的には神の栄光のためであることを理解していました。土の器は割れやすく、金銀やガラスの器に比べると価値が低く、ヒビも入りやすいものですが、それが決して卑しく劣っているわけではありません。
実際、その破れた部分から神の栄光が溢れ出るのです。パウロは『とげ』がもたらす自身の弱さや欠点によって挫折を味わいながらも、人生を諦めることなく、むしろその『とげ』によって神の力が現れる原点であるという知恵を得ていました。また、彼は自らを土の器として捉えることで、イエス・キリストの希望に期待するものとして自己を認識していました。
私たちも完全な人間としての姿や自己の栄光を追求するだけでなく、コンプレックスに陥り卑屈になることもなく、自己満足に陥ることなく、イエス・キリストを受け入れ、その信仰によって完全にされることを信じ、歩もうではありませんか。アーメン。