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吉野山の体験修行で考えたこと(「食事作法」の思い出)
吉野の思い出
吉野は、これまでずっと自分の中にあった。
子どもの頃、夏休みや冬休みになると、今井町にあった母の実家に帰省した。これが心から楽しみだった。
夏休みには、叔父が私をバイクの後ろに乗せて、吉野川に連れて行ってくれた。アユの友釣りや、川辺のキャンプに明け暮れた。
今、すでに今井町には母の実家はない。叔父も数年前に他界した。私は今は神奈川県に住んでいるが、年に2~3回は吉野を訪ねる。わざわざ訪ねてしまう自分がいるのだ。
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吉野山でしばしば出会う人たちとの会話
これまで何度か、吉野山の修行体験に参加させていただいた。とはいっても、大峯奥駆道ではない。そこまでの覚悟はない。高所恐怖症でもあるので怖い。こう考えている時点で参加資格がないと思う。
吉野山で「大峯奥駈修行に何度も参加しました」という方と出会うことがある。普段はサラリーマンとして街で働く方ばかりだ。
そういう方たちの口から「修行すべきだ」と言われたことがない。彼らはただ、「今年も修行させていただきました」と感謝するだけだ。
「私も修行したいと思うのですが」と尋ねると、「わざわざ修行をしなくても、日常の家庭や社会で立派に責任を全うされているのならば、それこそが神仏に通じる修行です」と言われることがほとんど。その上で、「ご縁があって修行にお呼ばれされたらぜひ」と。
名前もお聞きせず、二度と会うこともない。文字通り一期一会だが、吉野山の上ではこういった人生の先輩とたまに出会う。これだけで、吉野山を訪ねた意味があると思う。
修行体験の思い出―食事(じきじ)作法
これまで、何度か修行体験に参加した。何年も前のことだが、今も心に残っていることがある。その日は朝10時30分に集合、蔵王堂で護摩行に参加、その後は東西院で食事作法、その後は境内諸堂参拝がコースだった。
その中の昼食(食事作法・・じきじさほう)が、今も心から離れない。
東西院の畳の部屋だった。作法は「音を立てずに食事をすること」。食べ終わったら、タクアンとお茶を使って椀の中をきれいにゆすぐこと。ただそれだけだ。
指導いただいた山伏の方曰く「曹洞宗の作法はもっと厳しいよ」。
実際にやってみた。食事は素晴らしく美味しかった。しかし、天ぷらがでてくると、音を立てずに食べるのは無理だろうと思い、周りの人の様子を伺いつつ、なんとか食事を終えた。音を立てずに食べることがこれほど難しいとは思わなかった。
実は修行体験の前日、八木駅前の居酒屋で久しぶりの仲間と大酒を食らっていた。騒ぎながら、お皿をガチャガチャ鳴らしながら、クチャクチャ食べ、酒をガンガン飲んで、何度も追加注文した。右のテーブルの若い女子会のキャーキャー騒ぐ声も、左のテーブルの少しヤクザっぽい兄ちゃんたちのタバコの煙も、居酒屋にはなくてはならない盛り立て役だ。
東西院の無言・無音の食事作法を終えた時に全身を覆った爽快感が少し落ち着くと、前夜の居酒屋を思い出した。そして、思った。
「なんだ、昨夜の俺は餓鬼みたいだったな・・」と。
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往生要集に出てくる「餓鬼」
その時「往生要集」を思い出した。ここにはいくつかの餓鬼が出てくる。餓鬼とは、「慳貪と嫉妬の者、餓鬼道に堕つ」とあるように、他人をだまして自分が得をしたり、他人をねたむものが落ちる世界である。
「往生要集」の描写は強烈だ。しかし、いつも思う。ここに描写されている世界は、実は死後に堕ちる世界ではなく、生きている今の描写ではないかと。
そして私は、ここに書かれている餓鬼の描写が怖い。例えば「食吐」。人間の嘔吐物を食いたがり、それすらも食えずに苦しむ鬼である。「食水」という鬼は、飢えと渇きで苦しみ、川を渡った人の足についた水を飲もうとする。
餓鬼はまだいる。常に墓場にいて焼けた遺体を食べるが、それでも満足しない鬼。自分の子供を食い、それでも足りずに飢える鬼。自分の頭を割って自分の脳を食べる鬼。口から火を吐き、飛んでいる蚊を焼いて食う鬼。糞、涕(なみだ)、膿や血、または食器を洗った後の残りを食う鬼・・
色々な餓鬼がいるが、基本は同じだ。常に空腹だが、いくら食べても満足しない。どんどん食べようとする。しかし食事が満足に手に入らない。だからなんでも口に入れる。汚物でも何でもガツガツと口にいれる。しかし満足しない。満ち足りないからなおむさぼる。この繰り返しだ。
私も居酒屋で、食べ物をガツガツと汚く食べていた。いくら食べても飲んでも満足せず、どんどん追加注文する。やがては塩分過多・脂肪過多・アルコール過多によって、心臓疾患や高脂血症などの寿命を縮める病気になるだろう。まさに原因を自分で作っている。それが分かっていても貪り食う。本当に餓鬼のふるまいと何ら変わることがない。見事なまでに似ている。
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では、居酒屋ではしゃぐのはNGなのか??
