奈良で感じる日本人の信仰(2)- 大和長谷寺にて
1.隠国(こもりく)の初瀬
「仏教伝来之地」の碑から大和川の上流に向かい、初瀬街道を東に進む。道の両脇に次第に山が迫ってくると、まもなく初瀬(はせ)の地に入る。車だと数十分で着く。大和川もいつのまにか初瀬川と名前が変わる。
初瀬の名前は古く、万葉集にも詠われている。枕詞は「隠国」(こもりく)。山に囲まれた閉ざされた地のイメージが漂う。初瀬の語源は「果つ瀬(はつせ)」。この世の果てのことである。そういえば、柿本人麻呂もこの地で亡き妻を偲んだ。
隠国の初瀬の山の山の際(ま)に いさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ
死者が身近に感じられる地だったのだろう。
2.長谷寺を訪ねる
この地に長谷寺(初瀬寺)がある。天武天皇の時代に創建された古いお寺だ。現在は真言宗豊山派の総本山として全国の末寺を束ねている。
仁王門をくぐると長い登楼が続く。浅い階段を一歩一歩登り、大悲閣と呼ばれる本堂の舞台に立つと、眼下に初瀬が広がる。隠国の地らしく、平地はなく、周囲は山に囲まれている。
ご本尊は十一面観音。「わらしべ長者」の観音様だ。山門を出た時に転んでしまい、その時に手にしたワラが次第に宝物へと交換されていくストーリーだが、さきほど通り抜けた仁王門がその山門だったのだろうか。
3.朝の勤行で思ったこと
長谷寺の一日は僧侶の読経で始まる。一般参拝者も朝勤行に参列できる。ただ、早朝(夏は午前6時半、冬は午前7時)に本堂に辿り着くのは大変だ。長谷寺駅から参道を駆けるなら30分はほしい。近隣に宿泊施設は少ない。私はいつも橿原市か桜井市内のホテルに泊まり、レンタカーで長谷寺に駆け付ける。遠方の人は大変だと思うけどぜひ訪ねてほしい。参列すればすべての苦労が吹き飛ばされるはずだ。
春夏秋冬の美しい自然に魅了されながら、徳川家光が寄進した国宝の本堂に上がり、巨大な観音の目線の下に座る。お坊さん達はまず「錫杖経」を捧げる。長谷寺観音はお地蔵さんが持つ錫杖を持っているからである。そして「般若心経」「観音経」と続く。
4.実は観音様が私たちにお経を唱えてくれていた
お坊さん達の読経に合わせて、私たち一般参拝者も経典の文字を追いかける。そして、一緒に声を出そうと試みる。最初の頃は、読経についていくだけで精いっぱいだった。
しかし何度か通い、少しゆとりが出てきたとき、ふと気づいた。「観音様に届け」と一生懸命に張り上げる自分の声が、僧侶や他の参列者の声と溶け合っているのだ。
そうしているうちに、一体となった読経の声が、実は観音様の声ではないか、と思えてきた。私たちは観音様に向かってお経を捧げているつもりだ。しかし、本当は、観音様が私たちにお経を捧げてくれているのだ。こう分かると、私たち人間と観音様の間にあった境界が消えた。
4.千年の歴史の上に重ねられた新たな1日
お坊さん達は読経が終わると立ち上がり、舞台まで移動する。そして隠国の山々に向かって遥拝する。神や仏、高僧の霊、さらには戦没者や災害で犠牲となった人たちの霊に対しても祈りを捧げる。
最後に、私たち参拝者の前に並び「おはようございます」と大きな声で挨拶してくれる。そして、お寺のことなどを私たちに教えてくれる。
ある時のことだった。「この勤行は千年以上毎日欠かすことなく続いてきました。そして今日、皆さんの参拝によって、さらに新たな一日が積み重ねられました」との言葉があった。
この言葉を聞いてすでに数年も経ったが、今もはっきりと覚えている。この一言を心に留めて長谷寺を歩くと、過去の参拝者の姿が目に浮かぶ。
5.過去に長谷寺に参拝に来た人たち
紫式部や清少納言は、平安京から牛車に乗って参拝にきた。「更級日記」作者の菅原孝標の女は観音の「夢のお告げ」を求めてきた。能「井筒」に登場する僧侶は、長谷寺への道中、在原業平の妻の霊に出会った。能といえば、源氏物語が原作の「玉鬘」は長谷寺が舞台である。
紀貫之もよく参拝に訪れた。彼は長谷寺の近くに常宿があった。ある時、久しぶりにその宿を訪ねると、宿の主人は「心変わりしたのか」と嫌味を言った。すると紀貫之は、あまりにも有名な次の歌を詠んだ。
人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香(か)ににほひける
(古今集)
梅は毎年咲く。このことは変わらない。しかし人の心は変わるかもしれない。紀貫之はこう答えた。おどけてみせたのかもしれないが、深読みすれば、人の命の無常を指摘したのかもしれない。彼は有名な「土佐日記」にあるように、今の高知県に赴任した。そこで愛娘に先立たれた。都に戻ってきたとき、いたはずの娘がいない。その寂しさが伝わる気がする。
6.私のご先祖も長谷寺に来ていた
長谷寺を参拝したのは教科書に載る人たちばかりではない。私の祖母も長谷寺の観音様を信仰していた。私が幼いころ、祖母に手を引かれてお参りに来た。今井町の祖母の家から近鉄に乗り、長谷寺駅で降りて参道を歩いたことを今もおぼろげに覚えている。
祖母は亡くなり家もすでに無い。しかし最近、叔父の家で偶然昔のアルバムを見た。すると、若い祖母とともに、私が会ったことのない曽祖父の姿も長谷寺の舞台に立っていた。
いったい、過去にどれほど多くの人たちが、長谷寺に来て観音様に祈りを捧げたのだろうか。おそらく私がこの世から去った後も、これから生まれてくる人たちが長谷寺に参拝に来るのだろう。
7.隠国の初瀬で感じる命の「無常」
なぜ千年以上にわたって人々は長谷寺の観音様に祈ったのか。このことを考えるとき、長谷寺門前に立つ万葉歌碑を思い出す。小さいので注意しなければ見逃してしまう。
隠国の初瀬の山に照る月は 満ち欠けしけり人の常無き (万葉集)
この作者(読み人知らず)は、飛鳥時代か奈良時代という太古の昔、この地に立ち、夜空を見上げ、月の満ち欠けを見た。そして感じた。月は欠けても再び満月となるが、人は命を失うと再び戻ってこないことを。
死者の世界が近くにある隠国の地は、命の短さをより一層強く感じるのかもしれない。では、わざわざこの地に来て、この地の観音様に手を合わる人の列が1000年間も続いたのはなぜだろう。
8.観音様の永遠の命と一つになるために
松原泰道氏の『観音経入門』を読んで、この答えが分かった気がする。本書曰く、人が観音様を拝むとき、実は観音様も人を拝んでいるとある。つまり、お互いが祈りあうのだ。
人と観音様は違う。人の命は限りがあるが、観音様の命は永遠である。なるほど、だから人は観音様を拝むのだ。永遠の命に触れ、永遠の命と溶け合うために。
私の先祖も、観音様を拝み、観音様に拝んでもらい、観音様と一つになった。つまり目の前の観音様は私の先祖でもある。そして、千年以上、観音様に祈りをささげてきた無数の命でもある。
ならば私も、観音様に祈り、観音様に祈ってもらおう。そして私も観音様の命に溶け合い、永遠の命の中を生きよう。私の命が果てても、観音様の中で生きている私は、後世の人たちに拝まれるであろう。