當麻寺で日本人の死生観を考えた
私の母の実家があった今井町の西に立つと、遠くに二上山がよく見える。母方のご先祖が眠るお墓からも二上山がよく見える。
奈良に住む人々は、飛鳥に都があった頃から、二上山を毎日見ていたのであろう。そして、毎日、二上山の向こうに沈む夕日を見ていたに違いない。
中将姫(747年生まれ)もその一人であっただろう。彼女は継母に虐げられ、命も狙われるなど、この世の苦しみを一身に背負い、二上山の山麓にある當麻寺で出家した。そして29歳でこの世との縁が尽きる時、二上山に沈む夕日の中から二十五菩薩が現われ、中将姫を迎え取り、西方極楽浄土へと導いていった。竹取物語の原型ともいわれる中将姫伝説である。
當麻寺は二上山を背に建っている。本堂の本尊は、仏像ではなく曼荼羅が祀られている。現在の私たちが目にするのは室町時代の文亀曼荼羅であり、中将姫が一晩で織った当麻曼荼羅の模写だという。描かれているのは阿弥陀如来を中心に据えた極楽浄土の姿である。
4月、當麻寺では千年以上続く「練供養」が行われ、境内は多くの人でにぎわう。この日、「極楽堂」と呼ばれる本堂から、二十五菩薩が続々と現れ、来迎橋という長い橋の上を練り歩き、娑婆堂に向かう。ここで中将姫を迎え取ると、踵を返して夕日が照らす二上山に連れていく。その姿は極楽浄土に吸い込まれるように映る。千年以上続く日本人の信仰を体感できる瞬間である。
練供養を始めたのは源信(942―1017年)といわれている。源信は當麻寺からほど近い阿日寺に生まれた。彼が比叡山で書いた「往生要集」は岩波文庫にも収められている。この本が、日本人の信仰に与えた影響は計り知れない。しかもその影響は1000年間も続いている。
「往生要集」冒頭には地獄の姿が延々と描かれている。たとえば「等活地獄」。ここに堕ちた罪人は、人を見ると必ず害を与えようと攻撃する。鉄の爪でお互い裂き合い、血を流し、肉を削ぎ、お互い骨となる。しかし、涼風が吹くと肉体が戻る。すると、再び鉄の爪で裂き合う。こうして、気の遠くなる長い間、罪人は人を傷つけ、人に傷をつけられることを繰り返す。
罪人は「孤独にして同伴なし」と嘆くが、獄卒は「自業自得の果なり」と説く。そして、親といえども助けることはできないと言い渡される。体は苦しめられ、心は孤独だが、人を傷つけることは止めない。あるいは欲望のまま行動して破滅の道を進む。これが地獄の世界だ。
「往生要集」が描写する地獄は、我欲のために人を蹴落として恥じない私たちの姿にも見える。そう考えると、地獄は死後の「あの世」ではなく、まさに今私たちが生きているこの世だと気づく。そして心から恐怖する。まさに今、私たちは地獄に住んでいるのだ、と。
しかし人は生きるためには罪を犯さざるを得ない。罪を犯したら地獄に堕ちると分かっていても、罪を犯すことを選んでしまう。これが人間だ。知れば知るほど自分の愚かさに苛まされる。自分の愚かさに苦しみもだえる。
源信や、源信を受け継いだ法然や親鸞は、自分の愚かさに苦しみ、地獄に堕ちる怖れを抱く人に、その苦しみや恐怖こそがまさに極楽浄土への切符だと言い渡してくれた。多くの人々がこの言葉にすがった。こうして日本人の信仰や死生観が形成されていった。
當麻寺では曼荼羅を解説する「絵解き」をお願いできる。「口減らしのために寺に預けられた」という高齢のお坊さんが、独特の節を付けながら阿弥陀如来や勢至菩薩、観音菩薩の功徳を語ってくれる。
この「絵解き」を聞きながら、不思議なことに自分の死後や生まれる前を想像してしまった。そして、一生という有限の時間を超えて、もっと長い時間軸で自分の命を捉えようと思った。生まれる前も生きていたし、死んだ後も生きていく。まさにこれが、私たち日本人が脈々と受け継いできた死生観だ。その証拠に、古典や和歌、能などの伝統芸能のどこを見ても「死んだらおしまい」という発想はない。命の有限さ、すなわち「無常」は説くが、命は尽きても「おしまい」ではない。
しかし、今の日本人は、いつからか「死んだらおしまい」といった刹那的な死生観を抱くに至った。心がやせ衰えてしまった。
だからであろうか、たとえば文学・哲学・歴史・宗教などの教養が軽視されている。これらを「仕事の役に立たない」と切り捨てる人のなんと多いことか。一方で、今多くの人が「寺じまい」「墓じまい」に翻弄されていると聞く。
今の日本は息苦しい。本屋にも「ビジネスに役立つ本」がやたら多い。文学・哲学・歴史・宗教すら「ビジネスに役立つ」との冠をつけた本があふれている。ビジネスに役立たない文学・哲学・歴史・宗教は必要ではないと言いたいのだろう。ましてや「自分が生まれる前」や「死んだ後」のことを考えるなんてどうにかしていると言われそうだ。
ならば問いたい。「ビジネスは人生の役に立つのか。」
ビジネスのために多くを犠牲にする人は多い。ならばそのビジネスは人生の役に立っていないではないか。
ビジネスのために人生があるのではない。もしそうなら、ビジネスができない人生に価値がなくなる。そうではない、豊かな人生を送るためにビジネスがあるのだ。そして、人生を豊かにするには文学・哲学・歴史・宗教は絶対に必要だ。ビジネスのために人生があるという考えは、源信が説く地獄の世界の考えだ。