しかし居酒屋は楽しい。 私はランニングと空手が大好きだ。稽古やトレーニングの後、仲間と焼肉屋や中華に行き、ビールで乾杯して、食べて、飲んで、語るのは本当に楽しい。仕事仲間と飲んだり、旧友と何年振りかに会い、飲むのも楽しい。
しかし、餓鬼にはなりたくない。どうすればよいのか。ふと思い出した一節がある。突然だが、ディケンズの『クリスマス・キャロル』だ。
冒頭のあたりで、強欲スクルージの甥がクリスマスのすばらしさを語るシーンがある。クリスマスは、男も女もみんな隔てなく心を打明け合い、心からお互いを祝福する時だと語るシーンである。たとえ赤の他人でも、行先は同じだ。つまり、みんな同じ墓場へ向かう人生という名の旅の同乗者であることを思い出し、普段は閉じている心を開く日こそがクリスマスだと語るのである。
私はこの言葉が本当に好きだ。そして思った。そうだ、仲間と一緒に楽しく食事やお酒を共にするときは、常にクリスマスのようなものだ。何かの縁で友達となり、一緒のテーブルを囲むにいたった。そういった縁が自分の人生を作っているのだ。だから、食後は「楽しかった。本当にありがとう」と言わなければいけない。
今、友人としてたまたま一緒にいても、お互い別々の人生を歩んでいる。
しかし、目的地は同じだ。いずれはこの世の縁が尽き、みんな命を失なう。。それまでの間、お互い、幸せな人生をしっかりと歩もう。このように言わなければいけない。
・・・というのは極端だろう。飲んだ後にこんなことを言いだしたら気持ち悪がられるだろう。だから言うつもりはないが、たまには心の中で思い返したい。このように思える居酒屋の一席なら、餓鬼に陥ることがないのではないだろうか。そしておそらくは、吉野の神仏も許してくれるのではないだろうか?
以上、私にとって吉野での修行は、たとえ半日体験でも、いろいろなことを考えさせる素晴らしいきっかけだった。吉野の修行体験は、数時間でもすごい。
下記に、本文で記した「往生要集」の原文を記しておきます。
「常に嘔吐を求むるに、困んで(くるしんで)得ることあたわず」。
「飢渇身を焼き、周慞(しゅうしょう・・うろたえさわぐこと)して水を求むるに、困んで(くるしんで)得ることあたわず。長き髪面を覆ひ、目見る所なく、河の辺に走り趣いて、もし人河を渡りて、脚足の下より遺し(のこし)落ちせる余水あれば、速かに疾く接し取りて、以て自ら活命す」
「常に塚の間に至りて、屍を焼ける火を噉(く)ふ(貪り食うの意味)に、なお足ることあたわず」
「或は鬼あり。昼夜におのおの五子を生むに、生むに隋ひてこれを食へども、なほ常に飢ゑて乏し。また鬼あり。一切の食、皆噉ふことあたはず。ただ自ら頭を破り脳を取りて食ふ。或は鬼あり。火を口より出し、飛べる蚊の、火に投ずるを以て飲食(おんじき)となす。或は鬼あり。糞・涕・膿血、洗ひし器の遺余を食ふ」